
内田魯庵(うちだ ろあん)は、幕末明治維新期の1868年(慶応4年閏4月5日)に、江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれましたが、本名は貢(みつぎ)、別号は不知庵(ふちあん)と言いました。立教学校、東京専門学校、大学予備門 (のちの第一高等学校) などで英語を学んだものの、いずれも中退しています。
遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。
遠縁の翻訳家井上勤の仕事を手伝って語学力を身につけ、1888年(明治21)に、評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場しました。『国民新聞』、『国民之友』にも寄稿して、文芸評論家として活躍します。
一方で、1889年(明治22)に処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載、1892年(明治25年)には、体系的文学論『文学一斑』を刊行すると共に、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてもデビューしました。1894年(明治27)に三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行、1898年(明治31)には、社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、また、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表します。
1901年(明治34)に丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集、『ブリタニカ百科事典』の輸入販売に尽力しました。1902年(明治35)に短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博し、1905年(明治38)にトルストイ『復活』、翌年には『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を翻訳出版します。
その後、1910年(明治43)に起きた大逆事件に対する静かなる抵抗として、翌年にワイルド「悲劇・革命婦人」を朝日新聞に連載し、1913年(大正2)には、トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行いました。晩年は文壇から離れ、読書家・趣味人として生き、1921年(大正10)に随筆集『貘(ばく)の舌』、1922年(大正11)に随筆集『バクダン』、1925年(大正14)には、文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行しています。
進歩的立場での文明批評や読書文化普及で世に知られましたが、1929年(昭和4年)6月29日に、東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなりました。
〇内田魯庵の主要な著作
・評論『山田美妙大人の小説』(1888年)
・体系的文学論『文学一斑』(1892年)
・社会小説『くれの廿八日』(1898年)
・短編小説集『社会百面相』(1902年)
・随筆集『貘(ばく)の舌』(1921年)
・随筆集『バクダン』(1922年)
・文壇回想録『思ひ出す人々』(1925年)
☆内田魯庵関係略年表
・1868年(慶応4年閏4月5日) 江戸・下谷車坂六軒町において、旧幕臣の子として生まれる
・1887年(明治20年) 東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する
・1888年(明治21年) 評論『山田美妙大人の小説』を「女学雑誌」に発表し、文壇に登場する
・1889年(明治22年) 処女小説『藤野一本』を「都の花」に連載する
・1890年(明治23年) 春頃、森林太郎(森鴎外)の家を訪ねる
・1892年(明治25年) 体系的文学論『文学一斑』を刊行、ドストエフスキーの『罪と罰』(前半部分)の翻訳を刊行し翻訳家としてデビューする
・1894年(明治27年) 三文字屋金平の名で『文学者となる法』刊行する
・1898年(明治31年) 社会小説の傑作『くれの廿八日』を発表、「大日本」に評論『政治小説を作れよ』を発表する
・1901年(明治34年) 丸善に入社、書籍部顧問として「学鐙」を編集する
・1902年(明治35年) 短編小説集『社会百面相』などを発表して好評を博す
・1905年(明治38年) トルストイ『復活』を翻訳する
・1906年(明治39年) トルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』を出版する
・1911年(明治44年) 大逆事件に対する静かなる抵抗としてワイルド『悲劇・革命婦人』を朝日新聞に連載する
・1913年(大正2年) トルストイ『復活』について、島村抱月と「小日本語」対「大日本語」の翻訳論争を行う
・1921年(大正10年) 随筆集『貘(ばく)の舌』を刊行する
・1922年(大正11年) 随筆集『バクダン』を刊行する
・1925年(大正14年) 文壇回想録『思ひ出す人々』を刊行する
・1929年(昭和4年)6月29日 東京・豊多摩郡代々幡町の自宅でにおいて、61歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1866年(慶応2) | 洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日) | 詳細 |
1868年(慶応4) | 明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌) | 詳細 |
1928年(昭和3) | 「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする | 詳細 |
1945年(昭和20) | 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人) | 詳細 |
1946年(昭和21) | GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される | 詳細 |