ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年03月

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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、「国家総動員法」第6条に基づいて、「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号)が公布(施行は同年4月20日)された日です。
 「従業者雇入制限令」(じゅうぎょうしゃやといいれせいげんれい)は、1938年(昭和13)4月1日に公布(同年5月5日施行)された、「国家総動員法」に基づいて、翌年3月31日に公布(施行は同年4月20日)された勅令(昭和14年勅令第126号)でした。厚生大臣が指定する職種(技術者9種類、職工84種の計93職種)の労働者のうち、年齢15歳以上50歳未満の男子で、他の雇用者に3ヶ月以上雇用されていた者、あるいは3ヶ月以上雇用された後、雇用を終了し6ヶ月以内の者については、新たに雇用する場合に職業紹介所長の認可を要するとしたものです。
 尚、同時に、「国家総動員法」に基づいて、「工場就業時間制限令」(昭和14年勅令第127号)、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)、「学校技能者養成令」(昭和14年勅令第130号)、「工場事業場技能者養成令」(昭和14年勅令第131号)などが出されています。この勅令は、「従業者移動防止令」(昭和15年勅令第750号)に改正され、1940年(昭和15)11月20日で廃止されました。
 以下に、「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号)を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇「従業者雇入制限令」(昭和14年勅令第126号) 1939年(昭和14)3月31日公布、同年4月10日施行

第一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者(以下従業者ト称ス)ノ国家総動員法第六条ノ規定ニ基ク雇入制限ハ本令ノ定ムル所ニ依ル
 一 年齢十六年以上五十年未満ノ男子ニシテ引続キ三月以上他人ニ雇傭セラレテ厚生大臣ノ指定スル職業ニ従事スルモノ
 二 年齢十六年以上五十年未満ノ男子ニシテ引続キ三月以上他人ニ雇傭セラレテ前号ノ職業ニ従事シ本令施行後ニ於テ其ノ雇傭ヲ終了シ且其ノ雇傭ヲ終了シタル日ヨリ厚生大臣ノ指定スル学校卒業者タル者ニ在リテハ一年、其ノ他ノ者ニ在リテハ六月ヲ経過セザルモノ
 三 引続キ三月以上工場事業場技能者養成令ノ養成工(以下養成工ト称ス)タル者
 四 引続キ三月以上養成工タリシ者ニシテ養成工タラザルニ至リタル日ヨリ六月ヲ経過セザルモノ

第二条 工場又ハ事業場ニ於テ使用スル為従業者ヲ雇入レントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ前条第一号又ハ第三号ニ該当スル者ノ雇入ニ付テハ其ノ者ガ現ニ就業スル地ノ所轄職業紹介所長ノ、前条第二号ニ該当スル者ノ雇入ニ付テハ其ノ者ガ雇傭終了ニ至ル迄前条第一号ノ職業ニ従事シタル地ノ所轄職業紹介所長ノ、前条第四号ニ該当スル者ノ雇入ニ付テハ其ノ者ガ養成工タラザルニ至ル迄就業シタル地ノ所轄職業紹介所長ノ認可ヲ受クベシ前条第一号ノ職業ニ従事セシムル為従業者ヲ雇入レントスル者亦同ジ

第三条 職業紹介所長前条ノ認可ノ申請ニ付不正又ハ虚偽ノ事実アリト認ムルトキハ認可ヲ取消スコトヲ得

第四条 第二条ノ認可ニ関シ必要アル場合ニ於テハ同条ノ職業紹介所長及雇入ニ依リ従業者ノ就業スベキ地ノ所轄職業紹介所長ハ国家総動員法第三十一条ノ規定ニ基キ関係人ヨリ報告ヲ徴シ又ハ当該官吏ヲシテ関係ノ工場、事業場若ハ事務所ニ臨検セシメ業務ノ状況若ハ帳簿書類ヲ検査セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ニ依リ当該官吏ヲシテ臨検検査セシムル場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ

