ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年06月

miyagimichio01
 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、作曲家・箏曲家宮城道雄の亡くなった日です。
 宮城道雄(みやぎ みちお)は、明治時代中頃の1894年(明治27)4月7日に、兵庫県神戸市三宮において、父・菅(すが)国治郎と母・アサの長男として生まれました。生後200日頃から眼病を患い、4歳の頃には、母・アサと離別して祖母・ミネのもとで育てられます。
 7歳頃に失明し、8歳の時に、生田流の二代中島検校(けんぎょう)に入門しましたが、2年後に師匠が病没し、3世中島検校に師事、1905年(明治38)に免許皆伝を受け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名『中菅道雄』となりました。1907年(明治40)に、一家の生計を支えるため朝鮮半島に渡り、箏・尺八を教え、1909年(明治42)には、第一作の箏曲『水の変態』を作曲します。
 1910年(明治43)に京城(現在のソウル)に移住し、1913年(大正2)に入婿して改姓し、芸名をやめて本名の宮城道雄を名乗るようになりました。1914年(大正3)に尺八家吉田晴風(よしだせいふう)に会い生涯の親友となり、1916年(大正5)には、最高位である “大検校” の称号を受けます。
 1917年(大正6)に吉田晴風の招きで上京し、尺八の吉田晴風と新日本音楽を提唱、翌年には、吉村貞子と再婚しました。1919年(大正8)に葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会が開催され、翌年には、本居長世(もとおりながよ)と協同で新作発表会を「新日本音楽」と銘打って開催します。
 1921年(大正10)に十七絃(じゅうしちげん)を考案、1923年(大正12)に尺八家の初世中尾都山(なかおとざん)と組んで各地を演奏旅行、1925年(大正14)には、ラジオ試験放送初日に出演しました。1929年(昭和4)に代表曲とされる『春の海』を作曲、1930年(昭和5)に東京音楽学校(現東京藝術大学)講師となり、1932年(昭和7)には、『春の海』が日米仏でレコード発売されます。
 1935年(昭和10)に17弦琴と筝とオーケストラの協奏曲を試みるなど邦楽の革新に努め、1937年(昭和12)には、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授に就任しました。太平洋戦争後、1948年(昭和23)に日本芸術院会員となり、1950年(昭和25)には、東京藝術大学専任講師に就任します。
 1950年(昭和25)に第1回NHK放送文化賞を受賞、1951年(昭和26)に宮城会が結成され、1953年(昭和28)の夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧、第1位となりました。しかし、1956年(昭和31)6月25日に、東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、刈谷の豊田病院において、62歳で亡くなっています。
 没後、日本伝統音楽界への貢献を記念し、1966年(昭和41)に宮城会箏曲コンクールが創設され、1978年(昭和53)には、東京都中野区に「宮城道雄記念館」が開館しました。

<宮城道雄の代表曲>

・『秋の調(しらべ)』(1919年)
・『落葉の踊り』(1921年)
・『さくら変奏曲』(1923)
・『越天楽変奏曲(えてんらくへんそうきょく)』(1927年)
・『春の海』(1929年)
・『虫の武蔵野(むさしの)』(1932年)
・『道灌(どうかん)』(1936年)
・『日蓮(にちれん)』(1953年)

