ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年06月

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 今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、作曲家弘田龍太郎が生まれた日です。
 弘田龍太郎(ひろた りゅうたろう)は、高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)において、明治初期の高知県議会議長もつとめた父・弘田正郎、一絃琴の名手の母・房の子として生まれました。父の転任に従って3歳の時高知を離れ、1898年(明治31)に父・弘田正郎の千葉県立師範学校校長就任により同付属小学校へ入学します。
 1902年(明治35)に父・正郎の三重県立第一中学校校長(現在の津高等学校)転任により津市へ転居、1905年(明治38)には、三重県立第一中学校に入学し、在学中より音楽的才能を認められました。1910年(明治43)に卒業後、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科器学部ピアノ科に入学し、本居長世に師事し、在学中に歌曲『昼』を発表します。
 1914年(大正3)に卒業後、研究科に進み、詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚しました。1916年(大正5)に研究科器楽部卒業後、同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱されたものの、翌年に新設された作曲部に再入学しています。1918年(大正7)に鈴木三重吉によって児童文学雑誌「赤い鳥」が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、翌年に、東京音楽学校研究科作曲部を卒業、同校講師となりましたが、この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力し、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲しました。
 1920年(大正9)に東京音楽学校助教授となり、1928年(昭和3)には、文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学し、ピアノ・作曲を研究します。1929年(昭和4)にドイツより家族とともに帰国し、東京音楽学校教授となりましたが、作曲活動専念のために同年9月には辞任しました。
 1939年(昭和14)には、作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たります。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日本音楽著作権協会監事、翌年には、ゆかり文化幼稚園園長に就任し、リズム遊びの指導などで幼児教育に尽力しました。
 1950年(昭和25)に名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任したものの、1952年(昭和27)11月17日に、病のため東京本郷の自宅において、60歳で亡くなっています。

〇弘田龍太郎の主要な作曲歌

・童謡『鯉のぼり』
・童謡『靴が鳴る』(1919年)
・童謡『浜千鳥』(1920年)
・童謡『叱られて』(1920年)
・童謡『金魚の昼寝』
・童謡『雨』(1920年)
・童謡『雀の学校』(1921年)
・童謡『春よ来い』(1923年)
・戦時歌謡『富士は微笑む』(1943年)
・映画音楽『くもとちゅうりっぷ』(1943年)
・歌曲『千曲川旅情のうた』
・オペラ『西浦の神』(1943年)
・仏教音楽『仏陀三部作』

〇弘田龍太郎関係略年表

・1892年(明治25)6月30日 高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)において、明治初期の高知県議会議長もつとめた父・弘田正郎、一絃琴の名手の母・房の子として生まれる
・1898年(明治31) 父・弘田正郎の千葉県立師範学校校長就任により同付属小学校へ入学する
・1902年(明治35) 父・正郎の三重県立第一中学校校長(現在の津高等学校)転任により津市へ転居する
・1905年(明治38) 三重県立第一中学校に入学し、在学中より音楽的才能を認められる
・1910年(明治43) 三重県立第一中学校を卒業し、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する
・1914年(大正3) 東京音楽学校本科器学部ピアノ科を卒業、研究科に進み、詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚する
・1916年(大正5) 東京音楽学校研究科器楽部卒業、同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱される
・1917年(大正6) 新設された作曲部に再入学する
・1918年(大正7) 鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加する
・1919年(大正8) 東京音楽学校研究科作曲部卒業、同校講師となる。この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力し、「靴が鳴る」を作曲する
・1920年(大正9) 東京音楽学校助教授となり、この頃「浜千鳥」「雨」「叱られて」を作曲する
・1921年(大正10) 「雀の学校」を作曲する
・1923年(大正12) 「春よこい」を作曲する
・1928年(昭和3) 文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学し、ピアノ・作曲を研究する
・1929年(昭和4) ドイツより家族とともに帰国、東京音楽学校教授となるが、作曲活動専念のために同年9月には辞任する
・1939年(昭和14) 作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たる
・1946年(昭和21) 日本音楽著作権協会監事に就任する
・1947年(昭和22) ゆかり文化幼稚園園長に就任する
・1950年(昭和25) 名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任する
・1952年(昭和27)11月17日 病のため東京本郷の自宅において、60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事「夏越祓(なごしのはらえ)」の日です詳細
1909年(明治42)京成電気軌道(現在の京成電鉄)が創立される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定する(集団疎開の日)詳細
1975年(昭和50)詩人金子光晴の命日詳細
1978年(昭和53)小説家・中国文学者柴田錬三郎の命日詳細
1987年(昭和62)中曽根内閣の下で、多極分散をモットーとした第四次全国総合開発計画(四全総)が閣議決定される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の亡くなった日です。
 内田魯庵(うちだ ろあん)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月5日)に、江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれましたが、本名は貢(みつぎ)、別号は不知庵(ふちあん)と言いました。立教学校、東京専門学校、大学予備門 (のちの第一高等学校) などで英語を学んだものの、いずれも中退しています。
 遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
 一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
 1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
 その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
 進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。

