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 今日は、鎌倉時代の1293年(永仁元)に、鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置した日ですが、新暦では4月14日となります。
 鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、鎌倉時代の2回の元寇後、3回目が計画されている中で、1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名でした。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものです。
 そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決しました。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しています。

〇元寇(げんこう)とは?

 鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んできました。
 台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は3回目の襲来に備えて、博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
 
☆元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
 
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する 

<1268年(文永5)>
 
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
 
<1269年(文永6)>
  
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した 
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる 

<1271年(文永8)>
  
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した 

<1272年(文永9)>
  
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した 

<1274年(文永11)>
  
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する 
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する 
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する 
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了) 

<1275年(建治元)>

・2月 クビライは日本再侵攻の準備を進めると共に、日本を服属させるため、第7回の蒙古の使節団を派遣する
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる 
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する 

<1281年(弘安4)>
  
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する 
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける 
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する 
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する 
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する 
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する 
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する 
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する 
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する 
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する 
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了) 

<1283年(弘安6)>

・8月 クビライは第三次日本侵攻計画(1283年~)を推進する一方で、9回目となる使節団を日本に派遣する

<1284年(弘安7)>

・10月 クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら10回目となる使節団を日本に派遣する

<1292年(正応5)>

・クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣する
 
<1293年(永仁元)>

・3月7日 鎌倉幕府が蒙古再来(3度目の元寇)に備え九州の裁判と軍事の為に鎮西探題を設置する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1927年(昭和2)京都府北部の丹後半島で北丹後地震(M7.3)が起き、死者2,925人・負傷者7,806人を出す詳細
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1941年(昭和16)「国防保安法」が公布される詳細
1949年(昭和24)ジョゼフ・ドッジが会見で「ドッジ声明」を発表し、日本の経済安定策(ドッジ・ライン)を示す詳細