第五条 本令ハ市町村其ノ他之ニ準ズベキモノニ於テ従業者ヲ吏員トシテ採用スル場合ニ之ヲ準用ス

第六条 本令ハ国又ハ道府県ニ於ケル従業者ノ雇入ニハ之ヲ適用セズ

第七条 本令中厚生大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督、樺太ニ在リテハ樺太庁長官、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トシ職業紹介所長トアルハ朝鮮ニ在リテハ府尹、郡守又ハ島司、台湾ニ在リテハ市尹又ハ郡守(澎湖庁ニ在リテハ庁長)、樺太ニ在リテハ樺太庁支庁長、南洋群島ニ在リテハ南洋庁支庁長トシ道府県トアルハ朝鮮ニ在リテハ道、台湾ニ在リテハ州又ハ庁、南洋群島ニ在リテハ南洋群島地方費トス

  附 則

本令ハ昭和十四年四月二十日ヨリ之ヲ施行ス但シ朝鮮、台湾、樺太及南洋群島ニ在リテハ昭和十四年八月一日ヨリ之ヲ施行ス

      「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布する詳細
物理学者朝永振一郎の誕生日詳細
1939年(昭和14)「国家総動員法」第6条に基づいて、「賃金統制令」(昭和14年勅令第128号)が公布される詳細
1947年(昭和22)旧「教育基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)日本国有鉄道(国鉄)が115年の歴史に幕を下ろす(翌日から分割・民営化)詳細
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 今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、鴨長明が随筆『方丈記』を書き上げた日ですが、新暦では4月22日となります。
 『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明著の随筆で、鎌倉時代の1212年(建暦2)に成立したと考えられてきました。人生の無常、有為転変の相と日野山閑居のさまを描写しています。
 また、文中で1177年(安元3)の安元の大火、1180年(治承4)の治承の竜巻、と福原への遷都、1181~82年(養和年間)の養和の飢饉、1185年(元暦2)の大地震などの天変地異や政治的事件等についても記載されていて、歴史資料としても注目されてきました。仏教的無常観と深い自照性をもち、代表的な隠者文学とされ、その文章は、簡明な和漢混淆文で、そ完成形として高く評価されています。
 吉田兼好著『徒然草』、清少納言著の『枕草子』と共に、日本三大随筆の一つと言われてきました。
 以下に、『方丈記』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『方丈記』の冒頭部分

 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
 (後略)

☆鴨長明(かものちょうめい)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代に活躍した歌人・随筆家です。1155年(久寿2)頃に、京都下鴨神社禰宜であった父・鴨長継の次男として生まれましたが、名は「ながあきら」と読みました。
 1161年(応保元)に7歳で従五位下に叙爵され、二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなどしましたが、1172年(承安2)頃に父を亡くし、後ろ盾をなくします。その後、琵琶を中原有安に、和歌を俊恵 (しゅんえ) に学び、1181年(養和元)頃に歌集『鴨長明集』を編纂しました。
 勅撰集『千載和歌集』(1187年成立)に1首入集し、初めて勅撰歌人となり、以降、石清水宮若宮社歌合、新宮撰歌合、和歌所撰歌合、三体和歌、俊成卿九十賀宴、元久詩歌合などに出詠します。その中で、後鳥羽院に歌才を認められ、1200年(正治2)『正治二年院第二度百首』の歌人に選ばれ、翌年には『新古今和歌集』編纂のための和歌所寄人となりました。
 しかし、1204年(元久元)に河合社(ただすのやしろ)の禰宜の職に就くことに失敗し、1204年(元久元)に50歳で出家、法名を蓮胤 (れんいん) と号して、後に日野の外山に隠棲します。そこで、日本の三大随筆の一つとされる『方丈記』(1212年成立)、歌論書『無名抄』(1211年以後成立?)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215年頃成立?)を著しました。
 歌人としても、『千載和歌集』以下の勅撰集に25首が入集していますが、1216年(建保4)閏6月10日(8日とも)に京都において、数え年62歳?で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1827年(文政10)医学者・蘭学者大槻玄沢の命日(新暦4月25日)詳細
1946年(昭和21)連合国最高司令官に対し、「米国教育使節団第一次報告書」が提出される詳細
1959年(昭和34)砂川闘争に関して、砂川事件第一審判決(伊達判決)が出される詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、日本初の労働法である「工場法」が公布(施行は1916年(大正5)9月1日)された日です。
 「工場法」(こうじょうほう)は、日本初の工場労働者の保護を目的とした法律でした。日本では欧米より遅れ、明治時代後期の1910年(明治43)にやっと政府が議会に法案を提出します。
 しかし、紡績資本家などの反対のために成立しませんでした。そして、翌年にいろいろな修正をされて、骨抜き状態のようになって3月29日に成立して公布され、5年後の1916年(大正5)9月1日に施行されます。
 日本における労働法の出発となるものでしたが、その内容は、12歳未満の者の就労禁止、16歳未満の児童および女子の労働時間の制限(当初1日12時間→改正で1日11時間)と深夜労働の禁止、業務上の傷病死亡に対する扶助制度等で、小規模工場(当初15人未満→改正で10人未満)は適用対象外となり、多くの例外規定があって、国際的にみても不十分なものでした。制定後、何度か改正されましたが、太平洋戦争後の1947年(昭和22)、「労働基準法」の制定によって廃止されています。

