
俵国一(たわら くにいち)は、明治時代前期の1872年(明治5年2月28日)に、島根県浜田において、農家に生まれましたが、上京後、第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科に入学しました。1897年(明治30)に卒業後、同大学助教授となり、1899年(明治32)からドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学びます。
1902年(明治35)に帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となり、1903年(明治36)には、ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得ました。1907年(明治40)に海軍大学校教授を兼任、1910年(明治43)に勲五等瑞宝章を受章、1915年(大正4)には、日本鉄鋼協会の創立に関わります。
1921年(大正10)に「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1922年(大正11)には、日本鉄鋼協会(第4代)会長となりました。1923年(大正12)に東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員、旅順工科大学商議員、1924年(大正13)には、帝国経済会議議員となります。
1925年(大正14)に帝国学士院会員、従三位となり、1926年(大正15)に日本鉱業会の会長に選ばれ、1930年(昭和5)には、再び日本鉄鋼協会(第8代)会長となりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受け、その後は、日本学術振興会の仕事に尽力しましたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に東京・小石川駕篭町において被災し、熱海に疎開、来ノ宮の別邸に住みます。
冶金学発展の基礎を作った功績により、1946年(昭和21)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1956年(昭和31)に神奈川県鎌倉市に転居しましたが、1958年(昭和33)7月30日に、同所において、86歳で亡くなっています。
1902年(明治35)に帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となり、1903年(明治36)には、ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得ました。1907年(明治40)に海軍大学校教授を兼任、1910年(明治43)に勲五等瑞宝章を受章、1915年(大正4)には、日本鉄鋼協会の創立に関わります。
1921年(大正10)に「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1922年(大正11)には、日本鉄鋼協会(第4代)会長となりました。1923年(大正12)に東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員、旅順工科大学商議員、1924年(大正13)には、帝国経済会議議員となります。
1925年(大正14)に帝国学士院会員、従三位となり、1926年(大正15)に日本鉱業会の会長に選ばれ、1930年(昭和5)には、再び日本鉄鋼協会(第8代)会長となりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受け、その後は、日本学術振興会の仕事に尽力しましたが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に東京・小石川駕篭町において被災し、熱海に疎開、来ノ宮の別邸に住みます。
冶金学発展の基礎を作った功績により、1946年(昭和21)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)には、文化功労者となりました。1956年(昭和31)に神奈川県鎌倉市に転居しましたが、1958年(昭和33)7月30日に、同所において、86歳で亡くなっています。
〇俵国一の主要な著作
・『日本刀の科学的研究』
・『鉄と鋼の製造法及び性質』
・『古来の砂鉄製錬法』
☆俵国一関係略年表(明治25年以前の日付は旧暦)
・1872年(明治5年2月28日) 島根県浜田において、農家に生まれる
・1897年(明治30) 帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)採鉱冶金学科を卒業、同大学助教授となる
・1899年(明治32) ドイツに留学し、フライベルグ大学で鉄冶金学を学ぶ
・1902年(明治35) ドイツに留学から帰国し、東京帝国大学工学部教授(鉄冶金学講座担当)となる
・1903年(明治36) ドイツから金属顕微鏡を輸入し、金属組織学、とくに鉄鋼の熱処理組織の理論、実験法を国内に普及、工学博士の学位を得る
・1907年(明治40) 海軍大学校教授を兼任する
・1910年(明治43) 勲五等瑞宝章を受章する
・1915年(大正4) 日本鉄鋼協会を創立する
・1921年(大正10) 「日本刀の科学的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1922年(大正11) 日本鉄鋼協会第4代会長となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学工学部長に選ばれ、同大学評議員となり、旅順工科大学商議員となる
・1924年(大正13) 帝国経済会議議員となる
・1925年(大正14) 帝国学士院会員となり、従三位となる
・1926年(大正15) 日本鉱業会の会長に選ばれる
・1930年(昭和5) 日本鉄鋼協会第8代会長となる
・1932年(昭和7) 東京帝国大学を定年退職し、名誉教授の称号を受ける
・1935年(昭和10) 「冶金学上より見たる日本刀の特色」を宮中進講する
・1945年(昭和20) 東京・小石川駕篭町において被災後、熱海に疎開し、来ノ宮の別邸に住む
・1946年(昭和21) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1956年(昭和31) 神奈川県鎌倉市に転居する