「武家諸法度」(宝永令)は、第6代将軍家宣の時のもので、その政治を支え、「正徳の治」を実行した儒学者新井白石の起草によるものでした。本文を和漢混交文から和文に改訂し、読んで理解の行き届く表記とし、「武家諸法度」(寛永令)の条文によりながらも、内容を17ヶ条に整理統合しています。
その中で、「武家諸法度」(天和令)の時の改訂で行われた殉死の禁等を継承し、また諸役に就いた武家が権勢に誇り賄賂に惑わされることを戒める条を新設しました。これは、儒教の仁政思想(徳治主義)を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定したものとされます。
しかし、効力を持った期間は7年ほどに過ぎず、第8代将軍吉宗の「武家諸法度」(享保令)によって破棄され、「武家諸法度」(天和令)の内容に戻されました。
以下に、「武家諸法度」(宝永令)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?
江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。
第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。
1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。
第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。
☆「武家諸法度」(宝永令) 1710年(宝永7年4月15日)発布
一、文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事。
一、国郡家中の政務、各其の心力を尽くし、士民の怨苦を致すべからざる事。
一、軍役の兵馬を整備へ、公役の支料を儲蓄ふべき事。
一、参勤の交替其の定期を違ふべからず、従者の員数其分限に過べからざる事。
一、新築の城郭私に経営する事を聴さず、其の修築に至ては、堀土居石垣等は 上裁を仰ぐべし。矢倉門塀等は制限にあらざる事。
一、大小の諸役、諸番の頭人等、権勢に依りて人を凌ぎ、公儀を仮りて私を営 むべからず。同列 相和らぎて衆議を会し、上聞を□がずして下情を通し、 偏頗なく贔負あらず、各其の職事に練習して公務を精勤すべき事。
一、貨賄を納れて権勢の力を仮り、秘計を廻らして内縁の助を求む、皆是れ邪 路を開きて正道を害す、政事のよりて傷るゝ所なり、一切に禁絶すべき事。
一、群飲佚游の禁、旧制既に明白なり。凡そ奢靡を競ひて礼制によらず、財利 を貪りて廉恥をかへりみず、妄りに人才の長短を論し、竊に時事の得失を議 す、風を傷り、俗を敗る事、是より甚しきはなし、厳に禁止を加ふべき事。
一、私領百姓の訴論は其の領主の裁断たるべし、事もし他領に係るにおひては、 或ひは両地の領主互に相通じ、或ひは支配の頭人各相会して議定すべし、事 尚一決し難きにおひては、評定所に就て採決を請はしむべき事。
一、越境の違乱犯罪の追捕等、其の余何事に限らず、私に争論に及ぶべからず、 事もし相和らぎ難きに至りては、各其の事を注進すべし。若し刑罰の事これ 有る時は、使たる者の外、私に出会ふ事をゆるさず、凡そ使として差遣はす もの、其の人の高下其の事の大小を論ぜず、敢て対捍あるべからざる事。
一、衣服居室の制并びに宴饗の供贈遺の物、或ひは奢侈に及び、或ひは節倹に 過ぐ、皆是礼文に節にあらず、貴賎各其の名分を守りて、大過不及に至るべ からざる事。
一、乗輿の制、凡そ万石以上より、国主の嫡子、庶子、城主并びに侍従以上の 嫡子に至り、其の余、年五十以上の輩の外、みだりに是をゆるさざる事。
一、婚姻は凡そ万石以上、布衣以上の役人并びに近習の輩等私に相約する事を ゆるさず、若しくは公家の人々と相議するにおひては、まづ上裁を蒙りて後 に、其の約を定むべし、嫁娶の儀式すべて旧制を守りて、各其の分限に相随 ふべき事。
一、継嗣は其の子孫相承すべき事論ずるに及ばず、子なからんものは、同姓の 中其の後たるべき者を撰ぶべし、凡そ十七歳より以上は其の後たるべきもの を撰び、現在の日に及びて望請ふ事をゆるす、或ひは実子たりといふとも、 立べき者の外を撰び、或ひは子なくして其の後たるべき者を撰ぶのごときは、 親族家人等議定の上を以て、上裁を仰ぐべし、若し其の望請ふ所のごときは、 其の濫望をゆるすべからず、しかりといへども、或ひは父祖の功績或ひは其 の身の勤労、他に異なる輩におひては、望請ふ所なしといふとも、別儀を以 て恩裁の次第有るべき事。
一、殉死の禁、更に厳制を加ふる所なり、或ひは徒党を植て、或ひは誓約を結 ぶのごとき、妄りに非義を行ひて敢て憲法を犯すの類、一切に厳禁すべき事。
一、諸国散在の寺社古より寄付の地、これを没却することをゆるさず、新建の 寺社に至りては、停止既に訖りぬといへども、若し故ありて望請ふべき事有 におひては、上裁を仰ぐ事を許す、且は耶蘇の厳禁はいふに及ばず、たとひ 古より流布の諸宗たりといふとも、或ひは新異の法をたて、或ひは妖妄の設 を作りて、愚俗を欺き惑はすの類、是又厳禁すべき事。
右の条々、旧章に由りてこれを修飾す、すべて教令の及ぶ所、遠近一つによろしく遵行すべき者なり。
宝永七年寅四月十五日
『御触書寛保集成』より
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