ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年05月

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 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、日本画家山口蓬春の亡くなった日です。
 山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月15日に、北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれましたが、本名を三郎(さぶろう)と言いました。1897年(明治30)頃に、父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により札幌に転居、さらに、1903年(明治36)頃に、父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住みます。
 1906年(明治39)に大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学しましたが、水彩画に熱中し、1909年(明治42)頃には、中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通い始めました。1910年(明治43)に私立高輪中学校(現在の高輪学園)第3学年に編入し、1913年(大正2)に卒業、一年志願兵として入隊します。
 1914年(大正3)に父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊し、1915年(大正4)には、東京美術学校西洋画科に入学しました。在学中の1916年(大正5)の第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられ、翌年の第4回二科展でも「庭園初夏」が入選します。
 しかし、1918年(大正7)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得するようになり、雅号を「蓬春」としました。1923年(大正12)に日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となります。
 1924年(大正13)の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)で「秋二題」が初入選、翌年の第6回帝展でも「神苑春雨」が入選し、皇后買上げとなりました。1926年(大正15)の第7回帝展では、「三熊野の那智の御山」が特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、翌7年の第8回帝展でも「緑庭」が前年に引き続き特選となります。
 1928年(昭和3)の第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となり、翌年の第10回帝展で審査員となりました。1930年(昭和5)に、中村岳陵、福田平八郎らと研究団体六潮会を結成、帝国美術学校に教授として迎えられます。
 1935年(昭和10)に帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強め、太平洋戦争下の1943年(昭和18)には、横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務めました。1945年(昭和20)の東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開します。
 1947年(昭和22)に神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居、翌年には、葉山町内で住宅を購入し永住しました。1950年(昭和25)に日展運営会参事、日本芸術院会員となり、1954年(昭和29)に日展運営会理事、1958年(昭和33)には、日展常務理事となります。
 西欧的モダニズムを融合した独自の画風を確立し、1965年(昭和40)には、文化勲章を受章、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸「楓」が完成しましたが、1971年(昭和46)5月31日に、神奈川県葉山町において、77歳で亡くなっています。
 尚、1991年(平成3)には、葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設されました。

〇山口蓬春の主要な作品

・「三熊野の那智の御山」(1926年)第7回帝展帝国美術院賞受賞
・「緑庭」(1926年)第8回帝展特選
・「市場」(1932年)東京芸術大学蔵
・「榻上の花」(1949年)東京国立近代美術館蔵
・「秋」(1962年)東京国立近代美術館蔵
・「夏の印象」