〇「工場法」(明治44年法律第46号)1911年(明治44)3月29日公布、1916年(大正5)9月1日施行

第一条 本法ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル工場ニ之ヲ適応ス
 一 常時十五人以上ノ職工ヲ使用スルモノ
 二 事業ノ性質危険トセサル工場ハ勅命ヲ以テ之ヲ除外スルコトヲ得

第二条 工業主ハ十二才未満ノ者ヲシテ工場ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス但シ本法施行ノ際十才以上ノ者ヲ引続キ就業セスムル場合ハ此ノ限ニ在ラス
 行政官庁ハ軽易ナル業務ニ付就業ニ関スル条件ヲ附シテ十才以上ノ者ノ就業ヲ許可スルコトヲ得

第三条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就業セシムルコトヲ得ス
 主務大臣ハ業務ノ種類ニ依リ本法施行後一五年間ヲ限リ前項ノ就業時間ヲ二時間以内延長スルコトヲ得
 就業時間ハ工場ヲ異ニスル場合ト雖前二項ノ規定ノ適用ニ付テハ之ヲ通算ス

第四条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス

第五条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ニ於テハ前条ノ規定ヲ適用セス但シ本法施行十五年後ハ一四才未満ノ者及二十才未満ノ女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セスムルコトヲ得ス
 一 一時ニ作業ヲ為スコトヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ
 二 夜間ノ作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ就カシムルトキ
 三 昼夜連続作業ヲ必要トスル特種ノ事由アル業務ニ職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムルトキ
 前項ニ掲ケタル業務ノ種類ハ主務大臣之ヲ指定ス

第六条 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ就業セシムル場合ニ於テハ本法施行後十五年間第四条ノ規定ヲ適用セス

第七条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ニ対シ毎月少クトモ二回ノ休日ヲ設ケ職工ヲ二組ニ分チ交替ニ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ就業セシムル場合及第五条第一項第二号ニ該当スル場合ニ於テハ少クトモ四回ノ休日ヲ設ケ又一日ノ就業時間カ六時間ヲ超ユルトキハ少クトモ三十分、十時間ヲ超ユルトキハ少クトム一時間ノ休憩時間ヲ就業時間中ニ於テ設クヘシ
 職工ヲ二組以上ニ分チ交替ニ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルトキハ十日ヲ越エサル期間毎ニ其ノ就業時ヲ転換スヘシ

