
大槻文彦(おおつき ふみひこ)は、江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。
1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。
1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。
1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。
1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。
尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。
1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。
1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。
1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。
1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。
尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。
〇大槻文彦の主要な著作
・『万国史略』(1874年)
・『広日本文典』(1897年)
・『広日本文典別記』(1897年)
・『言海 (げんかい、ことばのうみ) 』4冊(1889~91年)
・『復軒雑纂』(1902年)
・『伊達騒動実録』(1909年)
・『口語法』(1916年)
・『口語法別記』(1917年)
☆大槻文彦関係略年表
・1847年(弘化4年11月15日) 江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 家学(漢学と詩文)を受ける
・1862年(文久2年9月) 開成所に入学、英学・数学を学ぶ、元服し、父はじめ一家で仙台へ移住する
・1863年(文久3年5月) 仙台藩校養賢堂に入る
・1866年(慶応2年) 洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学ぶ、江戸に出て開成所に再入学する
・1867年(慶応3年) 英国人牧師 M. B. Bailey の『万国新聞紙』の編集員となり、仙台藩江戸留守居役大童信太夫に伴って京都に行く
・1868年(慶応4年) 京都で鳥羽伏見の戦いに会し、『慶応卯辰実記』を著す
・1869年(明治2年) 『北海道風土記』(30 巻)成稿(宮城県図書館蔵)を著す
・1870年(明治3年) 大学南校に入り、英学・数学を学ぶ
・1871年(明治4年) 箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、アルバイトで賃訳をし、この頃から日本文法を志し、国学を独学する
・1872年(明治5年) 文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられる
・1874年(明治7年) 師範学校で教科書の翻訳・編集(『万国史略』など)に携わり、文部省で『羅馬史略』翻訳、『琉球新誌』、宮城師範学校校長となり、『日本暗射図』(白地図)作成、『亞非利加誌』訳成する
・1875年(明治8年) 文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、「擬奉英国女帝書」、「日本文法論」を著し、兄修二(如電)が隠居して家督相続する
・1876年(明治9年) 一ヶ月間、『朝野新聞』社説を担当、『小笠原島新誌』を刊行、「印刷術の史」、「日本「ジヤパン」正訛の弁」、「東洋印刷術の史」を著す
・1877年(明治10年) 「伊達政宗が遣欧の記事」、『支那文典』(高第丕(T. P. Crawford)・張儒珍共著『文学書官話 (Mandarin Grammar)』刊行する
・1878年(明治11年) 父・磐渓が亡くなり、文法会第 1 回を開催(1882 年まで 56 回)、富田鉄之助に渡英を勧められるが断念する
・1879年(明治12年) 伊香保温泉で湯治、宿の主人の依頼で『伊香保志』を執筆する
・1880年(明治13年) 『印刷術及石版術』(文部省『百科全書』の一部)を刊行する
・1881年(明治14年) 富田鉄之助らと仙台造士義会を設立し、育英事業に取り組み、如電らと白石社を創設し、翌年にかけて新井白石の『采覧異言』、『西洋紀聞』を校訂刊行する
・1882年(明治15年) 『伊香保志』、『日本小史』を刊行、井上哲次郎抄訳『倍因氏心理新説』を校訂する
・1883年(明治16年) 音楽取調掛兼勤(~1885)、「仰げば尊し」の作詞の合議に加わり、「かなのとも」(のち合同して「かなのくわい」)創立に加わり、土屋政朝訳『刪訂教育学』を閲する
・1884年(明治17年) 「外来語原考」、『言海』の草稿が完成する
・1885年(明治18年) 「三味線志」を編纂(刊行は 1896-97)する
・1886年(明治19年) 『言海』稿本の再訂が終わり、文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となり、『言語篇』(文部省『百科全書』)翻訳刊行(初の言語学紹介)、『古事類苑』編集委員(~1887)となる
・1888年(明治21年) 作並清亮編『松島勝譜』を校訂、自費出版の条件で『言海』稿本が下賜される
・1889年(明治22年) 『日本辞書 言海』第1冊刊行、『中止断行条約改正論』。
・1890年(明治23年) 玄沢遺稿『金城秘韞』を補訂、『語法指南』を刊行する
・1891年(明治24年) 『言海』第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われる
・1892年(明治25年) 岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長(生徒に吉野作造ら)、宮城書籍館館長(~1895年)となる
・1894年(明治27年) 「支倉六右衛門墳墓考」を著す
・1897年(明治30年) 『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行する
・1898年(明治31年) 「和蘭字典文典の訳述起源」を著す
・1899年(明治32年) 文学博士となり、海嘯罹災者への寄付により宮城県岩手県から木盃を得る
・1900年(明治33年) 東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行する
・1901年(明治34年) 帝室博物館列品鑑査掛となり、「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」を著し、『伊達政宗南蛮通信事略』刊行(英訳つき)する
・1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913)となり、『復軒雑纂』を刊行、下飯坂秀治編『仙台藩戊辰史』を校訂する
・1909年(明治42年) 『伊達騒動実録』を刊行、「宮城県尋常中学校校歌」を作る
・1911年(明治44年) 帝国学士院会員となる
・1912年(明治45年) 坂本嘉治馬(冨山房)と『言海』増補出版契約、「根岸 御行の松」を著す
・1916年(大正5年) 従七位から正五位に昇位、『口語法』を刊行(国語調査委員会編)する
・1917年(大正6年) 『口語法別記』を刊行、仙台の戊辰戦役殉難者弔魂祭に招かれ、県庁構内武徳殿で講演する
・1919年(大正8年) 「著述病 老体の文彦翁訪問客を謝絶 言海の増補に苦心」を著す
・1922年(大正11年) 仙台一中開校三十年記念式に出席、殉職した小野さつき訓導へ弔慰金と弔文、吉野作造、大槻校訂の『西洋紀聞』を参考に「新井白石とヨワン・シローテ」を執筆する
・1923年(大正12年) 吉野、仙台一中学友会記念号に大槻に因んで「西洋人の日本語研究」を寄稿し、別に「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」を執筆する
・1925年(大正14年) 講書始の講師となり、吉野ら教え子から、喜寿の祝いに胸像を贈られる
・1928年(昭和3年)2月17日 東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなる
・1932~37年(昭和7~12年) 如電、大久保初男、新村出らにより『大言海』が刊行される