〇内田魯庵の主要な著作

・評論『山田美妙大人の小説』(1888年)
・体系的文学論『文学一斑』(1892年)
・社会小説『くれの廿八日』(1898年)
・短編小説集『社会百面相』(1902年)
・随筆集『貘(ばく)の舌』(1921年)
・随筆集『バクダン』(1922年)
・文壇回想録『思ひ出す人々』(1925年)

☆内田魯庵関係略年表

・1868年(慶応4年閏4月5日) 江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれる 
・1887年(明治20年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する
・1888年(明治21年) 評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場する
・1889年(明治22年) 処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載する
・1890年(明治23年) 春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねる
・1892年(明治25年) 体系的文学論『文学一斑』を刊行、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビューする
・1894年(明治27年) 三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行する
・1898年(明治31年) 社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表する
・1901年(明治34年) 丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集する
・1902年(明治35年) 短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博す
・1905年(明治38年) トルストイ『復活』を翻訳する
・1906年(明治39年) トルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を出版する
・1911年(明治44年) 大逆事件に対する静かなる抵抗としてワイルド『悲劇・革命婦人』を朝日新聞に連載する
・1913年(大正2年) トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行う
・1921年(大正10年) 随筆集『貘(ばく)の舌』を刊行する
・1922年(大正11年) 随筆集『バクダン』を刊行する
・1925年(大正14年) 文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行する
・1929年(昭和4年)6月29日 東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1868年(慶応4)明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1928年(昭和3)「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、B29爆撃機141機による佐世保大空襲が始まった日で、翌日にかけて、罹災戸数12,037戸、罹災者数60,734人、死者1,242人を出します。
 佐世保大空襲(させぼだいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20)6月28日午後11時50分~翌29日午前2時頃にかけての約2時間強アメリカ軍のB-29爆撃機141機により、長崎県佐世保市の市街地中心に行われた夜間空襲でした。この時、焼夷弾推定1,200トンが投下され、市街地の3分の1が焼失し、死者1,242人、負傷者336人、罹災戸数12,037戸、罹災者数60,734人の大きな被害が出ます。主な建造物では、佐世保市役所・佐世保公会堂、佐世保警察署、佐世保郵便局・郵便局電話課、佐世保玉屋、海軍佐世保鎮守府庁舎・司令長官官舎、教法寺、亀山八幡宮、西方寺などが焼失しました。
 尚、1945年(昭和20)3月に、東京大空襲(10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)、神戸大空襲(17日)、北九州(29日)など日本の主要都市空襲を実行したアメリカ軍は、その後は、地方の中小都市へと目標を移し、佐世保市も大きな被害を受けます。そして、8月6日の広島原爆投下、8月9日の長崎原爆投下へと至って、日本全土が多大な被害を受け、8月15日の敗戦へと至りました。

〇太平洋戦争下の主要な空襲一覧

 <1942年(昭和17)>
・4月18日 東京、名古屋、神戸などが初空襲される(ドウリットル指揮の16機の米陸軍機B-25による)