第八条 天災事変ノ為又ハ事変ノ虞アル為必要アル場合ニ於テハ主務大臣ハ事業ノ種類及地域ヲ限リ第三条乃至第五条及前条ノ規定ノ適用ヲ停止スルコトヲ得
 避クヘカサル事由ニ因リ臨時必要アル場合ニ於テハ工業主ハ行政官庁ノ許可ヲ得テ期間ヲ限リ第三条ノ規定ニ拘ラス就業時間ヲ延長シ、第四条及第五条ノ規定ニ拘ラス職工ヲ 就業セシメ又ハ前条ノ休日ヲ廃スルコトヲ得
 臨時必要アル場合ニ於テハ工場主ハ其ノ都度予メ行政官庁ニ届出テ一月ニ付七日ヲ超エサル期間就業時間ヲ二時間以内延長スルコトヲ得
 季節ニ依リ繁忙ナル事業ニ付テハ工業主ハ一定ノ期間ニ月予メ行政官庁ノ許可ヲ受ケ其ノ期間中一年ニ付百二十日ノ割合ヲ超エサル限リ就業時間ヲ一時間以内延長スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ許可ヲ受ケタル期間内ハ前項ノ規定ヲ適用セス

第九条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ運転中ノ機械若ハ動力伝導装置ノ危険ナル部分ノ掃除、注油、検査若ハ修繕ヲ為サシメ又ハ運転中ノ機械若ハ動力伝導装置ニ調帯、調索ノ取附ケ若ハ取外シヲ為サシメ其ノ他危険ナル業務ニ就カシムルコトヲ得ス

第十条 工業主ハ十五才未満ノ者ヲシテ毒薬、劇薬其ノ他有害料品又ハ爆発性、発火性若ハ引火性ノ料品ヲ取扱フ業務及著シク塵埃、粉末ヲ飛散シ又ハ有害瓦斯ヲ発散スル場所ニ於ケル業務其ノ他危険又ハ衛生上有害ナル場所ニ於ケル業務ニ就カシムルコトヲ得ス

第十一条 前二条ニ掲ケタル業務ノ範囲ハ主務大臣之ヲ定ム
 前条ノ規定ハ主務大臣ノ定ムル所ニ依リ十五才以上ノ女子ニ付之ヲ適用スルコトヲ得

第十二条 主務大臣ハ病者又ハ産婦ノ就業ニ付制限又ハ禁止ノ規定ヲ設クルコトヲ得

第十三条 行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ工場及付属建設物並設備ヵ危害ヲ生シ又ハ衛星、風紀其ノ他公益ヲ害スル虞アリト認ムルトキハ予防又ハ除害ノ為必要ナル事項ヲ工業主ニ命シ必要ト認ムルトキハ其ノ全部又ハ一部ノ使用ヲ停止スルコトヲ得

第十四条 当該官吏ハ工場又ハ其ノ付属建設物ニ臨検スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ証票ヲ携帯スヘシ

第十五条 職工自己ノ重大ナル過失ニ依ラスシテ業務上負傷シ、疾病ニ罹リ又ハ死亡シタルトキハ工業主ハ勅命ノ定ムル所ニ依リ本人又ハ其ノ遺族ヲ疾序スヘシ

第十六条 職工徒弟、職工徒弟タラムトスル者若ハ工業主又ハ其ノ法定代理人若ハ工場管理人ハ職工徒弟又ハ職工徒弟タラムトスル者ノ戸籍ニ関シ戸籍吏ニ対シ無償ニテ証明ヲ求ムルコトヲ得

第十七条 職工ノ雇入、解雇、周旋ノ取締及徒弟ニ関スル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十八条 工業主ハ工場ニ付一切ノ権限ヲ有スル工場管理人ヲ選任スルコトヲ得
 工業主本法施行区域ニ居住セサルトキハ工場管理人ヲ選任スルコトヲ要ス
 工場管理人ノ選任ハ行政官庁ノ認可ヲ受クヘシ但シ法人ノ理事会社ノ業務ヲ執行スル社員、会社ヲ代表スル社員、取締役、業務担当社員其ノ他法令ノ規定ニ依リ法人ヲ代表スル者及支配人ノ中ヨリ選任スル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十九条 前条ノ工場管理人ハ本法及本法ニ基キテ発スル命令ノ適用ニ付テハ工業主ニ代ルモノトス但シ第十五条ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 工業主営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有セサル未成年者若ハ禁治産者ナル場合又ハ法人ナル場合ニ於テ工場管理人ナキトキハ其ノ法定代理人又ハ理事、業務ヲ執行スル社員、会社ヲ代表スル社員、取締役、業務担当社員其ノ他法令ノ規定ニ依リ法人ヲ代表スル者ニ付亦前項ニ同シ