☆山口蓬春関係略年表

・1893年(明治26)10月15日 北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれる
・1897年(明治30)頃
 父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により、山口一家は札幌に転居する
・1900年(明治33) 札幌の創成小学校に入学する
・1903年(明治36)頃 一家は父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住み、築地の文海小学校に転入する
・1906年(明治39)3月 文海小学校を卒業、赤坂葵町の大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学する
・1908年(明治41)頃 珠算が不得手のため落第?珠算塾に通い、水彩画に熱中し、三宅克己著『水彩画指南』を模写する
・1909年(明治42)頃 大倉商業学校を中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通う
・1910年(明治43) 私立高輪中学校(現・高輪学園)第3学年に編入する
・1911年(明治44) 在学中、引き続き赤坂葵橋の白馬会絵画研究所へ通う
・1912年(明治45)頃、「風景」など後期印象派風の油彩画を描く
・1913年(大正2) 私立高輪中学校を卒業し、一年志願兵として入隊する
・1914年(大正3) 父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊、美術学校へ進む準備に没頭する
・1915年(大正4) 東京美術学校西洋画科に入学する
・1916年(大正5) 第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられる
・1917年(大正6) 第4回二科展に「庭園初夏」が入選する
・1918年(大正7) 東京美術学校西洋画科を退学、東京美術学校日本画科の専科に合格、入学後本科に転科、この頃から雅号を「蓬春」とする
・1920年(大正9) 校内の日本画全級コンクールで「クリスマスイヴ」が第一席となる
・1921年(大正10) 新潟県・赤倉に写生旅行、第2回中央美術社展に山口蓬春の名で「薄暮」を出品する
・1922年(大正11) 東京府主催の平和記念東京博覧会美術展に「雪の鳳凰堂[春浅き朝]」が入選する
・1923年(大正12) 東京美術学校日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となる
・1924年(大正13) 帝国美術院主催の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)に山口蓬春の名で出品、「秋二題」が初入選する
・1925年(大正14) 第6回帝展に「神苑春雨」が入選、皇后買上げとなる
・1926年(大正15) 東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷字本村376番地(現・渋谷区本町3丁目あたり)に転居、第7回帝展に「三熊野の那智の御山」を出品、特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、作品は皇室買上げとなる
・1927年(昭和2) 第8回帝展に「緑庭」を出品、前年に引き続き特選となる
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となる
・1929年(昭和4) 第10回帝展で審査員となる
・1930年(昭和5) 福田平八郎、中村岳陵、牧野虎雄、中川紀元、木村荘八、横川毅一郎、外狩素心庵らとともに研究団体六潮会を結成、帝国美術学校(日本画科長:平福百穂)に教授として迎えられる
・1931年(昭和6) 新興大和絵会、声明を発表して解散する
・1932年(昭和7) 作品集『蓬萊集』を発行、伊東深水らと青々会を結成、第13回帝展に審査員として「市場」を出品、政府買上げとなる
・1935年(昭和10) 帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強める
・1943年(昭和18) 横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務める
・1945年(昭和20) 東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開する
・1947年(昭和22) 神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居する
・1948年(昭和23) 葉山町内で住宅を購入し転居する
・1950年(昭和25) 日展運営会参事、日本芸術院会員となる
・1954年(昭和29) 日展運営会理事となる
・1958年(昭和33) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸『楓』が完成する
・1970年(昭和45) 「喜寿記念 山口蓬春展」が横浜高島屋で開催される
・1971年(昭和46)5月31日 神奈川県葉山町において、77歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 蔵書や作品群などを鎌倉市の神奈川県立近代美術館に寄贈される
・1991年(平成3) 葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1933年(昭和8)「塘沽協定」 の締結によって、満州事変が終結する詳細
1937年(昭和12)文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布される詳細
1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1949年(昭和24)「国立学校設置法」が公布され、各都道府県に新制国立大学69校が設置される詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、法学者・弁護士戒能通孝の生まれた日です。
 戒能 通孝(かいのう みちたか)は、長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれました。1927年(昭和2)に旧制第五高等学校を卒業、東京帝国大学法学部へ入学し、在学中にセツルメント法律相談部に参加します。
 1930年(昭和5)に卒業後、法学部助手となり、民法、法社会学を専攻、サビニー、イェーリング、ギールケらの古典を研究する一方で、1939年(昭和14)には、中国農村慣行調査などに参加し、法を民衆のために役だてる精神を培いました。法社会学の立場から農村の土地問題、歴史と現実の研究に打ち込み、1943年(昭和18)には、『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞します。
 太平洋戦争後は、極東国際軍事裁判の弁護人として活躍、1946年(昭和21)に民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加、翌年には、川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となりました。1949年(昭和24)に早稲田大学教授となり、翌年には、「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得ます。
 1954年(昭和29)に東京都立大学教授となり、1956年(昭和31)に国際民主法律家協会大会に参加、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会結成にも参加しました。1963年(昭和38)に日本学術会議会員となり、弁護士登録し、翌年には、岩手県一戸町小繫(こつなぎ)地区の農民の入会闘争(小繫事件)弁護のため東京都立大学を辞任します。
 1968年(昭和43)に金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受け、翌年には、東京都公害研究所初代所長となりました。公害の研究・行政面でも貢献しましたが、1975年(昭和50)3月22日に、東京において、66歳で亡くなっています。

〇戒能通孝の主要な著作

・『入会(いりあい)の研究』(1943年)第1回毎日出版文化賞受賞
・『法律の階級性』(1950年)
・『法社会学の課題』(1951年)
・『裁判』(1951年)
・『法廷技術』(1952年)
・『法律講話』(1952年)
・『市民の自由 基本的人権と公共の福祉』(1952年)
・『民法学概論』(1956年)
・『民主主義』(1956年)
・『小繋事件』(1964年)
・『公害の法社会学』(1971年)

