今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、日本画家山口蓬春の亡くなった日です。
山口蓬春(やまぐち ほうしゅん)は、明治時代後期の1893年(明治26)10月15日に、北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれましたが、本名を三郎(さぶろう)と言いました。1897年(明治30)頃に、父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により札幌に転居、さらに、1903年(明治36)頃に、父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住みます。
1906年(明治39)に大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学しましたが、水彩画に熱中し、1909年(明治42)頃には、中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通い始めました。1910年(明治43)に私立高輪中学校(現在の高輪学園)第3学年に編入し、1913年(大正2)に卒業、一年志願兵として入隊します。
1914年(大正3)に父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊し、1915年(大正4)には、東京美術学校西洋画科に入学しました。在学中の1916年(大正5)の第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられ、翌年の第4回二科展でも「庭園初夏」が入選します。
しかし、1918年(大正7)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得するようになり、雅号を「蓬春」としました。1923年(大正12)に日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となります。
1924年(大正13)の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)で「秋二題」が初入選、翌年の第6回帝展でも「神苑春雨」が入選し、皇后買上げとなりました。1926年(大正15)の第7回帝展では、「三熊野の那智の御山」が特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、翌7年の第8回帝展でも「緑庭」が前年に引き続き特選となります。
1928年(昭和3)の第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となり、翌年の第10回帝展で審査員となりました。1930年(昭和5)に、中村岳陵、福田平八郎らと研究団体六潮会を結成、帝国美術学校に教授として迎えられます。
1935年(昭和10)に帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強め、太平洋戦争下の1943年(昭和18)には、横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務めました。1945年(昭和20)の東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開します。
1947年(昭和22)に神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居、翌年には、葉山町内で住宅を購入し永住しました。1950年(昭和25)に日展運営会参事、日本芸術院会員となり、1954年(昭和29)に日展運営会理事、1958年(昭和33)には、日展常務理事となります。
西欧的モダニズムを融合した独自の画風を確立し、1965年(昭和40)には、文化勲章を受章、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸「楓」が完成しましたが、1971年(昭和46)5月31日に、神奈川県葉山町において、77歳で亡くなっています。
尚、1991年(平成3)には、葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設されました。
1906年(明治39)に大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学しましたが、水彩画に熱中し、1909年(明治42)頃には、中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通い始めました。1910年(明治43)に私立高輪中学校(現在の高輪学園)第3学年に編入し、1913年(大正2)に卒業、一年志願兵として入隊します。
1914年(大正3)に父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊し、1915年(大正4)には、東京美術学校西洋画科に入学しました。在学中の1916年(大正5)の第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられ、翌年の第4回二科展でも「庭園初夏」が入選します。
しかし、1918年(大正7)に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得するようになり、雅号を「蓬春」としました。1923年(大正12)に日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となります。
1924年(大正13)の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)で「秋二題」が初入選、翌年の第6回帝展でも「神苑春雨」が入選し、皇后買上げとなりました。1926年(大正15)の第7回帝展では、「三熊野の那智の御山」が特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、翌7年の第8回帝展でも「緑庭」が前年に引き続き特選となります。
1928年(昭和3)の第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となり、翌年の第10回帝展で審査員となりました。1930年(昭和5)に、中村岳陵、福田平八郎らと研究団体六潮会を結成、帝国美術学校に教授として迎えられます。
1935年(昭和10)に帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強め、太平洋戦争下の1943年(昭和18)には、横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務めました。1945年(昭和20)の東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開します。
1947年(昭和22)に神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居、翌年には、葉山町内で住宅を購入し永住しました。1950年(昭和25)に日展運営会参事、日本芸術院会員となり、1954年(昭和29)に日展運営会理事、1958年(昭和33)には、日展常務理事となります。
