
井上士朗(いのうえしろう)は、尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれましたが、本名は正春と言いました。叔父の町医師・井上安清(名古屋新町在住)の養子となり、専庵と号し、1757年(宝暦7年2月)には、医師として独立し、後に京都に上り、吉増周輔に師事、産科医として著名となります。
1765年~66年(明和2~3年)頃に、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門して、俳句を習い、それ以外にも国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を荻野検校に学び、漢学にも詳しく、幅の広い知識人となりました。師の暁台が隠居して京都に移るとその留守を預かり、1792年(寛政4)に、暁台が亡くなると、一門を同門俳友の臥央に譲り独立します。
尾張俳壇の指導者的立場を強めていき、衰退ぎみだった俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る評価を得るようになりました。門人は、東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は高まり、「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家の一人とされるようになりましたが、1812年(文化9年5月16日)に、名古屋において、数え年71歳で亡くなっています。
1765年~66年(明和2~3年)頃に、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門して、俳句を習い、それ以外にも国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を荻野検校に学び、漢学にも詳しく、幅の広い知識人となりました。師の暁台が隠居して京都に移るとその留守を預かり、1792年(寛政4)に、暁台が亡くなると、一門を同門俳友の臥央に譲り独立します。
尾張俳壇の指導者的立場を強めていき、衰退ぎみだった俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る評価を得るようになりました。門人は、東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は高まり、「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家の一人とされるようになりましたが、1812年(文化9年5月16日)に、名古屋において、数え年71歳で亡くなっています。
<井上士朗の代表的な句>
・「足軽の かたまつて行く 寒さ哉」(竪並(たてのならび)集)
・「たうたうと 滝の落ちこむ 茂りかな」
・「小倉山 鹿の子やわたる 路の欠」
・「月の舟 池の向ふへ つきやりて」
・「万代や 山の上より けふの月」
〇井上士朗の主要な著作
・句集『枇杷園句集』(1804年)
・句集『枇杷園句集後集』(1808年)
・『枇杷園随筆』(1810年)
・『枇杷園七部集』1~5編(1825年)
☆井上士朗関係略年表(日付は旧暦です)
・1742年(寛保2年3月10日) 尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれる
・1757年(宝暦7年2月) 医師として独立する
・1763年(宝暦13年) 三河国矢作で橋守園連中の『蛙啼集』に初入選する
・1765年~66年(明和2~3年頃) 水野万岱の勧めで加藤暁台に入門する
・1768年(明和5年) 『姑射文庫』で初めて枇杷園の号を使用する
・1774年(安永3年) 伊藤都貢と共に京都に上り、与謝蕪村と交流、難波、伏見、大津を経て伊勢神宮を参拝して帰宅する
・1777年(安永6年12月) 尾張藩主御目見となる
・1783年(天明3年) 『風羅念仏』法会の巻(士朗序・はせを堂蘭更跋)
・1784年(天明4年4月) 尾張藩御用懸を務める
・1789年(寛政元年3月) 本居宣長が名古屋を訪れた際、門人録に署名する
・1790年(寛政2年) 士朗・羅城・臥央等7人は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見る、京都の二条家屋敷で加藤暁台を宗匠とする中興御俳諧之百韻が行われた際には、士朗は萌黄散服を着用する
・1792年(寛政4年閏2月) 多度山に参詣し、『楽書日記』を著す
・1793年(寛政5年) 加藤暁台の墓参に上京し、吉野を回って帰り、『桜日記』を刊行、芭蕉の百回忌記念集『麻刈集』(士朗編)を出す
・1794年(寛政6年) 妻・貞庵が亡くなる
・1795年(寛政7年) 藤森素檗は尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』。
・1796年(寛政8年5月) 『松の炭』(蕉雨編・士朗序)が刊行される
・1798年(寛政10年6月9日) 美濃路を経て木曽に入る
・1799年(寛政11年) 『幽蘭集』(暁台編・臥央校・士朗序)
・1801年(享和元年) 二之丸御次療治を務める、門人松兄・卓池を伴い江戸へ旅をする
・1802年(享和2年11月2日) 『むぐらのおく』(南江・士朗序)
・1803年(享和3年) 名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立、中風のため藩医を引退する
・1804年(文化元年5月16日) 岳輅が名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立する
・1804年(文化元年) 『枇杷園句集』(桂五序。岳輅跋)を刊行する
・1807年(文化4年) 発病するも快方に向かう、見舞いに贈られた句を『花筏』に記録、医業を息子に譲って隠居し、松翁と号する
・1808年(文化5年) 多賀庵玄蛙は枇杷園で俳諧を興行する
・1809年(文化6年) 『暁台句集』(臥央編・士朗序・自跋)を刊行、倉田葛三は九州行脚の途上、井上士朗を訪ねる
・1810年(文化7年9月) 『枇杷園随筆』(士朗編・秋舉・大蘇序)が刊行される
・1811年(文化8年) 古稀を迎え、各地の門弟により賀集が出版される
・1812年(文化9年) 『惟然坊句文集』(中島秋擧編・朱樹叟士朗序)が刊行、『萍窓集』(尾張朱樹叟士朗序)
・1812年(文化9年5月16日) 名古屋において、71歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
710年(和銅3) | 元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日) | 詳細 |
1771年(明和8) | 八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日) | 詳細 |
1900年(明治33) | 「治安警察法」が公布される | 詳細 |
1945年(昭和20) | 東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る | 詳細 |
1975年(昭和50) | 山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する | 詳細 |