☆戒能通孝関係略年表

・1908年(明治41)5月30日 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれる
・1927年(昭和2) 旧制第五高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部へ入学する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1939年(昭和14) 中国農村慣行調査に参加する
・1943年(昭和18) 『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞する
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加する
・1947年(昭和22) 川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となる
・1949年(昭和24) 早稲田大学教授となる
・1950年(昭和25) 「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得る
・1954年(昭和29) 東京都立大学教授となる
・1956年(昭和31) 国際民主法律家協会大会に参加する
・1958年(昭和33) 憲法問題研究会結成に参加する
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員となり、弁護士登録する
・1964年(昭和39) 小繫(こつなぎ)事件弁護のため都立大学を辞任する
・1968年(昭和43) 金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受ける
・1969年(昭和44) 東京都公害研究所初代所長となる
・1975年(昭和50)3月22日 東京において、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、言語学者服部四郎が生まれた日です。
 服部四郎(はっとり しろう)は、三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)において生まれ、旧制第一高校を経て、東京帝国大学文学部言語学科に入学、1931年(昭和6)に‎卒業し、大学院へ進みました。1933年(昭和8)に旧満州国に留学し、日本学術振興会の援助を受け、ハイラルなどで、モンゴル語、ブリヤート語やタタール語などのアルタイ諸語の研究を行ない、1936年(昭和11)に帰国して、東京帝国大学文学部講師となります。
 1942年(昭和17)に助教授に昇任し、翌年に「元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究」で、文学博士の学位を取得し、1949年(昭和24)には、教授(言語学講座担当)となりました。1950年(昭和25)にミシガン大学交換教授、1955年(昭和30)には、琉球大学招聘教授となります。
 1966年(昭和41)に榊原陽により東京言語研究所が創設されると、初代運営委員長となり、1969年(昭和44)には、東京大学を定年退官し、名誉教授となりました。1971年(昭和46)に文化功労者、1972年(昭和47)に日本学士院会員、1975年(昭和50)には、日本言語学会会長(~1977年)となります。
 1978年(昭和53)に勲二等旭日重光章受章、1979年(昭和54)にNHK放送文化賞受賞、1982年(昭和57)には、国際言語学者会議(第13回)会長となりました。中国語、モンゴル語からアイヌ語まで東アジアのあらゆる言語に通じ、戦後の言語学研究に指導的な役割を果たしたことにより、1983年(昭和58)に文化勲章受章、常設国際アルタイ学会PIACメダル受章、亀山市名誉市民となったもの、1995年(平成7)1月29日に、神奈川県藤沢市において、86歳で亡くなっています。

〇服部四郎の主要な著作

・『アクセントと方言』(1933年)
・『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究』(1946年)
・『音声学』(1951年)
・『音韻論と正書法』(1951年)
・『日本語の系統』(1959年)
・『言語学の方法』(1960年)
・『英語基礎語彙の研究』(1968年)

〇服部四郎関係略年表

・1908年(明治41)5月29日 三重県鈴鹿郡亀山町(現在の亀山市)において生まれる
・1931年(昭和6) 東京帝国大学文学部言語学科を卒業する
・1933年(昭和8) 旧満州国に留学する
・1936年(昭和11) 旧満州国から帰国し、東京帝国大学文学部講師となる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1943年(昭和18) 「元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究」で、文学博士の学位を取得する
・1949年(昭和24) 東京大学文学部教授(言語学講座担当)となる
・1950年(昭和25) ミシガン大学交換教授となる
・1955年(昭和30) 琉球大学招聘教授(琉球方言研究クラブ発足の契機となる)となる
・1966年(昭和41) 榊原陽により東京言語研究所が創設され、初代運営委員長となる
・1969年(昭和44) 東京大学を定年退官し、名誉教授となる
・1971年(昭和46) 文化功労者となる
・1972年(昭和47) 日本学士院会員となる
・1975年(昭和50) 日本言語学会会長となる
・1977年(昭和52) 日本言語学会会長を辞める
・1978年(昭和53) 勲二等旭日重光章を受章する
・1979年(昭和54) NHK放送文化賞を受賞する
・1982年(昭和57) 国際言語学者会議(第13回)会長となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、常設国際アルタイ学会PIACメダル受章、亀山市名誉市民となる
・1995年(平成7)1月29日 神奈川県藤沢市において、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)小説家・随筆家・俳人内田百閒の誕生日詳細
1942年(昭和17)歌人・詩人与謝野晶子の命日(白櫻忌)詳細
1945年(昭和20)横浜大空襲により、死者・行方不明3,959人、重軽傷者10,198人、罹災者311,218人を出す詳細
1952年(昭和27)国際通貨基金(IMF)と世界銀行が日本の加盟を承認する詳細
1961年(昭和36)青森県八戸市で白銀大火が起きる詳細
1981年(昭和56)日本で7番目の地下鉄として、京都市営地下鉄が開業(烏丸線北大路駅~京都駅間)する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1987年(昭和62)に、土木工学者鈴木雅次の亡くなった日です。
 鈴木雅次(すずき まさつぐ)は、明治時代中頃の1889年(明治22)3月6日に、長野県松本市において、父・鈴木恒太郞の二男として生まれましたが、1905年(明治38)に分家して一家を創立しました。旧制松本中学(現在の長野県立松本深志高等学校)を経て、第八高等学校で学び、1911年(明治44)に卒業後、九州帝国大学工学部土木工学科へ進みます。
 1914年(大正3)に卒業後、内務省に入り、鉄道技師となり、土木局技術課長を務め、1920年(大正9)には、欧米各国へ出張しました。1927年(昭和2)に九州帝国大学より、工学博士を得、1940年(昭和15)には、紀元二千六百年祝典記念章を受章しています。
 1942年(昭和17)に内務技監、1944年(昭和19)に土木学会会長となりましたが、1945年(昭和20)には、内務技監を退官し、日本発送電の技術顧問となりました。1946年(昭和21)に日本大学工学部教授となり、翌年に東京大学講師を兼任、1952年(昭和27)には、日本大学国土総合開発研究所長となります。
 港湾投資計画という新分野を開拓し、特に鹿島臨海工業地帯に関する研究が高く評価されました。1958年(昭和33)に交通文化賞受賞、1960年(昭和35)に紫綬褒章受章、1963年(昭和38)には、日本大学工学部教授を辞め、翌年には港湾審議会長となります。
 1968年(昭和43)に日本港湾協会長となり、文化勲章を受章、文化功労者となり、1969年(昭和44)には、松本市名誉市民となりました。1974年(昭和49)には、勲一等瑞宝章を受章したものの、1987年(昭和62)5月28日に、東京都大田区田園調布の自宅において、98歳で亡くなっています。