 <1944年(昭和19)>
・11月24日 B-29による初めての東京空襲が行われる

<1945年(昭和20)>
・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が焼失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・3月29日 北九州が空襲される
・4月4日 川崎の他鶴見・港北・神奈川・西各区が空襲を受ける(罹災戸数5,873戸、死者398人)
・4月13日 東京空襲(西部地域)が行われる
・4月15日 東京・横浜・川崎の空襲が行われる(罹災住宅5万2655戸、死者972人)
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月25~26日 東京空襲(山手地域)が行われる
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災(横浜大空襲)する(死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人)
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月19~20日 静岡大空襲で旧静岡市の中心部が焼失する(焼失家屋26,891戸、被災者114,000人、死者1,952人)
・6月19~20日 福岡大空襲で福岡市の中心部が焼失する(罹災戸数12,693戸、罹災者数60,599人、死者・行方不明者1,146人)
・6月28~29日 佐世保大空襲で佐世保市の中心部が焼失する(罹災戸数12,037戸、罹災者数60,734人、死者1,242人)、
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が消失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人)
・7月14日 青函連絡船の翔鳳丸など9隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する
・8月5日 B-29爆撃機92機が前橋市・高崎市を空襲し、死傷者1,323人が出る
・8月6日 B-29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月7日 愛知県の豊川海軍工廠が爆撃され女子挺身隊員・国民学校児童ら2,477人の死者を出す
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B-29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1570年(元亀元)姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破る(新暦7月30日)詳細
1837年(天保8)日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」にて砲撃したモリソン号事件が起きる(新暦7月30日)詳細
1875年(明治8)「新聞紙条例」と「讒謗律」が発布される詳細
1919年(大正8)ドイツが連合国と第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」に調印する詳細
1948年(昭和23)福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出す詳細
1951年(昭和26)小説家林芙美子の命日(芙美子忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始された日です。
 『それから』は、夏目漱石著の長編小説でした。明治時代後期の1909年(明治42)6月27日~10月4日まで、東京・大阪の「朝日新聞」に連載され、翌年1月に、春陽堂より刊行されます。
 主人公の長井代助は、西洋と日本の関係がだめだから働かないと言って定職に就かず、毎月1回、本家にもらいに行く金で裕福な生活を送る高等遊民ですが、父親のすすめる政略結婚をことわり、友人平岡常次郎の妻・三千代を奪って、共に生きる決意をするまでを描きました。1908年(明治41)の『三四郎』と1910年(明治43)の『門』と共に、漱石の前期三部作と言われています。
 その後、1985年(昭和60)に森田芳光監督、松田優作主演で映画化され、2017年(平成29)には、CLIEにより、平野良主演で舞台化もされました。
 以下に、小説『それから』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小説『それから』の冒頭部分

 一の一

 誰(だれ)か慌(あは)たゞしく門前(もんぜん)を馳(か)けて行く足音(あしおと)がした時、代助(だいすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、大きな俎下駄(まないたげた)が空(くう)から、ぶら下さがつてゐた。けれども、その俎(まないた)下駄は、足音(あしおと)の遠退(とほの)くに従つて、すうと頭(あたま)から抜(ぬ)け出(だ)して消えて仕舞つた。さうして眼(め)が覚めた。
 枕元(まくらも)とを見ると、八重の椿(つばき)が一輪(いちりん)畳(たゝみ)の上に落ちてゐる。代助(だいすけ)は昨夕(ゆふべ)床(とこ)の中(なか)で慥かに此花の落ちる音(おと)を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更(ふ)けて、四隣(あたり)が静かな所為(せゐ)かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋(あばら)のはづれに正(たゞ)しく中(あた)る血(ち)の音(おと)を確(たし)かめながら眠(ねむり)に就いた。
 ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌てのひら)に応こた)へる、時計の針に似た響ひゞき)は、自分を死しに誘いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生いきてゐられたなら、――血を盛も)る袋ふくろ)が、時とき)を盛も)る袋ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助だいすけ)は覚えず悚ぞつ)とした。彼は血潮ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下したに手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中(なか)から両手を出だして、大きく左右に開ひらくと、左側(ひだりがは)に男が女を斬(きつ)てゐる絵があつた。彼はすぐ外(ほか)の頁(ページ)へ眼(め)を移した。其所(そこ)には学校騒動が大きな活字で出てゐる。代助は、しばらく、それを読んでゐたが、やがて、惓怠(だる)さうな手から、はたりと新聞を夜具の上(うへ)に落した。夫から烟草を一本吹ふかしながら、五寸許り布団を摺(ず)り出して、畳の上の椿(つばき)を取つて、引つ繰(く)り返(かへ)して、鼻の先へ持(も)つて来(き)た。口(くち)と口髭(くちひげ)と鼻の大部分が全く隠(かく)れた。烟りは椿(つばき)の瓣(はなびら)と蕊(ずい)に絡(から)まつて漂(たゞよ)ふ程濃く出た。それを白(しろ)い敷布(しきふ)の上うへに置くと、立ち上(あ)がつて風呂場(ふろば)へ行つた。
 其所(そこ)で叮嚀(ていねい)に歯はを磨(みが)いた。彼(かれ)は歯並(はならび)の好(い)いのを常に嬉しく思つてゐる。肌(はだ)を脱(ぬ)いで綺麗(きれい)に胸(むね)と脊(せ)を摩擦(まさつ)した。彼(かれ)の皮膚(ひふ)には濃(こまや)かな一種の光沢(つや)がある。香油を塗(ぬ)り込んだあとを、よく拭き取(と)つた様に、肩(かた)を揺(うご)かしたり、腕(うで)を上(あ)げたりする度(たび)に、局所(きよくしよ)の脂肪(しぼう)が薄(うす)く漲(みなぎ)つて見える。かれは夫(それ)にも満足である。次に黒い髪(かみ)を分(わ)けた。油(あぶら)を塗つけないでも面白い程自由になる。髭(ひげ)も髪(かみ)同様に細(ほそ)く且つ初々(うい/\)しく、口(くち)の上(うへ)を品よく蔽ふてゐる。代助(だいすけ)は其ふつくらした頬(ほゝ)を、両手で両三度撫でながら、鏡の前(まへ)にわが顔(かほ)を映(うつ)してゐた。丸で女(をんな)が御白粉(おしろい)を付(つ)ける時の手付(てつき)と一般であつた。実際彼は必要があれば、御白粉(おしろい)さへ付(つ)けかねぬ程に、肉体に誇(ほこり)を置く人である。彼の尤も嫌ふのは羅漢の様な骨骼と相好(さうごう)で、鏡に向ふたんびに、あんな顔に生(うま)れなくつて、まあ可(よ)かつたと思ふ位である。其代り人から御洒落(おしやれ)と云はれても、何の苦痛も感じ得ない。それ程彼は旧時代の日本を乗り超えてゐる。

