
『奥の細道』(おくのほそみち)は、江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものでした。1689年(元禄2)の3月27日(陽暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(陽暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。
現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能となりました。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になっています。
現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能となりました。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になっています。
<収載されている代表的な句>
・「夏草や 兵どもが 夢のあと」
・「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」
・「五月雨を あつめて早し 最上川」
〇『奥の細道道』の冒頭部分
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
面八句を庵の柱にかけ置く。
紀行文『おくの細道』 松尾芭蕉著より
〇『奥の細道道』の旅(元禄2年)での芭蕉宿泊地一覧(曾良随行日記より)
・粕壁 3.27
・間々田 3.28
・鹿沼 3.29
・日光 4. 1
・玉入(玉生) 4. 2
・余瀬 4. 3
・野羽 4. 4~10
・余瀬 4.11~14
・黒羽 4.15
・高久 4.16~17
・那須湯本 4.18~19
・旗宿 4.20
・矢吹 4.21
・須賀川 4.22~28
・郡山 4.29
・福島 5. 1
・飯坂 5. 2
・白石 5. 3
・仙台 5. 4~ 7
・塩釜 5. 8
・松島 5. 9
・石巻 5.10
・戸伊摩(登米)5.11
・一ノ関 5.12~13
・岩手山 5.14
・堺田 5.15~16
・尾花沢 5.17~26
・立石寺 5.27
・大石田 5.28~30
・新庄 6. 1~ 2
・羽黒 6. 3~ 5
・月山 6. 6
・羽黒 6. 7~ 9
・鶴岡 6.10~12
・酒田 6.13~14
・吹浦 6.15
・塩越 6.16~17
・酒田 6.18~24
・大山 6.25
・温海 6.26
・中村 6.27
・村上 6.28~29
・築地 7. 1
・築地 7. 1
・新潟 7. 2
・弥彦 7. 3
・出雲崎 7. 4
・鉢崎 7. 5
・今町(直江津)7. 6
・高田 7. 7~10
・能生 7.11
・市振 7.12
・滑川 7.13
・高岡 7.14
・金沢 7.15~23
・小松 7.24~26
・山中 7.27~8.4
・小松 8.5?~ 8
・大聖寺 ?
・松岡 ?
・福井 8.12?~13?
・敦賀 8.14?~15?
・大垣 8.28?~9.5
☆松尾芭蕉(まつお ばしょう)とは?
俳諧文学の第一人者・俳聖です。江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。
若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められます。
<代表的な句>
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」、「五月雨をあつめて早し 最上川」
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1837年(天保8) | 元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日) | 詳細 |
1926年(大正15) | 歌人島木赤彦の命日(赤彦忌) | 詳細 |
1933年(昭和8) | 昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう | 詳細 |
1968年(昭和43) | 厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、カドミウム汚染の状況が明らかにされる | 詳細 |
1998年(平成10) | 小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日 | 詳細 |