〇鈴木雅次の主要な著作

・『港工学』(1932年)
・『港湾』(1933年)
・『河』(1941年)
・『土木屋さん』(1956年)

☆鈴木雅次関係略年表

・1889年(明治22)3月6日 長野県松本市において、父・鈴木恒太郞の二男として生まれる
・1905年(明治38) 分家して一家を創立する
・1908年(明治41) 旧制松本中学(現在の長野県立松本深志高等学校)を卒業する
・1911年(明治44) 第八高等学校を卒業する
・1914年(大正3) 九州帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入り、鉄道技師となる
・1920年(大正9) 欧米各国へ出張する
・1927年(昭和2) 九州帝国大学より、工学博士を得る
・1940年(昭和15) 紀元二千六百年祝典記念章を受章する
・1942年(昭和17) 内務技監となる
・1944年(昭和19) 土木学会会長となる
・1945年(昭和20) 内務技監を退官し、日本発送電の技術顧問となる
・1946年(昭和21) 日本大学工学部教授となる
・1947年(昭和22) 東京大学講師を兼任する
・1952年(昭和27) 日本大学国土総合開発研究所長となる
・1958年(昭和33) 交通文化賞を受賞する
・1960年(昭和35) 紫綬褒章を受章する
・1963年(昭和38) 日本大学工学部教授を辞める
・1964年(昭和39) 港湾審議会長となる
・1968年(昭和43) 日本港湾協会長となり、文化勲章を受章、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 松本市名誉市民となる
・1974年(昭和49) 勲一等瑞宝章を受章する
・1987年(昭和62)5月28日 東京都大田区田園調布の自宅において、98歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1119年(元永2)第75代天皇とされる崇徳天皇の誕生日(新暦7月7日)詳細
1634年(寛永11)江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(新暦6月23日)詳細
1635年(寛永12)江戸幕府により、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)が布告される(新暦7月12日)詳細
1927年(昭和2)「山東派兵に関する政府声明」が出されて、第一次山東出兵が始まる詳細
1953年(昭和28)小説家堀辰雄の命日(辰雄忌)詳細
1960年(昭和35)東京開催の第12回国際鳥類保護会議(ICBP)で、トキ(鴾)が国際保護鳥に指定される詳細
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mitsudahisateru01
 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、栄養学者満田久輝が生まれた日です。
 満田久輝(みつだ ひさてる)は、大阪府において生まれ、1934年(昭和9)に旧制浪速高等学校を卒業し、京都帝国大学農学部農林化学科へ入学、1937年(昭和12)に卒業しました。1944年(昭和19)に京都帝国大学化学研究所助教授となり、戦中、戦後の食糧事情が困難な時期に、コメにビタミンを加えた強化米を開発し、国民病といわれた脚気の克服に寄与します。
 1949年(昭和24)に農学博士、1952年(昭和27)に京都大学化学研究所教授、1955年(昭和30)には、同大学農学部農芸化学科教授(栄養化学講座)となりました。1959年(昭和34)に「強化米の開発」で、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰、1961年(昭和36)に「成人の蛋白質所要量の研究」で、日本栄養・食糧学会武田賞、1963年(昭和38)には、「緑葉におけるビタミンB2生合成機構」で、日本ビタミン学会賞を受賞します。
 1966年(昭和41)に日本学術会議会員、1967年(昭和42)に京都大学農学部食品工学科教授(栄養化学講座)となり、翌年には、京都大学評議員(1969年12月まで)となりました。1971年(昭和46)に国際食品科学工学会賞バブコック・ハート賞、1972年(昭和47)に日本栄養・食糧学会会長、1973年(昭和48)に日本ビタミン学会会長、1974年(昭和49)には、国際食品科学工学会賞インターナショナル賞を受賞するなど数々の栄誉と重責を担います。
 1978年(昭和53)に京都大学を停年退官し、名誉教授、甲子園大学学長(1983年まで)となり、「食糧備蓄に関する基礎研究とその普及」で、日本栄養・食糧学会功労賞を受賞しました。さらに、1980年(昭和55)に紫綬褒章、「ビタミンB2の生合成機構に関する研究とその応用」で、日本学士院賞、1981年(昭和56)にアメリカ化学会農芸化学・食品化学賞、1983年(昭和58)に日本学士院会員、1985年(昭和60)には、勲二等旭日重光章を受章します。
 1986年(昭和61)にアインシュタイン特別名誉科学賞、1989年(平成元)に文化功労者、1994年(平成6)に文化勲章受章、1995年(平成7)には、京都市名誉市民となりました。多方面で活躍し、学術文化の向上に大きく寄与したものの、2006年(平成18)3月10日に、大坂府において、91歳で亡くなり、従三位を追贈されています。