第二十条 第二条及至第五条、第七条、第九条又ハ第十条ノ規定ニ違反シタル者及第十三条ノ規定ニ依ル処分ニ従ハサル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス

第二十一条 正当ノ理由ナクシテ当該官吏ノ臨検ヲ拒ミ若ハ之ヲ妨ケ若ハ其ノ訊問ニ対シ答弁ヲ為ササル者ハ三百円以下ノ罰金ニ処ス

第二十二条 工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者ハ其ノ代理人、戸主、家族、同居者、雇人其ノ他ノ従業者ニシテ本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ違背スル所為ヲ為シタルトキハ自己ノ指揮ニ出テサルノ故ヲ以テ其ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ス但シ工場ノ管理ニ付相当ノ注意ヲ為シタルトキハ此ノ限ニ在ラス
 工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者ハ職工ノ年令ヲ知ラサルノ故ヲ以テ本法ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ス但シ工業主又ハ第十九条ニ依リ工業主ニ代ル者及取扱者ニ過失ナカリシ場合ハ此ノ限ニ在ス

第二十三条 本法ニ依ル行政官庁ノ処分ニ不服アル者ハ祈願ヲ提起シ違法ニ権利ヲ障害セラレタリトスルトキハ行政訴訟ヲ提起スルコトヲ得

第二十四条 主務大臣ハ第一条ニ該当セサル工場ニシテ原動力ヲ用フルモノニ付テハ第九条、第十条、第十三条、第十四条、第十六条及第十八条及至第二十三条ノ規定ヲ適用スルコトヲ得

第二十五条 本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ハ工場管理人ニ関スル規定及罰則ヲ除クノ外官立又ハ公立ノ工場ニ之ヲ適用ス
 官立工場ニ関シテハ所轄官庁ハ本法又ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ依リ行政官庁ニ属スル職務ヲ行フ

   附 則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

                 『官報』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1401年(応永8)第101代の天皇とされる称光天皇の誕生日(新暦5月12日)詳細
1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1933年(昭和8)「米穀統制法」が公布される詳細
1939年(昭和14)詩人・建築家立原道造の命日詳細
1952年(昭和27)「文化財保護法」で、タンチョウ、トキ、オオサンショウウオ等が初の特別天然記念物に指定される詳細
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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、東京都立の「東京都江戸東京博物館」が開館した日です。
 「東京都江戸東京博物館」(とうきょうえどはくぶつかん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の歴史博物館で、江戸時代から現代までの江戸・東京の歴史・文化資料を収集・保存し、展示してきました。本館は、高床式の倉をイメージしたユニークな地上7階、地下1階の建物で、延床面積は4万6590㎡あります。
 1階に企画展示室、3階に「江戸東京ひろば」、5階と6階に常設展示室があり、ここには「江戸ゾーン」と「東京ゾーン」があり、「江戸ゾーン」には実物大の日本橋や中村座などが復元され、「東京ゾーン」には、明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示がされてきました。展示内容も豊富で、図書室(7階)、映像ホール(1階)や映像ライブラリー(7階)などもあり、年数回,企画展も開催されています。
 分館として、東京都小金井市に、江戸時代~昭和初期の歴史的建造物を移築し、復元・展示する「江戸東京たてもの園」も、同時にオープンしました。尚、本館は、2022年(令和4)4月1日より、施設老朽化に伴う改修工事の為に休館中で、2025年にリニューアルオープンの予定です。

〇博物館(はくぶつかん)とは?

