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 今日は、明治時代後期の1901年(明治33)に、国木田独歩の初の作品集『武蔵野』が民友社から刊行された日です。
 作品集『武蔵野』(むさしの)は、国木田独歩の第一短編集で、浪漫主義と抒情に出発した初期の名作18編が収録されました。詩情に満ちた自然観察で武蔵野の林間の美をあまねく知らしめた不朽の名作「武蔵野」、自然を背景にした平凡な人間の平凡な生活のうちに広大な一種の無限性を感じさせる「忘れえぬ人々」を含む18短編を収録しています。
 簡勁で彫りのふかい文体と、内容にふさわしい構成の秀抜さを示す作品だと評価されてきました。

<作品集『武蔵野』収録の18短編>

・「武蔵野」(1898年1月、2月、『国民之友』)
・「郊外」(1900年10月、『太陽』)
・「わかれ」
・「置土産」(1900年12月、『太陽』)
・「源叔父」(1897年8月、『文芸倶楽部』)
・「星」(1896年12月、『国民之友』)
・「たき火」(1896年11月、『国民之友』)
・「おとづれ」
・「詩想」
・「忘れえぬ人々」(1898年4月、『国民之友』)
・「まぼろし」
・「鹿狩」(1898年8月、『家庭雑誌』)
・「河霧」(1898年8月、『国民之友』)
・「小春」(1900年12月、『中学世界』)
・「遺言」(1900年8月、『太平洋』)
・「初孫」(1900年12月、『太平洋』)
・「初恋」(1900年10月、『太平洋』)
・「糸くず」

〇短編小説『武蔵野』とは?

 『武蔵野』(むさしの)は、国木田独歩の短編小説で、明治時代後期の1898年(明治31)に、『国民の友』1月号と2月号に「今の武蔵野」のタイトルで発表され、翌々年の作品集『武蔵野』収録時に改題されてものです。当時の渋谷村(現在の東京都渋谷区)在住当時の武蔵野一帯の印象を自然の美しさと人間愛に思いをめぐらせて描いたもので、ワーズワースやツルゲーネフ(特に二葉亭四迷訳『あひゞき』)の影響がみられる浪漫的な作品とされてきました。
 すぐれた自然描写においては、徳冨蘆花著『自然と人生』と併称され、独歩の自然観、人生観を示す代表作となっています。以下に、短編小説『武蔵野』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇国木田独歩著『武蔵野』の冒頭部分

     一

「武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣といいたい、そのほうが適切と思われる。

☆国木田 独歩(くにきだ どっぽ)とは?

 明治時代に活躍した詩人・小説家です。1871年(明治4年7月15日)に、千葉県銚子(現在の銚子市)で、播州竜野藩士だった父・国木田専八と母・淡路まんの子として生まれましたが、幼名は亀吉(後に哲夫)と言いました。1876年(明治9)に父の山口裁判所勤務のため山口に移住し、幼少年期は山口県で育ち、1885年(明治18)に山口中学へ入学して寄宿生活をします。
 1887年(明治20)に山口中学校を退学して上京し、翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学しました。1891年(明治24)に植村正久より洗礼を受け、この年、校長と対立して退学します。一端山口県へ帰りますが、翌年再び上京して、浪漫主義の同人誌『青年文学』に参加、1894年(明治27)には、国民新聞に入社して日清戦争に従軍し、『国民新聞』に連載された『愛弟通信』の清新な文章が好評を博します。
 1897年(明治30)に処女小説『源叔父』を書き、また田山花袋、柳田国男、宮崎湖処子らとの共著詩集『抒情詩』に「独歩吟」を載せ、浪漫主義の詩人・小説家として出発しました。翌年『今の武蔵野』『忘れえぬ人々』『鹿狩』など浪漫的な作品を発表し、1901年(明治34)に、これらを収めた短編小説集『武蔵野』を刊行します。
 いくつかの新聞記者や編集者を経て、1902年(明治35)に矢野竜渓の敬業社に入社し、『近事画報』(後の『戦時画報』)で日露戦争の記事を報道しました。『牛肉と馬鈴薯』 (1901年) 、『春の鳥』 (1904年) など9編収載の『独歩集』を1905年(明治37)に刊行、『巡査』 (1902年) 、『空知川の岸辺』 (1902年) など9編所載の『運命』を1906年(明治38) に刊行などにより、自然主義の先駆者として、文壇的地歩を築きます。
 しかし、敬業社の後を受けて独歩社をおこすものの、経営悪化により1908年(明治40)に破産しました。そのころから結核を患いはじめ、湯河原などで療養しましたが、1908年(明治41)6月23日に、神奈川県茅ケ崎の南湖院において、37歳の若さで亡くなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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