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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告された日です。
 「敵討禁止令」(かたきうちきんしれい)は、正式には、「復讐ヲ嚴禁ス」(明治6年太政官布告第37号)といい、「復讐禁止令」とも呼ばれてきました。江戸時代では、武士階級に限定されてはいましたが、主君や肉親などを殺された者が「仇討ち」として番所に届け出て許可されれば、それを実行することが認められ、多くの敵討ちが行われています。
 明治維新時の1868年(慶応4年2月)に新政府が、「仮刑律」を制定しましたが、従来の仕組みを踏襲して敵討を公認していました。その中で、刑法官判事試補の鈴木唯一が武士の無礼討を取り上げる形で私刑を禁止する建議をし、同じく私刑である敵討も議論の対象となります。
 新政府による秩序が整備され、法律尊重の思想が形成されていく中で、敵討の是非が新政府内でも問題となりました。その結果、この太政官布告が、1873年(明治6)2月7日に布告され、敵討が禁止されています。
 しかし、敵討についての条文が完全に法典からなくなったのは、1880年(明治13)7月17日の「(旧)刑法」の頒布からとなりました。
 以下に、「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)1873年(明治6)2月7日布告

復讐ヲ嚴禁ス 

人ヲ殺 スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺 ス者 ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者 ニシテ固擅殺 ノ罪ヲ免 レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往々有之甚以相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルヽ者 於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺 スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事

<読み下し文>

人を殺すは、国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは、政府の公権に候処(そうろうところ)、古来より父兄のために讐(あだ)を復(ふく)するをもって、子弟の義務となすの風習あり。右は至情(しじょう)やむを得ずに出(いづ)るといえども、畢竟(ひっきょう)私憤をもって大禁を破り、私義をもって公権を犯す者にして、固(もとより)擅殺(せんさつ)の罪を免(のが)れず。加之(しかのみならず)甚(はなはだ)しきに至りてはその事の故誤(こご)を問わず、その理の当否を顧(かえり)みず、復讐の名義を挾(さしはさ)み、濫(みだ)りに相(あい)構害(こうがい)するの弊(へい)往々(おうおう)これあり、甚(はなはだ)もって相(あい)済まされざる事に候(そうろう)。これより復讐厳禁を仰(おおせ)出(い)だされ候(そうろう)条(じょう)、今後、不幸にして至親(ししん)を害せらるる者これあるにおいては、事実を詳(つまびらか)にし、速(すみやか)にその筋へ訴え出るべく候(そうろう)。もし、その儀なく、旧習に泥(なず)み擅殺(せんさつ)するにおいては、相当の罪料に処すべき候(そうろう)条(じょう)、心得(こころえ)違いこれなきよう致(いたす)べきこと。

<現代語訳>

人を殺すことは国の厳重な禁制であり、人を殺す者を罰することは政府の公権であるが、その一方、古来から父や兄の仇討が、子や弟がその恩義に報いることとされる習わしがある。この習わしは深い恩情の抑え難い発露であるが、要するに私憤により厳重な禁制を破り、独り善がりに公権を犯すものであり、そもそも身勝手な殺人の罪を免除されることはない。
さらに、酷いものにいたっては、故意か過失かを問わず、道理に合うことか合わないことかを振り返ることもせず、復讐を言い訳にして、濫りに謀殺する弊害がしばしばあり、まったく見過ごすことができない。
かかる事態により、(陛下から)復讐厳禁の拝命があり、今後、不幸にも父母などの近親者を殺害された者がある場合は、事実を詳細に明らかにして、速やかに所轄に訴え出ること。
もし、訴えることなく、因習に執着し身勝手な殺人を行った場合は、罪の程度に応じて処罰されるので、誤解を招かないよう順守すること。

  「ウィキソース」より

☆代表的な仇討ち事件

・曾我兄弟の仇討ち 1193年(建久4年5月28日)
・大河兼任の乱 1189~90年(文治5年12月~文治6年3月)
・源実朝の暗殺 1219年(建保7年1月27日)
・山崎の戦い 1582年(天正10年6月13日)
・天下茶屋の仇討 1609年(慶長14年3月3日)
・伊賀越えの仇討ち 1634年(寛永11年11月7日)
・浄瑠璃坂の仇討 1672年(寛文12年2月3日)
・亀山の仇討ち 1701年(元禄14年5月9日)
・高田馬場の仇討ち 1694年(元禄7年2月11日)
・赤穂浪士の討ち入り 1703年1月30日(元禄15年12月14日)
・臼井六郎仇討事件 1880年(明治13年)12月17日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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