 広辞苑によると、「古今・東西にわたって考古学資料・美術品・歴史的遺物、その他の学術的資料を博く蒐集し、これを組織的に陳列して一般公衆の展覧に供し、学術研究の資とし、社会教育に寄与するための施設。」となっていました。また、博物館法では、「博物館は,歴史,芸術,民俗,産業,自然科学等に関する資料を収集し,保管し(育成を含む),展示して教育的配慮のもとに一般公衆の利用に供し,その教養,調査研究,レクリエーション等に資するために必要な事業を行い,あわせて,これらの資料に関する調査研究をする機関である」とされています。
 日本では、1872年(明治5)に文部省博物局の管轄で湯島の聖堂に開設されたのが最初とされ、1875年(明治8)になって内務省管轄の博物館が設置されました。この博物館は、帝国博物館、東京帝室博物館などと名称を変え、太平洋戦争後、国立博物館となり、1952年(昭和27)に現在の東京国立博物館になったのです。そして、戦後になって博物館の数は急速に増えていきました。
 日本では現在、博物館の数は増加傾向にあり、文部科学省の調査では、2011年(平成23)10月現在で、5,747館があります。

☆日本の都道府県立博物館(総合系博物館)一覧

<北海道>
・北海道博物館(北海道札幌市厚別区)2015年4月18日開館

<東北>
・青森県立郷土館(青森県青森市)1973年9月20日開館
・岩手県立博物館(岩手県盛岡市)1980年10月5日開館
・東北歴史博物館(宮城県多賀城市)1999年10月9日開館
・秋田県立博物館(秋田県秋田市)1975年5月5日開館
・山形県立博物館(山形県山形市)1971年4月1日開館
・福島県立博物館(福島県会津若松市)1986年開館

<関東>
・茨城県立歴史館(茨城県水戸市)1974年9月3日開館
・ミュージアムパーク茨城県自然博物館(茨城県坂東市)1994年11月13日開館
・栃木県立博物館(栃木県宇都宮市)1972年10月開館
・群馬県立歴史博物館(群馬県高崎市)1979年10月21日開館
・群馬県立自然史博物館(群馬県富岡市)1996年10月22日開館
・埼玉県立歴史と民俗の博物館(埼玉県さいたま市)1971年11月開館
・埼玉県立自然の博物館(埼玉県秩父郡長瀞町)1981年開館
・東京都江戸東京博物館(東京都墨田区)1993年3月28日開館
・千葉県立中央博物館(千葉県千葉市中央区)1989年2月6日開館
・神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)1967年3月20日開館
・神奈川県立生命の星・地球博物館(神奈川県小田原市)1995年3月20日開館

<中部>
・山梨県立博物館(山梨県笛吹市)2005年10月15日開館
・新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)2000年8月1日開館
・長野県立歴史館(長野県千曲市)1994年11月3日開館
・富山県立山博物館(富山県中新川郡立山町)1991年11月1日開館
・石川県立歴史博物館(石川県金沢市)1986年10月24日開館
・福井県立歴史博物館(福井県福井市)1974年4月日開館
・福井県立恐竜博物館(福井県勝山市)2000年7月14日開館
・岐阜県博物館(岐阜県関市)1976年5月5日開館

<近畿>
・三重県立博物館(三重県津市)1953年6月26日開館
・滋賀県立琵琶湖博物館(滋賀県草津市)1996年10月20日開館
・京都府京都文化博物館(京都府京都市)1988年10月1日開館
・和歌山県立博物館(和歌山県和歌山市)1971年4月開館
・兵庫県立歴史博物館(兵庫県姫路市)1983年開館
・兵庫県立人と自然の博物館(兵庫県三田市)1992年10月10日開館

<中国>
・岡山県立博物館(岡山県岡山市)1971年8月開館
・広島県立歴史博物館(広島県福山市)1989年11月3日開館
・鳥取県立博物館(鳥取県鳥取市)1972年10月1日開館
・島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市)2007年3月10日開館
・山口県立山口博物館(山口県山口市)1912年4月1日開館

