
今日は、昭和時代前期の1930年(昭和5)に、藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督で映画化した「何が彼女をさうさせたか」が封切りされた日です。
「何が彼女をさうさせたか」(なにがかのじょをそうさせたか)は、1927年(昭和2)に、藤森成吉が戯曲として、雑誌「改造」に連載されたものでした。同年4月に築地小劇場にて「彼女」の題名で、土方与志演出、山本安英主演にて、初演されました。その後、新築地劇団の再演で「何が彼女をさうさせたか」の原題となります。
鈴木重吉監督により、1930年(昭和5)2月6日封切りの映画として上映されて大ヒット、この年度のキネマ旬報ベストテンで第1位にランクインし、高い評価も集めました。社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作としても知られることとなります。
内容は、主人公の少女すみ子が、暗い家庭環境から養育院に入り、小間使などを転々とし、心中を図るが助けられ、最後に辿りついたキリスト教婦人収容施設でも欺瞞に接し、放火犯となるという、社会の不正に抗議した人道的作品でした。
鈴木重吉監督により、1930年(昭和5)2月6日封切りの映画として上映されて大ヒット、この年度のキネマ旬報ベストテンで第1位にランクインし、高い評価も集めました。社会主義思想の影響を受けた「傾向映画」の代表作としても知られることとなります。
内容は、主人公の少女すみ子が、暗い家庭環境から養育院に入り、小間使などを転々とし、心中を図るが助けられ、最後に辿りついたキリスト教婦人収容施設でも欺瞞に接し、放火犯となるという、社会の不正に抗議した人道的作品でした。
〇藤森 成吉(ふじもり せいきち)とは?
大正時代から昭和時代に活躍した小説家・劇作家です。明治時代後期の1892年(明治25)8月28日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の薬種商の長男として生まれました。長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)卒業後、上京して第一高等学校へ入学し、ロシア文学の影響で文学を志すようになります。
卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰します。
この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表しました。社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア文学の作家の一人となります。
『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席していました。しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書いています。
太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画しました。その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなっています。
卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰します。
この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表しました。社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア文学の作家の一人となります。
『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席していました。しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書いています。
太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画しました。その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなっています。
〇傾向映画(けいこうえいが)とは?
日本で昭和時代初期の1929年(昭和4)~31年頃に作られた一連の映画作品で、当時の社会不安を背景に、階級社会の暴露や闘争を描いたものでした。長びく不況、失業者増加、軍国主義化する社会体制等への危機感からのプロレタリア芸術運動の活発化を背景にし、青年層の支持を受けたものです。
内田吐夢が監督した1929年(昭和4)の『生ける人形』が先駆的作品で、1930年(昭和5)には、伊藤大輔監督の『一殺多生剣(いっさつたしょうけん)』、『斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)』、辻吉朗監督の『傘張(かさはり)剣法』、溝口健二監督の『都会交響楽』などが登場しました。そして、1930年(昭和5)には、プロレタリア作家藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督した『何が彼女をさうさせたか』が薄幸のヒロインを苛烈な社会に投じて優れた演出でみせ、大ヒットします。
翌年には、欧州から帰国した衣笠貞之助監督の『黎明以前』も作られたものの、その後は、国家検閲や同年秋の満州事変の勃発によって退潮していきまた。
内田吐夢が監督した1929年(昭和4)の『生ける人形』が先駆的作品で、1930年(昭和5)には、伊藤大輔監督の『一殺多生剣(いっさつたしょうけん)』、『斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)』、辻吉朗監督の『傘張(かさはり)剣法』、溝口健二監督の『都会交響楽』などが登場しました。そして、1930年(昭和5)には、プロレタリア作家藤森成吉の戯曲を鈴木重吉監督した『何が彼女をさうさせたか』が薄幸のヒロインを苛烈な社会に投じて優れた演出でみせ、大ヒットします。
翌年には、欧州から帰国した衣笠貞之助監督の『黎明以前』も作られたものの、その後は、国家検閲や同年秋の満州事変の勃発によって退潮していきまた。
☆代表的な傾向映画
・内田吐夢(とむ)監督『生ける人形』(1929年)
・伊藤大輔監督『一殺多生剣(いっさつたしょうけん)』(1929年)
・伊藤大輔監督『斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)』(1929年)
・辻吉朗監督の『傘張(かさはり)剣法』(1929年)
・溝口健二監督『都会交響楽』(1929年)
・鈴木重吉監督『何が彼女をさうさせたか』(1930年)
・田坂具隆監督『この母を見よ』(1930年)