ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年07月

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 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、戦後初の国内民間航空会社である日本航空(会長:藤山愛一郎)の創立総会が開催された日です。
 日本航空(にほんこうくう)は、日本を代表する大手航空会社で、日航、JAL(ジャル)とも呼ばれてきました。ナショナル・フラッグ・キャリアとして世界各国に路線を持ち、ワンワールド・アライアンスに加盟しています。
 1951年(昭和26)に、政府主導の半官半民の企業として設立され、1953年(昭和28)には、「日本航空株式会社法」に基づき特殊法人となりました。1954年(昭和29)に東京~サンフランシスコ線など国際定期便の運航を開始し、1967年(昭和42)には、世界一周路線を開設します。
 1975年(昭和50)に、日本と台湾を結ぶ航路を分離して日本アジア航空を設立、1987年(昭和62)には、「日本航空株式会社法」廃止により完全民営化されました。しかし、2000年代に入り、利用客の減少や、経営不振に陥った日本エアシステム(JAS)との合併などから業績が低迷し、2010年(平成22)には、財務の悪化に伴い「会社更生法」の適用を申請するに至ります。
 その後、2011年(平成23)に会社更生手続が終結し、社名を日本航空に変更し、経営体制を一新、2012年(平成24)には、東京証券取引所に再上場を果たしました。

〇日本航空関係略年表

・1951年(昭和26)7月31日 「日本航空株式会社」(会長:藤山愛一郎)として創立総会が開催される
・1953年(昭和28) 「日本航空株式会社法」に基づき特殊法人となる
・1954年(昭和29) 東京~サンフランシスコ線など国際定期便の運航を開始する
・1967年(昭和42) 世界一周路線を開設する
・1975年(昭和50) 日本と台湾を結ぶ航路を分離して日本アジア航空を設立する
・1987年(昭和62) 「日本航空株式会社法」廃止により完全民営化される
・2002年(平成14) 日本エアシステムと持株会社日本航空システムを設立する
・2004年(平成16) 日本エアシステムと完全統合し、日本航空システムから日本航空に名称を変更する
・2006年(平成18) 「株式会社日本航空ジャパン」(旧「株式会社日本エアシステム」)を吸収合併する
・2010年(平成22) 財務の悪化に伴い「会社更生法」の適用を申請、持株会社日本航空と日本航空インターナショナルなど5社が合併する
・2011年(平成23) 会社更生手続が終結し、社名を日本航空に変更し、経営体制を一新する
・2012年(平成24) 東京証券取引所に再上場を果たす

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1924年(大正13)村上駅~鼠ケ関駅間の延伸開業で羽越本線が全通し、敦賀駅~青森駅間の日本海縦貫線が完成する詳細
1948年(昭和23)「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細
1986年(昭和61)外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日詳細
2006年(平成18)小説家吉村昭の命日詳細

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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、冶金学者俵国一の亡くなった日です。
 俵国一(たわら くにいち)は、明治時代前期の1872年(明治5年2月28日)に、島根県浜田において、農家に生まれましたが、上京後、第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科に入学しました。1897年(明治30)に卒業後、同大学助教授となり、1899年(明治32)からドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学びます。
 1902年(明治35)に帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となり、1903年(明治36)には、ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得ました。1907年(明治40)に海軍大学校教授を兼任、1910年(明治43)に勲五等瑞宝章を受章、1915年(大正4)には、日本鉄鋼協会の創立に関わります。
 1921年(大正10)に「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1922年(大正11)には、日本鉄鋼協会(第4代)会長となりました。1923年(大正12)に東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員、旅順工科大学商議員、1924年(大正13)には、帝国経済会議議員となります。
 1925年(大正14)に帝国学士院会員、従三位となり、1926年(大正15)に日本鉱業会の会長に選ばれ、1930年(昭和5)には、再び日本鉄鋼協会(第8代)会長となりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受け、その後は、日本学術振興会の仕事に尽力しましたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に東京・小石川駕篭町において被災し、熱海に疎開、来ノ宮の別邸に住みます。
 冶金学発展の基礎を作った功績により、1946年(昭和21)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1956年(昭和31)に神奈川県鎌倉市に転居しましたが、1958年(昭和33)7月30日に、同所において、86歳で亡くなっています。

