
『山びこ学校』(やまびこがっこう)は、山形県南村山郡山元村(現在の上山市)の中学校教師だった、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの詩・作文・日記などをまとめた生活記録文集で、1951年(昭和26)3月5日に青銅社から刊行されました。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』で、山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれたもので、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められています。
日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文「母の死とその後」などが収録されていて、農山村の生活に密着した学習を展開するなかで生まれたもので、戦後の「生活綴り方運動」復活の契機となったとされています。この本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売り上げ、教育界のみならず、文学、芸術、思想にわたる社会的関心を呼び起こしました。
1952年(昭和27)には、監督:今井正、脚本:八木保太郎で映画化され、舞台でも取り上げられ、翻訳もされました。
日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文「母の死とその後」などが収録されていて、農山村の生活に密着した学習を展開するなかで生まれたもので、戦後の「生活綴り方運動」復活の契機となったとされています。この本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売り上げ、教育界のみならず、文学、芸術、思想にわたる社会的関心を呼び起こしました。
1952年(昭和27)には、監督:今井正、脚本:八木保太郎で映画化され、舞台でも取り上げられ、翻訳もされました。
〇生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは?
大正時代~昭和時代前期にかけて成立し、弾圧されながらも太平洋戦争中も活動を継続、さらに戦後にも復活した、作文(綴方)によって教育全体の改革をはかろうとする民間教育運動です。大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践、1918年(大正7)に、鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進され、自然主義文学やプロレタリア文学なども関わって、前駆となりました。
その中で、1929年(昭和4)10月に、小砂丘忠義(1897―1937年)らによって雑誌『綴方生活』が創刊され、翌年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方が示されます。1934年(昭和9)に、東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始され、1935年(昭和10)には、百田宗治らが『工程』を創刊するなどして広がりました。
しかし、1940年(昭和15)に国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断され、さらに、1940~42年(昭和15~17)に、いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及び衰退します。太平洋戦争後は復活して、1950年(昭和25)に、「日本綴方の会」が誕生、翌年に国分一太郎著『新しい生活綴方』や 無着成恭編『山びこ学校』が刊行されて注目されます。その後、「日本綴方の会」は「日本作文の会」と改称し、現在まで続いてきました。
その中で、1929年(昭和4)10月に、小砂丘忠義(1897―1937年)らによって雑誌『綴方生活』が創刊され、翌年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方が示されます。1934年(昭和9)に、東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始され、1935年(昭和10)には、百田宗治らが『工程』を創刊するなどして広がりました。
しかし、1940年(昭和15)に国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断され、さらに、1940~42年(昭和15~17)に、いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及び衰退します。太平洋戦争後は復活して、1950年(昭和25)に、「日本綴方の会」が誕生、翌年に国分一太郎著『新しい生活綴方』や 無着成恭編『山びこ学校』が刊行されて注目されます。その後、「日本綴方の会」は「日本作文の会」と改称し、現在まで続いてきました。
☆生活綴方運動関係略年表
・大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践する
・1918年(大正7) 鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進される
・1929年(昭和4)10月 小砂丘忠義(1897―1937)らによって雑誌『綴方生活』が創刊される
・1930年(昭和5) 雑誌『綴方生活』10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方を示す
・1934年(昭和9) 東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始される
・1935年(昭和10) 百田宗治らが『工程』を創刊する
・1937年(昭和12)8月3日 大木顕一郎の指導・編集・解説で、『綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1938年(昭和13) 『綴方教室』が山本嘉次郎監督で東宝より映画化される
・1939年(昭和14) 大木顕一郎の指導・編集・解説で、豊田正子著『続綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1940年(昭和15) 国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断される
・1941年(昭和16) 豊田正子著『粘土のお面』(中央公論社)が刊行される
・1940~42年(昭和15~17) いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及ぶ
・1950年(昭和25)7月1日 「日本綴方の会」が誕生する
・1951年(昭和26)2月28日 国分一太郎著『新しい生活綴方』が刊行される
・1951年(昭和26)3月5日 無着成恭編『山びこ学校』が刊行される
・1951年(昭和26) 「日本綴方の会」が「日本作文の会」と改称する