西欧的モダニズムを融合した独自の画風を確立し、1965年(昭和40)には、文化勲章を受章、文化功労者となりました。1969年(昭和44)に日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸「楓」が完成しましたが、1971年(昭和46)5月31日に、神奈川県葉山町において、77歳で亡くなっています。
尚、1991年(平成3)には、葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設されました。
〇山口蓬春の主要な作品
・「三熊野の那智の御山」(1926年)第7回帝展帝国美術院賞受賞
・「緑庭」(1926年)第8回帝展特選
・「市場」(1932年)東京芸術大学蔵
・「榻上の花」(1949年)東京国立近代美術館蔵
・「秋」(1962年)東京国立近代美術館蔵
・「夏の印象」
☆山口蓬春関係略年表
・1893年(明治26)10月15日 北海道松前郡松城町(現在の松前郡松前町字松城)において、日本銀行福山派出所勤務であった父・山口慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれる
・1897年(明治30)頃
父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により、山口一家は札幌に転居する
・1900年(明治33) 札幌の創成小学校に入学する
・1903年(明治36)頃 一家は父の転職のため仙台を経由して上京して京橋に住み、築地の文海小学校に転入する
・1906年(明治39)3月 文海小学校を卒業、赤坂葵町の大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)に入学する
・1908年(明治41)頃 珠算が不得手のため落第?珠算塾に通い、水彩画に熱中し、三宅克己著『水彩画指南』を模写する
・1909年(明治42)頃 大倉商業学校を中途退学し、赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通う
・1910年(明治43) 私立高輪中学校(現・高輪学園)第3学年に編入する
・1911年(明治44) 在学中、引き続き赤坂葵橋の白馬会絵画研究所へ通う
・1912年(明治45)頃、「風景」など後期印象派風の油彩画を描く
・1913年(大正2) 私立高輪中学校を卒業し、一年志願兵として入隊する
・1914年(大正3) 父・慶治が死去、輜重兵第一大隊を除隊、美術学校へ進む準備に没頭する
・1915年(大正4) 東京美術学校西洋画科に入学する
・1916年(大正5) 第3回二科展に「漁村の一部」が初入選、駐日イタリア大使に買上げられる
・1917年(大正6) 第4回二科展に「庭園初夏」が入選する
・1918年(大正7) 東京美術学校西洋画科を退学、東京美術学校日本画科の専科に合格、入学後本科に転科、この頃から雅号を「蓬春」とする
・1920年(大正9) 校内の日本画全級コンクールで「クリスマスイヴ」が第一席となる
・1921年(大正10) 新潟県・赤倉に写生旅行、第2回中央美術社展に山口蓬春の名で「薄暮」を出品する
・1922年(大正11) 東京府主催の平和記念東京博覧会美術展に「雪の鳳凰堂[春浅き朝]」が入選する
・1923年(大正12) 東京美術学校日本画科を首席で卒業、高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となる
・1924年(大正13) 帝国美術院主催の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)に山口蓬春の名で出品、「秋二題」が初入選する
・1925年(大正14) 第6回帝展に「神苑春雨」が入選、皇后買上げとなる
・1926年(大正15) 東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷字本村376番地(現・渋谷区本町3丁目あたり)に転居、第7回帝展に「三熊野の那智の御山」を出品、特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、作品は皇室買上げとなる
・1927年(昭和2) 第8回帝展に「緑庭」を出品、前年に引き続き特選となる
・1928年(昭和3) 第9回帝展に「潮音」が推薦となり、以後無鑑査となる
・1929年(昭和4) 第10回帝展で審査員となる
・1930年(昭和5) 福田平八郎、中村岳陵、牧野虎雄、中川紀元、木村荘八、横川毅一郎、外狩素心庵らとともに研究団体六潮会を結成、帝国美術学校(日本画科長:平福百穂)に教授として迎えられる
・1931年(昭和6) 新興大和絵会、声明を発表して解散する
・1932年(昭和7) 作品集『蓬萊集』を発行、伊東深水らと青々会を結成、第13回帝展に審査員として「市場」を出品、政府買上げとなる
・1935年(昭和10) 帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強める
・1943年(昭和18) 横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務める
・1945年(昭和20) 東京大空襲を受けて、東京の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現在の南陽市)に疎開する
・1947年(昭和22) 神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居する
・1948年(昭和23) 葉山町内で住宅を購入し転居する
・1950年(昭和25) 日展運営会参事、日本芸術院会員となる
・1954年(昭和29) 日展運営会理事となる
・1958年(昭和33) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化勲章を受章、文化功労者となる
・1969年(昭和44) 日展顧問となり、4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸『楓』が完成する
・1970年(昭和45) 「喜寿記念 山口蓬春展」が横浜高島屋で開催される
・1971年(昭和46)5月31日 神奈川県葉山町において、77歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 蔵書や作品群などを鎌倉市の神奈川県立近代美術館に寄贈される
・1991年(平成3) 葉山の旧邸宅において、「山口蓬春記念館」が開設される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1933年(昭和8) | 「塘沽協定」 の締結によって、満州事変が終結する | 詳細 |
1937年(昭和12) | 文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される | 詳細 |
1944年(昭和19) | 俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌) | 詳細 |
1949年(昭和24) | 「国立学校設置法」が公布され、各都道府県に新制国立大学69校が設置される | 詳細 |
1974年(昭和49) | 写真家木村伊兵衛の命日 | 詳細 |