
末永雅雄(すえなが まさお)は、明治時代後期の1897年(明治30)6月23日に、大阪府南河内郡狭山村(現在の大阪狭山市)において、河内狭山の旧家で地主だった、父・末永勝三郎、母・こまの長男(一人っ子)として生まれました。狭山尋常小学校卒業後、水戸学の学統をひく高瀬真卿に師事し、1909年(明治42)には、親の反対を押し切って家を飛び出し、高瀬の書生となって刀剣鑑定術や歴史を学びます。
1917年(大正6)に許嫁と結婚後、大阪の騎兵第四連隊第三中隊に入隊、1920年(大正9)には、関保之助に師事し、有職故実、考古学の指導を受けました。1926年(大正15)に、京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受けるようになり、翌年には、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託・考古学担当として発掘・研究を行うようになります。
1933年(昭和8)に石舞台古墳の調査を行い、1934年(昭和9)に『日本上代の甲冑』を上梓し、1936年(昭和11)には、これによって、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞しました。1938年(昭和13)に奈良県の橿原遺跡の調査を担当、自分で橿原考古学研究所を創立し、1941年(昭和16)には、『日本上代の武器』刊行により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立します。
太平洋戦争後の1948年(昭和23)に龍谷大学より、文学博士を取得し、1950年(昭和25)に関西大学文学部講師に就任、1951年(昭和26)には、橿原考古学研究所が奈良県に移管され、同所所長を務めることになりました。1952年(昭和27)に関西大学文学部教授となり、考古学の講義をはじめ、1969年(昭和44)には、勲三等瑞宝章を受章、奈良県文化賞、大阪市民文化賞、大阪府民なにわ賞を受賞します。
1970年(昭和45)に関西大学教授を辞め、名誉教授となり、1972年(昭和47)に高松塚古墳の発掘を指導、1974年(昭和49)には、第44回朝日文化賞を受賞しました。1979年(昭和54)に勲二等瑞宝章を受章、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1985年(昭和60)に藤ノ木古墳の調査を指導、1986年(昭和61)には、日本学士院会員となります。
多数の遺跡発掘に関わり、精緻で実証的な研究を行い、1988年(昭和63)に、考古学界で初めての文化勲章受章者となったものの、1991年(平成3)5月7日に、大阪府大阪狭山市において、93歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されました。
1917年(大正6)に許嫁と結婚後、大阪の騎兵第四連隊第三中隊に入隊、1920年(大正9)には、関保之助に師事し、有職故実、考古学の指導を受けました。1926年(大正15)に、京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受けるようになり、翌年には、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託・考古学担当として発掘・研究を行うようになります。
1933年(昭和8)に石舞台古墳の調査を行い、1934年(昭和9)に『日本上代の甲冑』を上梓し、1936年(昭和11)には、これによって、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞しました。1938年(昭和13)に奈良県の橿原遺跡の調査を担当、自分で橿原考古学研究所を創立し、1941年(昭和16)には、『日本上代の武器』刊行により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立します。
太平洋戦争後の1948年(昭和23)に龍谷大学より、文学博士を取得し、1950年(昭和25)に関西大学文学部講師に就任、1951年(昭和26)には、橿原考古学研究所が奈良県に移管され、同所所長を務めることになりました。1952年(昭和27)に関西大学文学部教授となり、考古学の講義をはじめ、1969年(昭和44)には、勲三等瑞宝章を受章、奈良県文化賞、大阪市民文化賞、大阪府民なにわ賞を受賞します。
1970年(昭和45)に関西大学教授を辞め、名誉教授となり、1972年(昭和47)に高松塚古墳の発掘を指導、1974年(昭和49)には、第44回朝日文化賞を受賞しました。1979年(昭和54)に勲二等瑞宝章を受章、1980年(昭和55)に文化功労者となり、1985年(昭和60)に藤ノ木古墳の調査を指導、1986年(昭和61)には、日本学士院会員となります。
多数の遺跡発掘に関わり、精緻で実証的な研究を行い、1988年(昭和63)に、考古学界で初めての文化勲章受章者となったものの、1991年(平成3)5月7日に、大阪府大阪狭山市において、93歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されました。
〇末永雅雄の主要な著作
・『日本上代の甲冑』(1934年)
・『日本上代の武器』(1941年)
・『日本の古墳』(1961年)
・『考古学の窓』(1968年)
・『古墳の航空大観』(1975年)
・『近畿古文化の研究』(1984年)
☆末永雅雄関係略年表
・1897年(明治30)6月23日 大阪府南河内郡狭山村(現在の大阪狭山市)において、河内狭山の旧家で地主だった、父・末永勝三郎、母・こまの長男(一人っ子)として生まれる
・1904年(明治37) 狭山尋常小学校へ入学する
・1909年(明治42) 親の反対を押し切って家を飛び出し、高瀬の書生となって刀剣鑑定術や歴史を学ぶ
・1917年(大正6) 許嫁と結婚後、大阪の騎兵第四連隊第三中隊に入隊する
・1920年(大正9) 関保之助に師事し、有職故実、考古学の指導を受ける
・1926年(大正15) 京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受ける
・1927年(昭和2) 奈良県史蹟名勝天然記念物調査会嘱託・考古学担当として発掘・研究を行う
・1933年(昭和8) 石舞台古墳の調査を行う
・1934年(昭和9) 『日本上代の甲冑』を上梓する
・1936年(昭和11) 『日本上代の甲冑』で、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞する
・1938年(昭和13) 奈良県の橿原遺跡の調査を担当、自分で橿原考古学研究所を創立する
・1941年(昭和16) 『日本上代の武器』刊行により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立する
・1948年(昭和23) 龍谷大学より、文学博士を得る
・1950年(昭和25) 関西大学文学部講師に就任する
・1951年(昭和26) 橿原考古学研究所が奈良県に移管され、同所所長を務める
・1952年(昭和27) 関西大学文学部教授となり、考古学の講義をはじめる
・1953年(昭和28) 故本山彦一元毎日新聞社長の考古資料コレクションを関西大学が譲り受ける際、本山家と大学側の調整役を務め、本学の考古資料充実の基礎を築く
・1969年(昭和44) 勲三等瑞宝章を受章、奈良県文化賞、大阪市民文化賞、大阪府民なにわ賞を受賞する
・1970年(昭和45) 関西大学教授を辞め、名誉教授となる
・1972年(昭和47) 高松塚古墳の発掘を指導する
・1974年(昭和49) 第44回朝日文化賞を受賞する
・1979年(昭和54) 勲二等瑞宝章を受章する
・1980年(昭和55) 文化功労者となる
・1985年(昭和60) 藤ノ木古墳の調査を指導する
・1986年(昭和61) 日本学士院会員となる
・1988年(昭和63) 文化勲章を受章する
・1991年(平成3)5月7日 大阪府大阪狭山市において、93歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1073年(延久5) | 第71代天皇とされる後三条天皇の命日(新暦6月15日) | 詳細 |
1858年(安政5) | 伊東玄朴ら蘭医83名の醸金で、江戸の上野にお玉ヶ池種痘所が設立される(新暦6月17日) | 詳細 |
1875年(明治8) | 日露が「樺太・千島交換条約」に調印する | 詳細 |
1936年(昭和11) | 第69帝国議会の衆議院で斎藤隆夫議員が軍部革正(粛軍)を要請する質問演説(粛軍演説)をする | 詳細 |
1988年(昭和63) | 文芸評論家山本健吉の命日 | 詳細 |