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 今日は、江戸時代中期の1691年(元禄4)に、江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可した日ですが、新暦では6月5日となります。
 別子銅山(べっしどうざん)は、江戸時代中期の1690年(元禄3)に発見され、翌年に江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可し、開坑されました。それから、約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した大鉱山で、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が巨大財閥となる礎となります。
 鉱床は三波川変成岩類の緑泥片岩、石墨片岩、石英片岩などの岩層中に含まれる層状含銅硫化鉄鉱床で、銅を中心に金、銀、亜鉛、硫化鉄鉱を産出、明治初年には、フランス人技師ルイ・ラロックによる施設の近代化が進められました。しかし、近代化に伴い鉱毒水による河川の汚染や煙害問題により、住民の反対運動が起き、1895年(明治28)に製錬所の四阪島移転など煙害防除等に腐心し、中和工場をつくるなどの対策をしています。
 また、度々労働争議が起きましたが、特に1907年(明治40)と1925年(大正14)は大規模なものとなりました。坑道もどんどん拡張されていき、1962年(昭和37)には、全長4,455mに及ぶ大斜坑を完成、深部開発と採鉱の効率向上に努めています。
 ところが、採鉱が深部に及び過ぎ、災害発生の危険増大と鉱石品位の顕著な低下のため、1973年(昭和48)に閉山しました。その後、1991年(平成3)6月5日に、銅山のテーマパーク「マイントピア別子」としてオープンし、現在は“端出場ゾーン”に本館があり、旧火薬庫を改造して作られた観光坑道(長さ333m・別子銅山の様子を再現)との間を、鉱山鉄道(日本初の山岳鉄道)が復元されて、別子1号が運行されています。
 また、標高750mの山中にある“東平ゾーン”には、銅にまつわる品々を展示する「東平歴史資料館」、レンガ造りの旧保安本部を活用して銅板レリーフなどを体験できる「マイン工房」、その他数々の産業遺跡が整備されていて、端出場ゾーンとの間を観光バス(要予約)で結ぶようになりました。尚、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されています。

〇別子銅山関係略年表

・1690年(元禄3) 別子銅山が発見される
・1691年(元禄4年5月9日) 江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する
・1698年(元禄11) 明治以前で最高の産銅量を記録する(一銅山としては日本最大量の1,500トン)
・1702年(元禄15) 新居浜口屋(浜宿)を設置する
・1819年(文政2) 阿波領吉野川筋で鉱毒問題を引き起こし、阿波藩主の訴願により幕府は検分使を派遣する
・1865年(慶応元) 広瀬宰平が別子支配人となる
・1868年(明治元) 大政奉還を受けて新政府は土佐藩に別子銅山を含む川之江幕府領の接収を命じる
・1874年(明治7) フランス人鉱山技師ルイ・ラロックが別子に赴任する
・1875年(明治8) 鉱山目論見書完成し、ルイ・ラロックが解雇される
・1876年(明治9) 広瀬宰平が、別子近代化起業方針を示し、東延斜坑の開さくに着手する
・1882年(明治15) 広瀬宰平が惣開精錬所の建設を政府に出願する
・1888年(明治21) 惣開精錬所が操業開始する
・1890年(明治23) 生産量が2,000トンに達する
・1893年(明治26) 住友別子鉱山鉄道が開業、銅精錬排ガスによる公害が発生する
・1896年(明治29) 新精錬所の候補地を四阪島に決定する
・1899年(明治32) 台風の集中豪雨により別子大水害が発生、512人が死亡する
・1900年(明治33) 開坑200年を記念し皇居前に楠公銅像を献納する
・1902年(明治35) 第三通洞が貫通する
・1905年(明治38) 四阪島精錬所本格操業開始したが、本土側で稲の葉が漂白され、被害者側は大阪鉱山監督署に「煙害の防止か、製錬所の廃止か」を要求し、ある時は数千人の農民が抗議する
・1906年(明治39) 飯場制度改革後、賃金の低下、係員の威圧的態度への鉱夫の反感が強まる
・1907年(明治40) 運搬夫の指導者山田豊次郎が解雇され、別子銅山争議(別子暴動とも)が始まる
・1911年(明治44) 住友別子鉱山鉄道の上部鉄道が廃止される
・1915年(大正4) 第四通洞が貫通し、全山の坑内水集め、新居浜港内の私設堀割から海中に流す
・1916年(大正5) 採鉱本部を東延から東平に移転する
・1924年(大正13) 四阪島精錬所に大煙突が完成する
・1925年(大正14) 日本労働総同盟系の別子労働組合が不当解雇反対、組合抑圧の中止、死傷者の手当改善などを要求してストライキに突入する
・1926年(大正15) 会社側は労働者172人を解雇、県知事が調停に入り、争議団がこの解雇を認め、金一封の支給を受けて終息したものの、組合は壊滅する
・1927年(昭和2) 鷲尾勘解治が最高経営者となる
・1929年(昭和4) 新居浜築港計画を出願する
・1930年(昭和5) 採鉱本部を東平から端出場に移転する
・1939年(昭和14) 新居浜築港が完成、四阪島精錬所煙害問題が解決する
・1960年(昭和35) 大斜坑の開削に着手する
・1962年(昭和37) 大斜坑(全長4,455m)が完成する
・1968年(昭和43) 東平坑を休止し、東平から撤退する
・1973年(昭和48) 筏津坑終掘が閉山し、全山閉山となる
・1975年(昭和50) 別子銅山記念館が開館する
・1977年(昭和52) 住友別子鉱山鉄道が廃止される
・1991年(平成3)6月5日 銅山のテーマパーク「マイントピア別子」としてオープンする
・2007年(平成19)11月30日 経済産業省から「近代化産業遺産」に認定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細