〇俵国一の主要な著作

・『日本刀の科学的研究』
・『鉄と鋼の製造法及び性質』
・『古来の砂鉄製錬法』

☆俵国一関係略年表(明治25年以前の日付は旧暦)

・1872年(明治5年2月28日) 島根県浜田において、農家に生まれる
・1897年(明治30) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科を卒業、同大学助教授となる
・1899年(明治32) ドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学ぶ
・1902年(明治35) ドイツに留学から帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となる
・1903年(明治36) ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得る
・1907年(明治40) 海軍大学校教授を兼任する
・1910年(明治43) 勲五等瑞宝章を受章する
・1915年(大正4) 日本鉄鋼協会を創立する
・1921年(大正10) 「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1922年(大正11) 日本鉄鋼協会第4代会長となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員となり、旅順工科大学商議員となる
・1924年(大正13) 帝国経済会議議員となる
・1925年(大正14) 帝国学士院会員となり、従三位となる
・1926年(大正15) 日本鉱業会の会長に選ばれる
・1930年(昭和5) 日本鉄鋼協会第8代会長となる
・1932年(昭和7) 東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受ける
・1935年(昭和10) 「冶金学上より見たる日本刀の特色」を宮中進講する
・1945年(昭和20) 東京・小石川駕篭町において被災後、熱海に疎開し、来ノ宮の別邸に住む
・1946年(昭和21) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1956年(昭和31) 神奈川県鎌倉市に転居する
・1958年(昭和33)7月30日 神奈川県鎌倉市において、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1502年(文亀2)連歌師・古典学者宗祇の命日(新暦9月1日)詳細
1907年(明治40)日本とロシアとの間で、「第一次日露協約」が締結される詳細
1913年(大正2)歌人・小説家伊藤左千夫の命日(左千夫忌)詳細
1965年(昭和40)小説家谷崎潤一郎の命日(潤一郎忌)詳細
1971年(昭和46)全日空機雫石衝突事故が起き、乗員乗客162人全員が死亡する詳細
1988年(昭和63)北陸自動車道の朝日IC~名立谷浜ICが開通し、新潟黒埼IC~米原JCTが全通する詳細
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 今日は、平成時代の1999年(平成11)に、小説家・フランス文学者辻邦生が亡くなった日です。
 辻邦生(つじ くにお)は、大正時代の1925年(大正14)9月24日に、東京市本郷区駒込(現在の東京都文京区)において、ジャーナリストで薩摩琵琶の伴奏家だった父・辻靖剛の子として生まれました。1930年(昭和5)に、愛知県名古屋市へ転居し、1932年(昭和7)には、東京へ戻り、赤坂区に住みます。
 旧制日大三中を経て、1944年(昭和19)に旧制松本高等学校理科乙類へ入学、翌年には、文科乙類へ転科し、寮生活において斎藤宗吉(北杜夫)と知り合い、終生交流を持つこととなりました。1949年(昭和24)に学制改革により信州大学に変わってから卒業し、東京大学文学部仏文学科へ入学します。
 1952年(昭和27)に卒業し、同大学の大学院へ進学、翌年には、後藤佐保子(のち名古屋大学名誉教授、ビザンツ美学美術史専攻)と結婚しました。1956年(昭和31)に学習院大学講師となり、1957年(昭和32)からフランス・パリ大学へ留学し、1961年(昭和36)に帰国します。
 1963年(昭和38)に『廻廊にて』で第4回近代文学賞を受賞、1966年(昭和41)には、立教大学助教授となりました。1969年(昭和44)に『安土往還記』で第19回芸術選奨新人賞、1973年(昭和48)には、『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞を受賞します。
 この間、東京農工大学教授を経て、1975年(昭和50)には、学習院大学教授となりました。1991年(平成3)に学習院大学教授を退任し、講師となり、1995年(平成7)には、『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞を受賞、イタリア共和国功労勲章カバリエーレ・ウフィチアーレ章も受章します。
 1996年(平成8)には、日本芸術院会員となったものの、1999年(平成11)7月29日に、長野県北佐久郡軽井沢町の別荘において、心筋梗塞による心不全のため73歳で亡くなりました。