〇宮城道雄関係略年表

・1894年(明治27)4月7日 兵庫県神戸市三宮において、父・菅(すが)国治郎と母・アサの長男として生まれる
・1901年(明治34) 失明の宣告を受ける
・1902年(明治35) 生田流の二代中島検校(けんぎょう)に入門する
・1905年(明治38) 三代中島検校より免許皆伝を受け、師匠の「中島」の1字を許されて、芸名『中菅道雄』となる
・1907年(明治40) 一家の生計を支えるため朝鮮半島に渡り、箏・尺八を教える
・1909年(明治42) 第一作の箏曲『水の変態』を作曲する
・1910年(明治43) 京城(現在のソウル)に移住する
・1913年(大正2) 入婿して改姓し、芸名をやめて本名の宮城道雄を名のる
・1914年(大正3) 尺八家吉田晴風(よしだせいふう)に会い生涯の親友となる
・1916年(大正5) 最高位である “大検校” の称号を受ける
・1917年(大正6) 吉田晴風の招きで上京し、尺八の吉田晴風と新日本音楽を提唱する
・1918年(大正7) 吉村貞子と再婚する
・1919年(大正8) 葛原しげる等の後援により、本郷春木町の中央会堂で第1回作品発表会が開催される
・1920年(大正9) 本居長世(もとおりながよ)と協同で新作発表会を「新日本音楽」と銘打って開催する
・1921年(大正10) 十七絃(じゅうしちげん)を考案する
・1923年(大正12) 尺八家の初世中尾都山(なかおとざん)と組んで各地を演奏旅行する
・1925年(大正14) ラジオ試験放送初日に出演する
・1929年(昭和4) 『春の海』を作曲する
・1930年(昭和5) 東京音楽学校(現東京藝術大学)講師となる
・1932年(昭和7) 「春の海」が日米仏でレコード発売される
・1935年(昭和10) 創案した17弦琴と筝とオーケストラの協奏曲を試みるなど邦楽の革新に努める
・1937年(昭和12) 東京音楽学校(現東京藝術大学)教授に就任する
・1948年(昭和23) 日本芸術院会員になる
・1950年(昭和25) 東京藝術大学専任講師に就任する
・1950年(昭和25) 第1回NHK放送文化賞を受賞する
・1951年(昭和26) 宮城会が結成される
・1953年(昭和28) 夏にフランスのビアリッツとスペインのパンプロナで開催された国際民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧、第1位となる
・1956年(昭和31)6月25日 東海道線刈谷駅付近で急行「銀河」から転落し、刈谷の豊田病院において、62歳で亡くなる
・1966年(昭和41) 宮城会箏曲コンクールが創設される
・1978年(昭和53) 東京都中野区に「宮城道雄記念館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)読本作者・歌人・国学者上田秋成の誕生日(新暦7月25日)詳細
1884年(明治17)岡倉天心とフェノロサが法隆寺夢殿の救世観音を調査詳細
1894年(明治27)「(第1次)高等学校令」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1941年(昭和16)第33回大本営政府連絡会議で、「南方施策促進に関する件」が決定され、同日に上奏裁可される詳細
1943年(昭和18)「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定される詳細
1993年(平成5)「ウィーン宣言及び行動計画」が世界人権会議により採択される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

touseisyoseikatagi01
 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、坪内逍遥著の小説『当世書生気質』が刊行開始された日です。
 『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)は、坪内逍遥著の長編小説で、1885年(明治18)6月~翌年1月にかけて、17分冊で晩青堂より刊行されました。作者が、『小説神髄』の(人情、世態・風俗の描写)の主張の具体化を図ったものです。
 勧善懲悪を旨とした旧来の作品に対して、当時の学生風俗を写実的に描こうとしたもので、私立学校の書生小町田粲爾(さんじ)とかつては小町田の義妹だった芸妓田の次との奇遇と恋愛を描いた人情本ふうの物語に、牛鍋屋、吉原遊廓、温泉などの文明開化の東京の遊楽地に出没する書生たちの風俗をスケッチした滑稽本ふうの挿話がからんだものでした。この作品により、新しい文学の方向を決定づけ、近代日本文学の先駆となります。
 以下に、各回の内容と第1回の角書とはしがきを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇刊行された内容(全17冊)