<四国>
・香川県立ミュージアム(香川県高松市)1999年11月16日開館
・愛媛県歴史文化博物館(愛媛県西予市)1994年11月19日開館
・徳島県立博物館(徳島県徳島市)1990年11月3日開館
・高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)1991年5月3日開館

<九州・沖縄>
・九州歴史資料館(福岡県小郡市)1973年開館
・大分県立歴史博物館(大分県宇佐市)1981年11月1日開館
・佐賀県立博物館(佐賀県佐賀市)1970年10月14日開館
・長崎歴史文化博物館(長崎県長崎市)2005年11月3日開館
・宮崎県総合博物館(宮崎県宮崎市)1971年3月開館
・鹿児島県立博物館(鹿児島県鹿児島市)1953年3月開館
・鹿児島県歴史資料センター黎明館(鹿児島県鹿児島市)1983年10月21日開館
・沖縄県立博物館・美術館(沖縄県那覇市)2007年11月1日開館

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1312年(正和元)京極為兼が『玉葉和歌集』(二十一代集の14番目)を撰進する(新暦5月5日)詳細
1682年(天和2)連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の命日(新暦5月5日)詳細
1868年(慶応4)神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出される詳細
1929年(昭和4)「国宝保存法」が公布される詳細
1940年(昭和15)内務省がミス・ワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16人に改名を命令する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1689年(元禄2)に、松尾芭蕉が弟子の曾良と共に、深川六間堀の芭蕉庵を出て『奥の細道』の旅に出発した日ですが、新暦では5月16日となります。
 『奥の細道』(おくのほそみち)は、江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものでした。1689年(元禄2)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。
 現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能となりました。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になっています。 

<収載されている代表的な句>
・「夏草や 兵どもが 夢のあと」
・「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
・「五月雨を あつめて早し 最上川」 

〇『奥の細道道』の冒頭部分

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
  草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
面八句を庵の柱にかけ置く。

       紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より

〇『奥の細道道』の旅(元禄2年)での芭蕉宿泊地一覧(曾良随行日記より)
 
・粕壁     3.27
・間々田    3.28
・鹿沼     3.29
・日光     4. 1
・玉入(玉生) 4. 2
・余瀬     4. 3
・野羽     4. 4~10
・余瀬      4.11~14
・黒羽      4.15
・高久      4.16~17
・那須湯本    4.18~19
・旗宿      4.20
・矢吹      4.21
・須賀川     4.22~28
・郡山      4.29
・福島      5. 1
・飯坂      5. 2
・白石      5. 3
・仙台      5. 4~ 7
・塩釜      5. 8
・松島      5. 9 
・石巻     5.10
・戸伊摩(登米)5.11
・一ノ関    5.12~13
・岩手山    5.14
・堺田     5.15~16
・尾花沢    5.17~26
・立石寺    5.27
・大石田    5.28~30
・新庄     6. 1~ 2
・羽黒     6. 3~ 5
・月山     6. 6
・羽黒     6. 7~ 9
・鶴岡     6.10~12
・酒田     6.13~14
・吹浦     6.15
・塩越     6.16~17
・酒田     6.18~24
・大山     6.25
・温海     6.26
・中村     6.27
・村上     6.28~29
・築地     7. 1
・新潟     7. 2
・弥彦     7. 3
・出雲崎    7. 4
・鉢崎     7. 5
・今町(直江津)7. 6
・高田     7. 7~10
・能生     7.11
・市振     7.12
・滑川     7.13
・高岡     7.14
・金沢     7.15~23
・小松     7.24~26
・山中     7.27~8.4
・小松     8.5?~ 8
・大聖寺    ?
・松岡     ?
・福井     8.12?~13?
・敦賀     8.14?~15?
・大垣     8.28?~9.5 

☆松尾芭蕉(まつお ばしょう)とは?

 俳諧文学の第一人者・俳聖です。江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
 若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
 1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
 1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
 そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
 弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。

<代表的な句>
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」、「五月雨をあつめて早し 最上川」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1968年(昭和43)厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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