
弘田龍太郎(ひろた りゅうたろう)は、高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)において、明治初期の高知県議会議長もつとめた父・弘田正郎、一絃琴の名手の母・房の子として生まれました。父の転任に従って3歳の時高知を離れ、1898年(明治31)に父・弘田正郎の千葉県立師範学校校長就任により同付属小学校へ入学します。
1902年(明治35)に父・正郎の三重県立第一中学校校長(現在の津高等学校)転任により津市へ転居、1905年(明治38)には、三重県立第一中学校に入学し、在学中より音楽的才能を認められました。1910年(明治43)に卒業後、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科器学部ピアノ科に入学し、本居長世に師事し、在学中に歌曲『昼』を発表します。
1914年(大正3)に卒業後、研究科に進み、詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚しました。1916年(大正5)に研究科器楽部卒業後、同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱されたものの、翌年に新設された作曲部に再入学しています。1918年(大正7)に鈴木三重吉によって児童文学雑誌「赤い鳥」が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、翌年に、東京音楽学校研究科作曲部を卒業、同校講師となりましたが、この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力し、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲しました。
1920年(大正9)に東京音楽学校助教授となり、1928年(昭和3)には、文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学し、ピアノ・作曲を研究します。1929年(昭和4)にドイツより家族とともに帰国し、東京音楽学校教授となりましたが、作曲活動専念のために同年9月には辞任しました。
1939年(昭和14)には、作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たります。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日本音楽著作権協会監事、翌年には、ゆかり文化幼稚園園長に就任し、リズム遊びの指導などで幼児教育に尽力しました。
1950年(昭和25)に名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任したものの、1952年(昭和27)11月17日に、病のため東京本郷の自宅において、60歳で亡くなっています。
1902年(明治35)に父・正郎の三重県立第一中学校校長(現在の津高等学校)転任により津市へ転居、1905年(明治38)には、三重県立第一中学校に入学し、在学中より音楽的才能を認められました。1910年(明治43)に卒業後、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)本科器学部ピアノ科に入学し、本居長世に師事し、在学中に歌曲『昼』を発表します。
1914年(大正3)に卒業後、研究科に進み、詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚しました。1916年(大正5)に研究科器楽部卒業後、同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱されたものの、翌年に新設された作曲部に再入学しています。1918年(大正7)に鈴木三重吉によって児童文学雑誌「赤い鳥」が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加、翌年に、東京音楽学校研究科作曲部を卒業、同校講師となりましたが、この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力し、北原白秋等と組み、多くの童謡を作曲しました。
1920年(大正9)に東京音楽学校助教授となり、1928年(昭和3)には、文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学し、ピアノ・作曲を研究します。1929年(昭和4)にドイツより家族とともに帰国し、東京音楽学校教授となりましたが、作曲活動専念のために同年9月には辞任しました。
1939年(昭和14)には、作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たります。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に日本音楽著作権協会監事、翌年には、ゆかり文化幼稚園園長に就任し、リズム遊びの指導などで幼児教育に尽力しました。
1950年(昭和25)に名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任したものの、1952年(昭和27)11月17日に、病のため東京本郷の自宅において、60歳で亡くなっています。
〇弘田龍太郎の主要な作曲歌
・童謡『鯉のぼり』
・童謡『靴が鳴る』(1919年)
・童謡『浜千鳥』(1920年)
・童謡『叱られて』(1920年)
・童謡『金魚の昼寝』
・童謡『雨』(1920年)
・童謡『雀の学校』(1921年)
・童謡『春よ来い』(1923年)
・戦時歌謡『富士は微笑む』(1943年)
・映画音楽『くもとちゅうりっぷ』(1943年)
・歌曲『千曲川旅情のうた』
・オペラ『西浦の神』(1943年)
・仏教音楽『仏陀三部作』
〇弘田龍太郎関係略年表
・1892年(明治25)6月30日 高知県安芸郡土居村(現在の安芸市土居)において、明治初期の高知県議会議長もつとめた父・弘田正郎、一絃琴の名手の母・房の子として生まれる
・1898年(明治31) 父・弘田正郎の千葉県立師範学校校長就任により同付属小学校へ入学する
・1902年(明治35) 父・正郎の三重県立第一中学校校長(現在の津高等学校)転任により津市へ転居する
・1905年(明治38) 三重県立第一中学校に入学し、在学中より音楽的才能を認められる
・1910年(明治43) 三重県立第一中学校を卒業し、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する
・1914年(大正3) 東京音楽学校本科器学部ピアノ科を卒業、研究科に進み、詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚する
・1916年(大正5) 東京音楽学校研究科器楽部卒業、同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱される
・1917年(大正6) 新設された作曲部に再入学する
・1918年(大正7) 鈴木三重吉によって児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると、やがて「赤い鳥運動」に参加する
・1919年(大正8) 東京音楽学校研究科作曲部卒業、同校講師となる。この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力し、「靴が鳴る」を作曲する
・1920年(大正9) 東京音楽学校助教授となり、この頃「浜千鳥」「雨」「叱られて」を作曲する
・1921年(大正10) 「雀の学校」を作曲する
・1923年(大正12) 「春よこい」を作曲する
・1928年(昭和3) 文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学し、ピアノ・作曲を研究する
・1929年(昭和4) ドイツより家族とともに帰国、東京音楽学校教授となるが、作曲活動専念のために同年9月には辞任する
・1939年(昭和14) 作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たる
・1946年(昭和21) 日本音楽著作権協会監事に就任する
・1947年(昭和22) ゆかり文化幼稚園園長に就任する
・1950年(昭和25) 名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任する
・1952年(昭和27)11月17日 病のため東京本郷の自宅において、60歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
年中行事 | 「夏越祓(なごしのはらえ)」の日です | 詳細 |
1909年(明治42) | 京成電気軌道(現在の京成電鉄)が創立される | 詳細 |
1944年(昭和19) | 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定する(集団疎開の日) | 詳細 |
1975年(昭和50) | 詩人金子光晴の命日 | 詳細 |
1978年(昭和53) | 小説家・中国文学者柴田錬三郎の命日 | 詳細 |
1987年(昭和62) | 中曽根内閣の下で、多極分散をモットーとした第四次全国総合開発計画(四全総)が閣議決定される | 詳細 |