・第1回 鉄石の勉強心も変るならひの飛鳥山に 物いふ花を見る書生の運動会
・第2回 謹慎の気の張弓も弛む 不図(とん)だ目に淡路町の矢場あそび
・第3回 真心もあつき朋友(ともだち)の粋(すゐ)な意見に 額の汗を拭あへぬ夏の日の下宿住居
・第4回 収穫(とりいれ)も絶えて涙の雨の降つゞく 小町田の豊作(でき)不作(ふでき)
・第5回 心の猿の悪戯(いたづら)にて 縺初し恋の緒(いとぐち)のむかしがたり
・第6回 詐りは以て非を飾るに足る 善悪の差別(けぢめ)もわかうどの悪所通ひ
・第7回 賢と不肖とを問はず老と少とを論ぜず たぶらかしざしきの客物語
・第8回 雨を凌ぐ人力車はめぐり〱て 小町田が田の次に逢ふ再度の緒(いとぐち)
・第9回 一得あれば一失あり 一我意あれば一理もある書生の演説
・第10回 生兵法大きな間違をしでかして 身方をぶちのめす書生の腕立(うでだて)
・第11回 つきせぬ縁日のそゞろあるきに 小町田はからずも旧知己(むかしなじみ)にあふ
・第12回 学校から追出される親父の資送(しおくり)は絶える どこでたつ岡町に懶惰生(なまけもの)の翻訳三昧
・第13回 心の宵闇に 有漏路(うろぢ)無漏路(むろぢ)を踏迷ふ男女の密談
・第14回 近眼遠からず 駒込の温泉に再度の間違
・第15回 旧人(ふるき)を尋ぬる新聞紙の広告に 顔鳥ゆくりなく由縁の人を知る
・第16回 黒絽の薄羽織を媒介にて 薄からぬ縁因(えにし)を知る守山と倉瀬の面談
・第17回 文意を文字通りにみや賀の兄弟 そゞろにコレラ病の報知におどろく
・第18回 春ならねども梅園町に心の花の開けそむる 親と女との不思議の再会
・第19回 全篇総て二十回脚色(しくみ)もやう〱に 塾部屋へ倉瀬の急報
・第20回 大団円

〇第1回の角書とはしがき 1885年(明治18)6月24日刊行

一読三嘆 当世書生気質

はしがき

英(イギリス)の句(く)レイク翁、亜(あ)リボン翁などは批評家(あらさがし)の尤物株(おやだまかぶ)なり。古今の小説家の著作を評して勝手放題なる小言(ごと)をいひ、また非評(わるくち)もいはれたりき。然(さ)はあれ、件(くだん)の翁達にお説の様なる完全なる稗史(そうし)を著(かき)てよと乞ひたらんには、予(おれ)には不可(できぬ)と逡巡(しりごみ)して、稗史は著(かか)で頭(かしら)を掻(かく)べし。是(これ)他なし、小説の才と小説の眼(まなこ)と相異なるが為(ため)なるのみ。眼あるもの必ず才あるにあらず、才あるもの必ずしも眼あらざるなり。予(おのれ)輓近(ちかごろ)『小説神髄』と云へる書(ふみ)を著(あらわ)して大風呂敷をひろげぬ。今本編(このほん)を綴(つづ)るにあたりて、理論の半分をも実際にはほとほと行ひ得ざるからに江湖(せけん)に対して我ながらお恥しき次第になん。但し全篇の趣向の如きは、専々(おさおさ)傍観の心得にて写真を旨としてものせしから、勧懲主眼の方々には或はお気に入らざるべし。予(おのれ)は敢て此書の中より模範となるべき人物をば求めたまへと乞ふにあらず。他の行(ふり)見て我風(ふり)なほし前の人車(じんりき)の覆(くつがえ)るを見て降坂(くだりざか)なら降車(おり)たまへと暗に読者に乞ふのみなり。作者は勧懲を主とせざれども此を訓誨(くんかい)の料(りょう)にすると此を奨誡(しょうかい)の資(たね)にするとは読者輩(よむひとびと)の心にあり。飴は味はひいと美(めでた)き一種(ひとつ)の食物(たべもの)に外(ほか)ならねど、用(もち)ひやうにて孝行息子が親を養ふ良薬(くすり)にもなり、盗賊(おおどろぼう)が窃盗(やじりきり)のすてきな材料にもなりし、と聞く。作者は皿大の眼(まなこ)を開きて学生社界の是非(あら)を批評(さが)し、此書の中(うち)に納めたれば、読者輩は地球大の智恵の袋のロを開きて是非曲直(よきとあしき)を分別して晒劣(いやしき)を去り高尚(とうと)きを取る実際の用に供(そな)へたまはば、美術の名ありて微術といふべき予(おのれ)が未熟なる稗史の中にも、人の気格を高うしてふ自然の効用のなからずやは。あなかしこ。心して読ませたまへ。

  十八年の五月といふ月、漸々(ようよう)に散りてゆく庭前の   八重桜に落残る月の下に

           春のやおぼろしるす

☆坪内 逍遥(つぼうち しょうよう)とは?