   「青空文庫」より

☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?

 明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
 成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
 1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、国際労働機関(ILO)総会で「労働時間の短縮に関する勧告」(ILO第116号勧告)が採択された日です。
 「労働時間の短縮に関する勧告」(ろうどうじかんのたんしゅくにかんするじょうやく)は、1962年(昭和37)の国際労働機関(ILO)総会において採択された、労働時間に関する既存国際文書を補足し、その実施を容易にすること、さらに労働時間の漸進的な短縮を達成するための実際的な方策を示すことを目的に採択された勧告でした。1935年(昭和10)6月22日に国際労働機関(ILO)総会で採択され、1957年(昭和32)6月23日に発効した、「労働時間を1週40時間に短縮することに関する条約」(ILO第47号条約) の定める週40時間労働の原則を、達成すべき社会的基準としています。
 そのために、「労働時間の短縮に際しては、労働者の賃金を減少させないこと。」、「所定労働時間の漸進的短縮という原則の採用を、国内条件や慣行、また産業の条件に適した方法で促進するため、国家政策を設定し、かつ遂行すべきこと。」、「所定の労働時間が、現に1週48時間以上のところでは、48時間の水準まで短縮するための措置を直ちに取るべきこと。」、「権限ある機関は、この勧告の適用に関する諸問題について、最も代表的な労使団体と協議する慣行を作るべきこと。」などを規定していますが、農業、海運及び海上漁業には適用されないとされました。それ以外にも、恒常的(理髪店、病院、ホテル、レストラン、会社のお抱え運転手など断続的な仕事やライフラインを守る電気・ガス・水道など公共の利益に必要な場合など)、一時的(事故の発生、機械設備に関わる緊急措置、停電・災害時など)、定期的(決算期や棚卸し、観光業など季節的な要因など)な例外や超過勤務についても規定しています。しかし、日本は、採択にあたって棄権しました。
 以下に、「労働時間の短縮に関する勧告」(ILO第116号勧告)の日本語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「労働時間の短縮に関する勧告」(ILO第116号勧告) 1962年(昭和37)6月26日採択

<日本語訳>

 国際労働機関の総会は、
 理事会によりジュネーヴに招集されて、千九百六十二年六月六日にその第四十六回会期として会合し、
 この会期の議事日程の第九議題である労働時間に関する提案の採択を決定し、
 これらの提案が、
 各国間における経済的及び社会的条件の差異並びに労働時間その他の労働条件の規制に関する国内慣行の差異を考慮して労働時間の漸進的短縮のための実際的な方策を示すことにより、
 この実際的な方策を適用する方法を大まかに示すことにより、
 千九百三十五年の週四十時間条約に掲げる原則である週四十時間の基準を、必要があれば段階的に到達すべき社会的基準として示し、かつ、千九百十九年の労働時間(工業)条約に従い所定の労働時間に最高限度を定めることにより、
 労働時間に関する現行の国際文書を補足し、かつ、その実施を容易にすることを目的とする勧告の形式をとるべきであることを決定したので、
 次の勧告(引用に際しては、千九百六十二年の労働時間短縮勧告と称することができる。)を千九百六十二年六月二十六日に採択する。

