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 今日は、江戸時代前期の1615年(慶長20)に、画家・海北派の祖海北友松の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 海北友松(かいほう ゆうしょう)は、戦国時代の1533年(天文2)に、近江国坂田郡(現在の滋賀県)において、浅井長政麾下の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(一説に三男)として生まれましたが、名は紹益(しょうえき)と言いました。1535年(天文4年)の2歳の時、父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行し、この時に絵を狩野派を学んだとされます。
 1573年(天正元)に、織田信長によって、浅井氏が滅亡し、兄達も討ち死にした後、41歳で還俗し海北家の再興を目指しました。画事のかたわら武芸にも励みましたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去ります。
 深く宋元画を研究、特に南宋の画院画家梁楷(りょうかい)の影響を強く受け、人物画を能くし、独自の気迫と情感に富む画風を完成させました。1597年(慶長2年)頃に、禅居庵障壁画を描き、友松様式を確立、1599年(慶長4年)頃には、石田三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の建仁寺障壁画を描きます。
 1602年(慶長7年)には、『飲中八仙図屏風』および『山水図屏風』を描き、この頃から八条宮智仁親王邸に出入りし、やがて後陽成天皇など宮中の御用をも勤めることとなりました。最晩年の軽妙なタッチの水墨の押絵は宮中や禅僧の間で好評を博したものの、1615年(慶長20年6月2日)に、京都において、数え年83歳で亡くなっています。

〇海北友松の主要な作品

・建仁寺禅居庵障壁画(1599年頃)
・『飲中八仙図屏風(びょうぶ)』(1602年)京都国立博物館蔵
・『山水図屏風』(1602年)東京国立博物館蔵
・『浜松図屏風』
・『網干(あぼし)図屏風』
・『雲竜図屏風』北野天満宮蔵
・『牡丹(ぼたん)図屏風』妙心寺蔵

☆海北友松関係略年表

・1533年(天文2年) 近江国坂田郡(現在の滋賀県)において、浅井長政麾下の重臣海北善右衛門綱親(ぜんえもんつなちか)の五男(一説に三男)として生まれる
・1535年(天文4年) 2歳の時、父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行する
・1573年(天正元年) 浅井氏が滅亡し、兄達も討ち死にしたのち、41歳で還俗し海北家の再興をめざす
・1597年(慶長2年)頃 禅居庵障壁画を描く(友松様式確立)
・1598年(慶長3年) 石田三成に従い九州へ赴く
・1599年(慶長4年)頃 石田三成らの推挙で、再建された建仁寺方丈の建仁寺障壁画を描く
・1602年(慶長7年) 『飲中八仙図屏風』および『山水図屏風』を描く 
・1615年(慶長20年6月2日) 京都において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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