
「地所永代売買ヲ許ス」(ちしょえいだいばいばいをゆるす)は、明治新政府が「田畑永代売買禁止令」を廃止し、土地の永代売買を解禁するために発布した太政官布告でした。これによって、1643年(寛永20年3月10日)以来の「田畑永代売買禁止令」が廃止され、土地の自由な売買が公認されることとなります。
これに伴い、同月24日に、大蔵省達第25号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」全14条が公布され、土地の売買譲渡のつど、土地の所有者、面積、地価等を記載した地券が発行されることとなりました。さらに、同年7月には、地券発行の対象が全ての私有地に広げられることとなり、その後の地租改正事業の進展へと繋がっていきます。
以下に、「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
これに伴い、同月24日に、大蔵省達第25号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」全14条が公布され、土地の売買譲渡のつど、土地の所有者、面積、地価等を記載した地券が発行されることとなりました。さらに、同年7月には、地券発行の対象が全ての私有地に広げられることとなり、その後の地租改正事業の進展へと繋がっていきます。
以下に、「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)1872年(明治5年2月15日)
地所永代賣買ノ儀從來禁制ノ處自今四民共賣買致所持候儀被差許候事
「ウィキソース」より
〇「田畑永代売買禁止令」(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)とは?
1643年(寛永20年3月)に、江戸幕府の発した田畑の売買を禁止する法令の総称でした。3月10日付の「堤川除普請其外在方取扱之儀二村御書付」全7ヶ条の第3条、3月11日付の在々御仕置之儀ニ付御書付」全17ヶ条の第13条、及び3月に出された罰則規定「田畑永代売買御仕置」全4ヶ条を含める場合もあります。前年の寛永の大飢饉を契機に、窮乏化した農民が田畑を売り払って没落・流民化していく問題が顕在化しました。そこで、江戸幕府は農民の担税能力維持を目的として、富農への土地集積による農民の階層分化を防ぐために、今後の田畑の売買を禁じたものです。違反者については、「田畑永代売買御仕置」において、売主は入牢の上追放、買主は入牢、買い取った田畑は没収、証人も入牢という重い刑罰を定めました。しかし、重い年貢を支払うために、農民が田畑の質入れをすることは容認されたため、質入れした田畑が質流れによって移動し、富農への田畑の集中が進み、地主階級が誕生していくことになります。このことにより、事実上法令は空洞化し、明治維新後の1872年(明治5年2月15日)に、新政府が「地所永代売買ヲ許ス」(明治5年太政官布告第50号)を発布して廃止されました。
〇「田畑永代売買禁止令」
☆「堤川除普請其外在方取扱之儀二村御書付」全7ケ条の第3条 1643年(寛永20年3月10日)
一、身上[1]能き百姓は田地を買ひ取り、弥宜く成り、身代成らざる者[2]は田畑沽却[3]せしめ、猶々身上成るべからざるの間、向後[4]田畑売買停止たるべき事。
寛永二十年未三月
『御触書寛保集成』より
【注釈】
[1]身上:しんしょう=資産。ここでは暮らし向きの意味。
[2]身代成らざる者:しんだいならざるもの=家計の苦しい者。生活困窮者。
[3]沽却:こきゃく=売却。
[4]向後:きょうこう=以後。
<現代語訳>
一、経済力のある農民は田地を買い取って、ますます裕福になり、困窮する農民は田畑を売却して、いっそう暮らし向きが悪くなるので、今後は田畑の売買を禁止する。
寛永20年(1643年)未3月
☆「在々御仕置之儀ニ付御書付」全17条の中の第13条 1643年(寛永20年3月11日)
(一条略)