I 一般原則

1 各加盟国は、4の規定による所定の労働時間の漸進的短縮の原則の採用を国内の条件及び慣行並びに各産業の条件に適した方法で促進するための国内政策を設定し、かつ、実施すべきである。
2 各加盟国は、4の規定による所定の労働時間の漸進的短縮の原則の適用を、労働時間の規制のために現に用いられており又は将来採用される方法に適した手段によつて促進し、かつ、国内の条件及び慣行と両立する限り確保すべきである。
3 所定の労働時間の漸進的短縮の原則は、国内の条件及び活動の各分野の必要に最もよく適合するように、法令、労働協約若しくは仲裁裁定により、これらの各手段の組合せにより、又は国内の慣行と両立するその他の方法により実施することができる。
4 所定の労働時間は、適当なときは、労働時間の短縮が行なわれた時における労働者の賃金を減少させることなくこの勧告の前文に示す社会的基準に到達することを目標として漸進的に短縮すべきである。
5 所定の週労働時間が四十八時間をこえている場合には、労働時間の短縮が行なわれた時における労働者の賃金を減少させることなく当該労働時間をその水準まで短縮するための措置をすみやかに執るべきである。
6 所定の週労働時間が四十八時間以下である場合には、4の規定による労働時間の漸進的短縮のための方策は、各国の国内事情及び経済活動の各部門の条件に応じた方法で立案し、かつ、実施すべきである。
7 前記の方策は、次に掲げる事項を考慮すべきである。
  (a) 達成された経済発展の水準並びに当該国が、総生産高又は生産性を低下させることなく、経済成長、新産業の発展又は国際貿易における競争的地位を危うくすることなく、かつ、労働者の実質所得を結局は減少させることとなるインフレーションの圧力を発生させることなく、労働時間を短縮することができる程度
  (b) 最新の産業技術、オートメーション及び経営技術の適用により生産性の向上について達成された進歩及び達成される進歩
  (c) 発展の途上にある国については、国民の生活水準の向上の必要
  (d) 労働時間を短縮する方法について当該活動の各分野の使用者団体及び労働者団体が行なう選択
8(1) 4にいう所定の労働時間の漸進的短縮の原則は、段階的に適用することができ、その方法は、国際的に定めることを要しない。
 (2) 前記の方法には、次のものを含めることができる。
  (a) 時間的間隔を置いて段階的に短縮する方法
  (b) 労働時間を短縮する国民経済の分野又は部門を漸進的に拡大していく方法
  (c) 前記の二方法の組合せ
  (d) 国内の事情及び経済活動の各部門の条件に最もよく適合するその他の方法
9 労働時間を漸進的に短縮する方策の実施にあたつては、関係労働者に特に重い肉体的若しくは精神的負担又は健康上の危険をもたらす産業及び職業に対し、その労働者がおもに女子及び年少者からなるときは特に、優先順位を与えるべきである。
10 各加盟国は、この勧告の諸規定の適用上得られた結果に関する情報を、理事会が要求するすべての細目とともに適当な間隔を置いて国際労働事務局長に送付すべきである。

II 適用の方法

A 定義

11 この勧告の適用上、所定の労働時間とは、各国で法令、労働協約若しくは仲裁裁定により又はこれらに基づいて定められる時間数をいい、そのように定められていないときは、時間数で、これを超過して労働した時間について超過勤務賃金率で賃金が支払われ又はその超過時間が関係事業所若しくは関係工程について承認された規則若しくは慣習に対する例外をなすものをいう。

B 労働時間の決定

12(1) 所定の労働時間は、特定の活動分野の特殊事情又は技術的必要により正当とされるときは、一週をこえる期間を平均して算定することが許容されるべきである。
 (2) 各国の権限のある機関又は団体は、平均労働時間を算定する期間の最長限度を定めるべきである。
13(1) 性質上交替制労働により連続的に行なわなければならない工程に関しては、特別の規定を設けることができる。
 (2) 前記の特別の規定は、連続する工程における所定の労働時間の平均が当該経済活動について定められた所定の労働時間をいかなる場合にもこえないように設けるべきである。