〇辻邦生の主要な著作

・小説『廻廊にて』(1963年)第4回近代文学賞受賞
・小説『夏の砦』(1966年)
・小説『安土往還記』(1968年)第19回芸術選奨新人賞受賞
・評論『小説への序章 神々の死の後に』(1968年)
・小説『嵯峨野明月記』(1971年) 
・小説『背教者ユリアヌス』(1972年)第14回毎日芸術賞受賞
・戯曲『祝典喜劇 ポセイドン仮面祭』(1973年)
・『パリの手記』全5巻(1974年)
・小説『春の戴冠(たいかん)』(1977年)
・小説『フーシェ革命暦』(1981年)
・小説『樹の声海の声』上中下(1982年)
・小説『雲の宴(うたげ)』(1987年)
・エッセイ『黄金の時刻(とき)の滴り』(1993年)
・評伝『トーマス・マン』(1994年)
・小説『西行花伝』(1995年)第31回谷崎潤一郎賞受賞
・クリストフ・バタイユの翻訳『安南』(1995年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『アブサン』(1996年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『光の大地』(1996年)
・作品集『花のレクイエム』(1996年)
・クリストフ・バタイユの翻訳『時の主人』(1997年)

☆辻邦生関係略年表

・1925年(大正14)9月24日 東京市本郷区駒込(現在の東京都文京区)において、ジャーナリストで薩摩琵琶の伴奏家だった父・辻靖剛の子として生まれる
・1930年(昭和5) 愛知県名古屋市へ転居する
・1932年(昭和7) 東京へ戻り、赤坂区に住む
・1944年(昭和19) 旧制松本高等学校理科乙類へ入学する
・1945年(昭和20) 文科乙類へ転科し、寮生活において斎藤宗吉(北杜夫)と知り合う
・1946年(昭和21) 三俣蓮華岳の山小屋に1か月番人をする
・1949年(昭和24) 学制改革により信州大学を卒業し、東京大学文学部仏文学科へ入学する
・1952年(昭和27) 東京大学文学部仏文学科を卒業し、同大学の大学院へ進学する
・1953年(昭和28) 辻佐保子(旧姓後藤、のち名古屋大学名誉教授、ビザンツ美学美術史専攻)と結婚する
・1956年(昭和31) 学習院大学講師となる
・1957年(昭和32) フランス・パリ大学へ留学する
・1961年(昭和36) フランス・パリ大学留学から帰国する
・1963年(昭和38) 『廻廊にて』で第4回近代文学賞を受賞する
・1966年(昭和41) 立教大学助教授となる
・1969年(昭和44) 『安土往還記』で第19回芸術選奨新人賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『背教者ユリアヌス』で第14回毎日芸術賞を受賞する
・1975年(昭和50) 学習院大学教授となる
・1981年(昭和56) 父の死去を機に辻家の家系を探訪する
・1991年(平成3) 学習院大学教授を退任し、講師となる
・1995年(平成7) 『西行花伝』で第31回谷崎潤一郎賞を受賞、イタリア共和国功労勲章カバリエーレ・ウフィチアーレ章を受章する
・1996年(平成8) 日本芸術院会員となる
・1998年(平成9) 鎌倉を取材旅行する
・1999年(平成11)7月29日 長野県北佐久郡軽井沢町の別荘において、心筋梗塞による心不全のため73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)「日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1905年(明治38)「桂・タフト協定」が締結される詳細
1957年(昭和32)「国際原子力機関憲章(IAEA憲章)」が発効し、国際原子力機関(略称:IAEA)が設立される詳細
1969年(昭和44)冶金学者・化学者村上武次郎の命日詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細
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nihontetsudouuenoeki01
 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、日本初の私設鉄道(馬車鉄道を除く)として、日本鉄道会社の上野駅~熊谷駅間(現在の東北本線・高崎線)が開業した日です。
 日本鉄道会社(にっぽんてつどうかいしゃ)は、日本最初の私設鉄道会社(馬車鉄道を除く)でした。1881年(明治14)に岩倉具視らの主唱により、主として旧大名、公卿華族が出資しての創立が決定され、11月11日に設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立されます。
 同年に東京~青森間などの鉄道路線の免許を申請、1882年(明治15)に川口~熊谷間から鉄道建設を開始、1883年(明治16)7月28日に、日本初の私設鉄道として、上野駅~熊谷駅間の営業運転を開始しました。翌年に高崎駅まで延伸、1885年(明治18)には、品川~新宿~赤羽間が開業、生糸の横浜への輸送で鉄道の経済効果を実証します。
 その後、北に向かって順次延伸開業させていき、1891年(明治24)には、日光線と共に、上野駅~青森駅間(東北線)が全通しました。1892年(明治25)に水戸鉄道、1897年(明治30)には、両毛鉄道を譲り受けて、路線を拡大します。1898年(明治31)には、常磐線の大部分(上野駅~岩沼駅間)が全通しました。しかし、1906年(明治39)11月1日に「鉄道国有法」により国有化されます。解散時の資本金は6,600万円、路線延長1388.8kmで、明治時代最大の私鉄でした。