一、百姓之衣類、此以前より御法度の如く庄屋は妻子共に絹・紬、布・木綿、 脇百姓は布・木綿ばかり之を着す可し、此外はゑり帯にもいたす間敷事
(一条略)
一、百姓之食物常々雑穀を用べし、八木は猥に食はざる様に申し聞かすべき事
一、在々所々にて饂飩・切麦・素麺・蕎麦切・饅頭・豆腐以下、五穀に費に成候間、商売無用の事
一、在々にて、酒一切作る可からず。並に他所より買人、商売仕る間敷事
一、市町へ出、むざと酒のむべからざる事
一、耕作田畑共に手入よく致し、草をも油断無く取り、念を入れ申す可し。若不念に致し、不届成百姓之有らば、穿鑿之上、曲事に申付く可き事
一、壱人身之百姓煩い紛れ無く、耕作成兼侯時は、五人組は申すに及ばず、其一村として、相互に助会、田畑仕付、収納せしめ候様ニ仕るべき事
一、五穀之費になり候間、たばこ之儀、当年より本田畑新田畑共、一切作る間敷事
(二条略)
一、田畑永代之売買仕間敷事
(四条略)
寛永二十年未三月十一日
『御触書寛保集成』より
<現代語訳>
(一条略)
一、百姓の衣類は、これ以前より御法度のように、庄屋は妻子とも絹・紬・布・木綿、脇百姓は布・木綿ばかりを着ること。この外は衿や帯などに使ってはいけない。
(一条略)
一、百姓の食物は、通常雑穀を用いるべきで、米はみだりに食べないように言い聞かせなさい。
一、村々所々では、うどん・切り麦・そうめん・そば・まんじゅう・豆腐などは、五穀の無駄になるので、商売してはいけない。
一、村々では、酒は一切造ってはいけない。また、外より仕入れてきて、商売してもいけない。
一、市や町へ出て、理由もなく酒を飲んではいけない。
一、耕作している田や畑は、共に手入れをよくし、草も油断なく取り、念を入れなさい。もし、念を入れないでいる不届きな百姓がいたら、調査の上、罰を言い渡す。
一、独身の百姓が病気で耕作ができない時は、五人組は言うまでもなく、その村で、相互扶助によって、田畑仕事をし、年貢が納入できるようにしなさい。
一、五穀の無駄になるので、煙草は今年より、本田畑でも新田畑でも、一切作ってはいけない。
(二条略)
一、田畑の永代売買はしてはいけない。
(四条略)
右の条々、全ての所に必ず知らせ、これから必ずこれらのことを守らせるように、常々念を入れ取り調べる。
寛永20年(1643年)未3月11日
☆「田畑永代売買御仕置」1643年(寛永20年3月)
一、売主牢舎[1]之上追放[2]。本人死候時ハ子同罪。
一、買主過怠牢。本人死候時ハ子同罪。但買候田畑ハ売主之御代官又ハ地頭[4]江 取上之。
一、証人[5]過怠牢。本人死候時ハ子ニ構なし[6]。
一、質に取り候者、作り取り[7]にして質に置き候者より年貢役相勤候得ハ、永代 売同前之御仕置[8]、但頼納買[9]といふ。
右の通り田畑永代売買御停止之旨被仰出候。
寛永二十年未三月
『御触書寛保集成』より
【注釈】
[1]牢舎:ろうしゃ=入獄。牢屋へ入れること。
[2]追放:ついほう=所払い。居住地から追い払う刑。
[3]過怠牢:かたいろう=罰金の代わりに入獄させる刑。
[4]地頭:じとう=領主のこと。
[5]証人:しょうにん=売買に当たっての証人。
[6]構なし:かまいなし=無罪。
[7]作り取り:つくりどり=年貢を納めず収穫物をすべて自分のものとすること。
[8]御仕置:おしおき=処罰のこと。
[9]頼納買:らいのうがい=江戸時代の田地質入方法の一つで質入主は通常の相場よりも多くの金銭を借り、質取主がその土地を耕作して全収穫を取得した。
<現代語訳>
一、田畑の売主は入牢の上、追放とする。本人が亡くなった時は、子供も同罪とする。
一、田畑の買主は入牢とする。本人が亡くなった時は、子供も同罪とする。ただし、買った田畑は売主を支配している代官又は領主がこれを取り上げる。
一、売買の証人も入牢とする。本人が亡くなった時は、子供は無罪とする。
一、田畑を質のかたに取った者が、その田畑からの収穫をすべて収入とし、質に入れた者が年貢を納入する場合には、永代売買と同様の処罰とする。ただし、こういう売買形式を頼納買という。
右の通り、田畑の永代売買を禁止する旨を命じられた。