C 例外

14 各国の権限のある機関又は団体は、
  (a) 恒常的に
   (ⅰ) 本質的に断続的な作業について
   (ⅱ) 公共の利益のために必要な特定の例外的な場合において
   (ⅲ) 技術上の理由により、事業、事業の一部又は一交替の一般的操業について定められた時間の限度をこえて行なわなければならない作業について
  (b) 一時的に
   (ⅰ) 事故が現に発生し又は発生するおそれがある場合において
   (ⅱ) 機械又は工場設備に対し緊急の処置を執るべき場合において
   (ⅲ) 不可抗力の場合において
   (ⅳ) 異常に繁忙な場合において
   (ⅴ) 原材料の瑕疵(かし)、動力供給の中断、天候不順、原材料又は輸送施設の不足及び災害に起因する作業の全般的停止により失われた時間を埋め合わせるため
   (ⅵ) 国の緊急の場合において
  (c) 定期的に
   (ⅰ) 年次財産目録及び年次貸借対照表の作成のため
   (ⅱ) 特定の季節的業務のため
   所定の労働時間に対する例外が許容される状況及び限度について定めるべきである。
15 所定の労働時間が週四十八時間をこえている場合には、権限のある機関又は団体は、14(a)(i)及び(iii)、(b)(iv)及び(v)並びに(c)(i)及び(ii)に掲げる場合において例外を許容するに先だち、その例外が真に必要であるかどうかを特に慎重に検討すべきである。

D 超過勤務

16 所定の時間をこえて労働した時間は、慣習に従つて報酬決定の際に考慮されない限り、超過勤務とみなすべきである。
17 各国の権限のある機関又は団体は、不可抗力の場合を除くほか、一定期間内に許容される総超過勤務時間数の限度を定めるべきである。
18 超過勤務を行なわせるにあたつては、十八歳未満の年少者、妊娠中の女子、授乳中の母及び身体障害者の特殊事情を十分に考慮すべきである。
19(1) 超過勤務に対しては、所定の労働時間に対するよりも高い一又は二以上の賃金率で賃金を支払うべきである。
 (2) 超過勤務に対する賃金率は、各国の権限のある機関又は団体が決定すべきである。ただし、この率は、いかなる場合にも、千九百十九年の労働時間(工業)条約第六条2に定める率より低くてはならない。

E 使用者及び労働者との協議

20(1) 権限のある機関は、この勧告の適用に関する問題について最も代表的な使用者団体及び労働者団体と協議することを慣行とすべきである。
 (2) 特に、次に掲げる事項については、それが各国の権限のある機関の決定にゆだねられている限り、前記の協議を行なうべきである。
  (a) 8の規定に関して執るべき措置
  (b) 12の規定に従つて平均労働時間を算定する期間の最長限度
  (c) 13の規定に従い、交替制労働により連続的に行なわなければならない工程に関して設けることができる規定
  (d) 14に定める例外
  (e) 17及び19に定める超過勤務の限度及びこれに対する賃金

F 監督

21 4及び5の規定に従い労働時間を漸進的に短縮するため執る方策の効果的実施のため、
  (a) 適当な監督その他の方法により労働時間に関する規定の適正な運用を確保する適当な措置を執るべきである。
  (b) 使用者に対し、事業所における掲示により又は権限のある機関が承認するその他の方法により次の事項を関係労働者に周知させるよう要求すべきである。
   (ⅰ) 作業の開始及び終了の時刻
   (ⅱ) 作業が交替制で行なわれる場合には、各交替の開始及び終了の時刻
   (ⅲ) 所定の労働時間に含まれない休憩時間
   (ⅳ) 一週中の労働日
  (c) 使用者に対し、権限のある機関の認める形式により、各労働者の労働時間、賃金及び超過勤務の記録を作成し、請求があつたときはその記録を検査のため提示するよう要求すべきである。
  (d) この勧告の規定の実施方法に適した制裁に関して措置を執るべきである。

G 一般規定

22 この勧告は、労働者に一層有利な条件を確保し又は確保することを目的とする法令、裁定、慣習、協約又は使用者と労働者との間の協定に影響を及ぼすものではない。
23 この勧告は、農業、海上輸送及び海上漁業には適用しない。これらの経済活動の分野については、特別の規定を設けるべきである。

  「ILO駐日事務所ホームページ」より

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