〇日本鉄道会社関係略年表

・1881年(明治14)8月1日 岩倉具視らの主唱により、主として旧大名、公卿華族が出資しての創立が決定される
・1881年(明治14)11月11日 設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立される 
・1881年(明治14) 東京~青森間などの鉄道路線の免許を申請する
・1882年(明治15) 川口~熊谷間から鉄道建設を開始する
・1883年(明治16)7月28日 日本初の私設鉄道として、上野駅~熊谷駅間の営業運転を開始する
・1884年(明治17)5月1日 高崎駅まで延伸される
・1885年(明治18)3月1日 品川~新宿~赤羽間が開業する
・1885年(明治18)7月16日 大宮~宇都宮間が開業する
・1887年(明治20)7月16日 郡山まで開業する
・1887年(明治20)12月15日 仙台を経て塩釜まで開業する
・1890年(明治23)4月16日 一ノ関駅まで開業する
・1890年(明治23)11月1日 盛岡駅まで開業する
・1890年(明治23)6月1日 宇都宮駅~今市駅間が開業する
・1890年(明治23)8月1日 今市駅~日光駅間が開業し、日光線が全通する 
・1891年(明治24)9月1日 上野~青森間が全通する
・1892年(明治25)3月1日 水戸鉄道を譲り受ける
・1897年(明治30)1月1日 両毛鉄道を譲り受ける
・1898年(明治31)8月23日 常磐線の大部分(上野駅~岩沼駅間)が全通する
・1906年(明治39)11月1日 「鉄道国有法」により国有化される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)「太政官布告第272号(地租改正)」と付属の「地租改正条例」が公布される詳細
1907年(明治41)ロシアのサンクトペテルブルクにおいて、「日露漁業協約」が調印される詳細
1941年(昭和16)日本軍が南部仏印進駐を開始する詳細
1945年(昭和20)青森大空襲において、焼失家屋18,045戸、被災者70,166人、死者1,018人、重軽傷者は255人を出す詳細
1965年(昭和40)推理小説家江戸川乱歩の命日(乱歩忌)詳細
1989年(平成元)「緑の文明学会」・「社団法人日本公園緑地協会」が日本の都市公園100選を選ぶ詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、遺伝学者木原均の亡くなった日です。
 木原均(きはら ひとし)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月21日に、東京市の芝白金に生まれ、麻布中学校を経て、1912年(大正元)に東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)大学予科に入学しました。1913年(大正2)に大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当、1915年(大正4)には、農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻します。
 1918年(大正7)に卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学、1920年(大正9)に京都帝国大学理学部植物学教室助手となり、1922年(大正11)には講師に昇進しました。1924年(大正13)に「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、助教授(農林生物学第三講座)に昇進、1925年(大正14)からドイツ、イギリス、アメリカに留学します。
 1927年(昭和2)に教授(実験遺伝学講座)に昇進、1940年(昭和15)には、京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞しました。1942年(昭和17)に財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務め、1943年(昭和18)に「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞、1944年(昭和19)には、パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見します。
 太平洋戦争後の1948年(昭和23)に文化勲章を受章、1949年(昭和24)に日本学士院会員に選任され、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1955年(昭和30)に京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となります。
 一方で、スポーツに熱心で、1958年(昭和33)に全日本スキー連盟会長(1968年まで)となり、1960年(昭和35)の第8回冬季オリンピック(スコーバレー)、1964年(昭和39)の第9回冬季オリンピック(インスブルック)では、日本選手団団長となり、1972年(昭和47)の第11回冬季オリンピック(札幌)では、組織委員を務めました。1974年(昭和49)に麻布学園理事長となり、1975年(昭和50)に勲一等旭日大綬章を受章、1977年(昭和52)には、アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞します。
 1985年(昭和60)に今までの業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立されましたが、1986年(昭和61)7月27日に、神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈されました。

〇木原均の主要な著作

・『小麦の細胞遺伝学的研究』(1943年)
・『実験遺伝学』(1949年)
・編著『小麦の研究』(1954年)
・『コムギの合成 - 木原均随想集』(1973年)
・『一粒舎主人寫眞譜』(1985年)

☆木原均関係略年表

・1893年(明治26)10月21日 東京市の芝白金に生まれる
・1912年(大正元) 東北帝国大学農科大学(現:北海道大学)大学予科に入学する
・1913年(大正2) 大正2年度寮歌「幾世幾年」の作歌を担当する
・1915年(大正4) 農学科第三部(のちの農業生物学科、現在の応用生命科学科)に進学し植物生理学を専攻する
・1918年(大正7) 卒業論文は「花粉に及ぼす低温の影響」を書いて、北海道帝国大学農学部を卒業し、同大学院へ進学する
・1920年(大正9) 京都帝国大学理学部植物学教室助手となる
・1922年(大正11) 京都帝国大学理学部植物学教室講師となる
・1924年(大正13) 「雜種に於ける染色体の行動及不實性を特に考察せる重要禾殻の細胞學的並に遺傳學的研究」で農学博士となり、京都帝国大学農学部農林生物学科助教授(農林生物学第三講座)となる
・1925年(大正14) ドイツ、イギリス、アメリカに留学する
・1926年(大正15) 実験遺伝学講座へ移る
・1927年(昭和2) 京都帝国大学農学部農林生物学科教授(実験遺伝学講座)となる
・1940年(昭和15) 京都帝国大学評議員(1942年まで)となり、日本遺伝学会賞を受賞する
・1942年(昭和17) 財団法人木原生物学研究所が創設(京都)され所長を務める
・1943年(昭和18) 「小麦の細胞遺伝学的研究」で、学士院恩賜賞を受賞する
・1944年(昭和19) パンコムギの祖先の1つがタルホコムギであることを発見する
・1948年(昭和23) 文化勲章を受章する
・1949年(昭和24) 日本学士院会員に選任される
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1955年(昭和30) 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長を務め、国立遺伝学研究所所長(1969年まで)併任となる
・1957年(昭和32) 木原生物学研究所が横浜に移設され、スウェーデン王立農大名誉博士となる
・1958年(昭和33) 第4代全日本スキー連盟会長(1968年まで)となる
・1959年(昭和34) 京都大学名誉教授となる
・1960年(昭和35) 日本原子力委員会委員長(1964年まで)となり、第8回冬季オリンピック(スコーバレー)日本選手団団長となる
・1964年(昭和39) 農林省植物ウイルス研究所所長(1968年まで)となり、第9回冬季オリンピック(インスブルック)日本選手団団長となる
・1969年(昭和44) 木原生物学研究所三島分室(静岡県三島市)が開設(1978年まで)される
・1972年(昭和47) 第11回冬季オリンピック(札幌)の組織委員となる
・1974年(昭和49) 麻布学園理事長となる
・1975年(昭和50) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1977年(昭和52) アメリカ園芸学会賞、遺伝学大賞を受賞する
・1984年(昭和59) 木原生物学研究所を横浜市立大学に移管、横浜市立大学木原生物学研究所が発足、名誉所長となる
・1985年(昭和60) 木原の業績を記念し、21世紀に向けて生命料学の振興を図ることを目的に木原記念横浜生命科学振興財団が設立される(2013年に公益財団法人に移行)
・1986年(昭和61)7月27日 神奈川県横浜市において、92歳で亡くなり、正三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1471年(文明3)浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てる(新暦8月13日)詳細
1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
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