〇満田久輝の主要な著作

・『栄養化学要説』(1959年)
・『実験栄養化学』(1961年)
・『要説実験栄養化学』(1973年)
・『米、再考-コメは世界の主食です-』(1993年)

☆満田久輝関係略年表

・1914年(大正3)5月27日 大阪府において、生まれる
・1934年(昭和9) 旧制浪速高等学校を卒業し、京都帝国大学農学部農林化学科へ入学する
・1937年(昭和12) 京都帝国大学農学部農林化学科を卒業する
・1944年(昭和19) 京都帝国大学化学研究所助教授となる
・1949年(昭和24) 農学博士となる
・1952年(昭和27) 京都大学化学研究所教授となる
・1955年(昭和30) 京都大学農学部農芸化学科教授(栄養化学講座)となる
・1959年(昭和34) 「強化米の開発」で、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰を受ける
・1961年(昭和36) 「成人の蛋白質所要量の研究」で、日本栄養・食糧学会武田賞を受賞する
・1963年(昭和38) 「緑葉におけるビタミンB2生合成機構」で、日本ビタミン学会賞を受賞する
・1966年(昭和41) 日本学術会議会員となる
・1967年(昭和42) 京都大学農学部食品工学科教授(栄養化学講座)となる
・1968年(昭和43) 京都大学評議員(1969年12月まで)となる
・1971年(昭和46) 国際食品科学工学会賞バブコック・ハート賞を受賞する
・1972年(昭和47) 日本栄養・食糧学会会長となる
・1973年(昭和48) 日本ビタミン学会会長となる
・1974年(昭和49) 国際食品科学工学会賞インターナショナル賞を受賞する
・1978年(昭和53) 京都大学を停年退官し、名誉教授となり、甲子園大学学長(1983年まで)となり、「食糧備蓄に関する基礎研究とその普及」で、日本栄養・食糧学会功労賞を受賞する
・1980年(昭和55) 紫綬褒章を受章、「ビタミンB2の生合成機構に関する研究とその応用」で、日本学士院賞を受賞する
・1981年(昭和56) アメリカ化学会農芸化学・食品化学賞を受賞する
・1983年(昭和58) 日本学士院会員となる
・1985年(昭和60) 勲二等旭日重光章を受章する
・1986年(昭和61) アインシュタイン特別名誉科学賞を受賞する
・1989年(平成元) 文化功労者となる
・1994年(平成6) 文化勲章を受章する
・1995年(平成7) 京都市名誉市民となる
・2006年(平成18)3月10日 大坂において、91歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)「墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日)詳細
1235年(文暦2)藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日)詳細
1273年(文永10)鎌倉幕府第7代執権北条政村の命日(新暦6月13日)詳細
1901年(明治34)山陽鉄道(後の山陽本線)の神戸駅~馬関駅(現在の下関駅)間が全通する詳細
1938年(昭和13)「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する詳細
1992年(平成4)漫画家長谷川町子の命日詳細
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