
『言海』(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が編纂した、日本初の近代的国語辞典でした。1875年(明治8)に、文部省の命により作成を開始、ウェブスターのオクタボ版にその構成を倣い、1884年(露維持17)に脱稿し、1889年(明治22)5月15日に第一冊(あ~お)、1889年(明治22)10月31日に第二冊(か−さ)、1890年(明治23)5月31日に第三冊(志−ち)、1891年(明治24)4月22日に『言海』第四冊(つ−を)を刊行して完結します。
収録語数は39,103語で、①基本語も含めた普通語の辞書、②五十音順で配列、③近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語の印をつけ、活用を示す、④語釈に段階づけをする、⑤用例を載せるなどの特長がありました。1891年(明治24)12月5日に第二版(一冊本)、1891年(明治24)12月に第二版(二冊本)、1904年(明治37)2月28日に小形版(縮刷版)、1909年(明治42)8月23日に中形版が刊行され、大正末年までに四百数十版を重ねます。
以後の普通語辞書の範となり、大槻文彦の晩年10数年は、その増訂に専心しましたが、1928年(昭和3)2月17日に82歳で亡くなり、その後、1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、増補した『大言海』が刊行されました。
収録語数は39,103語で、①基本語も含めた普通語の辞書、②五十音順で配列、③近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語の印をつけ、活用を示す、④語釈に段階づけをする、⑤用例を載せるなどの特長がありました。1891年(明治24)12月5日に第二版(一冊本)、1891年(明治24)12月に第二版(二冊本)、1904年(明治37)2月28日に小形版(縮刷版)、1909年(明治42)8月23日に中形版が刊行され、大正末年までに四百数十版を重ねます。
以後の普通語辞書の範となり、大槻文彦の晩年10数年は、その増訂に専心しましたが、1928年(昭和3)2月17日に82歳で亡くなり、その後、1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、増補した『大言海』が刊行されました。
〇国語辞典『言海』の発刊日程
・1889年(明治22)5月15日:『言海』第一冊(あ~お)
・1889年(明治22)10月31日:『言海』第二冊(か−さ)
・1890年(明治23)5月31日:『言海』第三冊(志−ち)
・1891年(明治24)4月22日:『言海』第四冊(つ−を)
・1891年(明治24)12月5日:『言海』第二版(一冊本)
・1891年(明治24)12月:『言海』第二版(二冊本)
・1904年(明治37)2月28日:小形『言海』(縮刷版)
・1909年(明治42)8月23日:中形『言海』
・2004年(平成16)4月:復刻版『言海』ちくま学芸文庫、解説武藤康史
☆大槻 文彦(おおつき ふみひこ)とは?
明治から昭和時代前期に活躍した、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者です。江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。
1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。
1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。
1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。
1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。
1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。
1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。
1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。
1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。
1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。
1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1333年(元弘3) | 幕府方の北条泰家軍と反幕府方の新田義貞軍とで、分倍河原の戦いが始まる(新暦6月27日) | 詳細 |
1615年(慶長20) | 武将・安土桃山時代の大名長宗我部盛親が斬首される(新暦6月11日) | 詳細 |
1884年(明治17) | 群馬県陣場ヶ原に農民と自由党員が集結、警察分署と高利貸しを襲撃したが挫折する(群馬事件) | 詳細 |
1891年(明治25) | 建築家村野藤吾の誕生日 | 詳細 |
1932年(昭和7) | 五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺される | 詳細 |
1972年(昭和47) | 「沖縄返還協定」が発効する(沖縄復帰記念日) | 詳細 |