 明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
 1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
 一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1361年(正平16/康安元)南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震が発生し、津波も起こり、大きな被害を出す詳細
1839年(天保10)蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1904年(明治37)建築家・文筆家谷口吉郎の誕生日詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

gubijinsou01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、「朝日新聞」において、夏目漱石の『虞美人草』が連載開始された日です。
 『虞美人草』(ぐびじんそう)は、夏目漱石が「朝日新聞」に、1907年(明治40)6月23日~10月29日まで、127回にわたって連載した小説でした。朝日新聞に入社した夏目漱石が職業作家として書いた第一作で、新聞連載終了後、1908年(明治41)1月に、春陽堂から刊行されています。
 美しく聡明だが、我が強く、徳義心に欠ける女主人公藤尾の失恋を通して、利己と道義の相克を描き、このヒロインの自滅の悲劇を絢爛たる文体を用いて、一字一句にまで腐心して書いたと言われてきました。漱石文学の転換点となる初の悲劇作品とされています。

〇夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1794年(寛政6)大名・老中で天保の改革の主導者水野忠邦の誕生日(新暦7月19日)詳細
1908年(明治41)詩人・小説家国木田独歩の命日(独歩忌)詳細
1944年(昭和19)北海道有珠郡の東九万坪台地より、昭和新山の第1次大噴火が起き、第1火口を形成する詳細
1945年(昭和20)「義勇兵役法」が公布・施行される詳細
1967年(昭和42)小説家壺井栄の命日詳細
1999年(平成11)「男女共同参画社会基本法」(平成11年法律78号)が公布・施行される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

placardjiken01
 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、食糧メーデーで「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードを掲げた松島松太郎が不敬罪で起訴(プラカード事件)された日です。
 プラカード事件(ぷらかーどじけん)は、1946年(昭和21)5月19日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)の際、皇居前広場に集まったデモ隊の一人が、「国体はゴジされたぞ 朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」という天皇諷刺のプラカードを掲げ、不敬罪で逮捕・起訴された事件でした。このプラカードの作成者について、検事局は不敬罪で起訴しましたが、一審の東京地方裁判所は、同年11月2日に不敬罪は効力を失ったとして名誉毀損で有罪とします。しかし、翌日不敬罪についての「大赦令」が公布されました。
 その後、両罪の無罪を主張し控訴したものの、1947年(昭和22)6月28日に二審の東京高等裁判所は、「日本国憲法」公布に伴う「大赦令」により、免訴の判決を下しています。さらに、被告人は無罪判決を求めて上告しましたが、1948年(昭和23)5月26日の上告審の最高裁判所大法廷は、上告を棄却しました。

〇食糧メーデー(しょくりょうめーでー)とは?

 昭和時代中期の1946年(昭和21)5月19日に、東京の皇居前広場で行われ、約25万人が参加した「飯米獲得人民大会」の通称です。太平洋戦争後の深刻な食糧危機の中で、首都圏の食糧遅配は極度に悪化し、連日餓死者が出ている状況下で、各地で「米よこせ大会」が巻き起こっていました。
 その中でこの大会が開かれ、政府の食糧配給遅延に抗議し、飯米獲得や民主戦線即時結成を決議、また食糧問題に関する天皇への上奏文を可決したのです。その後、デモ行進に移りましたが、デモ隊の一人が掲げていた「朕はタラフク食ってるぞナンジ人民飢えて死ね」というプラカードが問題となり、不敬罪で起訴される事件(結局、不敬罪ではなく名誉毀損罪に問われた)が起こりました。
 この間の流れの中で、吉田茂総理による組閣も難航し、人民民主政府樹立の機運が盛り上がっていたのですが、翌20日の占領軍(GHQ)最高司令官マッカーサーの「暴民デモ許さず」との声明で運動は鎮静化に向かったのです。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年(嘉永6)江戸幕府第12代将軍徳川家慶の命日(新暦7月27日)詳細
1867年(慶応3)薩摩藩と土佐藩の間で、「薩土盟約」が結ばれる(新暦7月23日)詳細
1945年(昭和20)「戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定)詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」(SCAPIN-1033)を出す詳細
1965年(昭和40)日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される詳細
1972年(昭和47)「自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ryoumagayuku01
 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、「サンケイ」新聞夕刊で司馬遼太郎著の『竜馬がゆく』の連載が開始された日です。
 『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎著により、幕末維新の志士坂本竜馬の生涯を描いた、長編歴史小説でした。1962年(昭和37)6月21日~1966年(昭和41)5月19日まで『サンケイ』新聞(現在の『産経新聞』)夕刊に連載され、1963~66年に文芸春秋新社から全5巻で刊行されています。
 1974年(昭和49)に文春文庫創刊に伴い全8巻で刊行され、単行・文庫本ともに改版されました。薩長連合を成立させ、大政奉還へと時代の流れを導き、幕末維新を先導したとされる、土佐の脱藩志士、坂本龍馬(竜馬)の生涯を描いたものです。
 1968年(昭和43)には、NHKの大河ドラマ(出演:北大路欣也、浅丘ルリ子ほか、脚本:水木洋子、音楽:間宮芳生)として放映されて人気を博し、民放各局でも何度かテレビドラマ化されました。

〇司馬遼太郎(しば りょうたろう)とは?

 昭和時代から平成時代に活躍した小説家です。大正時代の1923年(大正12)8月7日に、大阪府大阪市浪速区神田町で薬局を経営する父・福田是定と母・直枝の次男として生まれましたが、本名は福田定一と言いました。
 私立上宮中学校を経て、1942年(昭和17)に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学、1943年(昭和18)に学徒出陣で満州(現中国東北地方)に出征します。戦車隊の士官生活を経験し、戦後復員し、新日本新聞社を経て、1948年(昭和23)に産経新聞社へ入社し、文化部長、出版局次長を歴任しました。
 一方、仕事のかたわら寺内大吉らと同人誌『近代説話』を創刊して小説を書き、1956年(昭和31)に懸賞応募の『ペルシャの幻術師』が講談倶楽部賞を受賞し、さらに『梟の城』 (1959年) で直木賞を受けます。1961年(昭和36)に、産経新聞社を退社して作家業に専念、『風神の門』などの忍者物から、次第に本格的歴史小説の分野に進み、『竜馬がゆく』(1962~66年)、『国盗り物語』(1965~66年)で菊池寛賞を受賞しました。
 その後も、戦国、幕末、明治を舞台とする変革期の人間を、綿密な資料に基づく独自な歴史解釈で描き、『殉死』(1967年)で毎日芸術賞、『歴史を紀行する』(1968年)で文芸春秋読者賞、『世に棲む日日』(1969~70年)で吉川英治文学賞、『ひとびとの跫音』(1981年)で読売文学賞小説賞、『街道をゆく―南蛮のみちI』(1984年)で日本文学大賞、『韃靼疾風録』(1987年)で大仏次郎賞など数々の栄誉に輝きます。また、1981年(昭和56)には日本芸術院会員となり、1991年(平成3)に文化功労者、1993年(平成5)に文化勲章を受章しましたが、1996年(平成8)2月12日に、大阪において、72歳で亡くなりました。
 尚、2001年(平成13)に大阪府東大阪市の旧居と隣接する「司馬遼太郎記念館」が公開されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

二十四節季二十四節季の10番目夏至です詳細
1635年(寛永12)江戸幕府が改訂発布した「武家諸法度」(寛永令)で参勤交代の義務化等を命じる(新暦8月3日)詳細
1892年(明治25)「鉄道敷設法」公布される詳細
1949年(昭和24)川崎汽船青葉丸がデラ台風により大分県沖で転覆、死者・行方不明者141人を出す(青葉丸転覆事故)詳細
1951年(昭和26)教育科学文化機関(ユネスコ)が日本の加盟を承認する詳細
国際労働機関(ILO)が日本の再加盟を承認する詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