
第5回御前会議は、1904年(明治37)2月4日午前に、第1次桂太郎内閣は臨時閣議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り、外交関係を断絶して独自の軍事行動をとる旨を閣議決定を受け、午後に開催された明治天皇臨席の御前会議でした。この会議で、対露開戦が承認され、翌2月5日に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」が下賜され、電報で外務大臣小村寿太郎から栗野慎一郎在ロシア公使に伝えられます。
2月6日には、栗野公使からロシアのラムスドルフ伯に伝達され、さらに、小村外務大臣はローゼン公使を外務省に呼び、外交関係断絶を通告しました。その後、2月8日に日本陸軍先遣隊が仁川に上陸、2月8日に日本海軍は、旅順港外のロシア艦隊を夜襲、2月9日に仁川沖海戦が行われ、2月10日には、日・露相互で宣戦布告が出されて、日露戦争に突入していきます。
以下に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
2月6日には、栗野公使からロシアのラムスドルフ伯に伝達され、さらに、小村外務大臣はローゼン公使を外務省に呼び、外交関係断絶を通告しました。その後、2月8日に日本陸軍先遣隊が仁川に上陸、2月8日に日本海軍は、旅順港外のロシア艦隊を夜襲、2月9日に仁川沖海戦が行われ、2月10日には、日・露相互で宣戦布告が出されて、日露戦争に突入していきます。
以下に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」 1904年(明治37)2月5日下賜
朕ハ東洋ノ平和ヲ以テ朕カ衷心ノ欣幸トスル所ナルカ故ニ清韓ノ両国ニ関スル時局ノ問題ニ付朕カ政府ヲシテ昨年来露国ト交渉セシメタリ然ルニ露国政府ハ東洋ノ平和ヲ顧念スルノ誠意ナキコトヲ確認セシムルノ止ムヲ得サルニ達シタリ盖シ清韓両国領土ノ保全ハ我日本ノ独立自衛ト密接ノ関係ヲ有ス茲ニ於テ朕ハ朕カ政府ニ命シテ露国ト交渉ヲ断チ我独立自衛ノ為メニ自由ノ行動ヲ執ラシムルコトニ決定セリ
「国立公文書館アジア歴史資料センターホームページ」より
〇御前会議(ごぜんかいぎ)とは?
「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。
明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
〇日露戦争】(にちろせんそう)とは?
明治時代後期の1904年(明治37)2月10日~1905年(明治38)9月17日まで、日本と露国の間で、朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐって行われた戦争です。
日本は、1894年(明治27)から翌年にかけての日清戦争の後、朝鮮支配の確立と満州進出をめざし、ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領し、さらに朝鮮進出を企てたため、両国の対立が激化しました。日本はそれに対し、1902年(明治35)1月30日に、日英同盟を締結し、日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とします。
翌年6月に元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したものの、妥協点を見いだせないままに推移しました。とうとう、1904年(明治37)2月8日に、奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して、戦いの火ぶたが切られ、同日陸軍も朝鮮半島に上陸し、まもなく完全に制圧、2月10日に正式に、「露国に対する宣戦の詔勅」が発せらて宣戦が布告されます。
日本は、同年8月以降の旅順攻撃、翌年3月の奉天会戦などで有利に戦いを進めましたが、以後戦闘は膠着状態となり、5月の日本海海戦でも勝利を得たものの、戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しむこととなりました。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大、1905年(明治38)1月には、血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫します。
そこで、米国大統領T.ローズベルトの講和勧告をもとに、8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、9月5日に「日露講和条約(ポーツマス条約)」調印に至りました。この結果、日本は朝鮮における優越権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利、南樺太を得て、大陸進出の地歩を固めます。
しかし、賠償金が獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では、内相官邸焼打ちなどの暴動(日比谷焼打事件)が発生することとなりました。この戦争に直接参加した総兵力は108万余人、艦船31.8万t、戦費は約20億円を要し、疾病をも含めた死傷者は37万余人、喪失艦船91隻と大きなものとなります。
日本は、1894年(明治27)から翌年にかけての日清戦争の後、朝鮮支配の確立と満州進出をめざし、ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領し、さらに朝鮮進出を企てたため、両国の対立が激化しました。日本はそれに対し、1902年(明治35)1月30日に、日英同盟を締結し、日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とします。
翌年6月に元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したものの、妥協点を見いだせないままに推移しました。とうとう、1904年(明治37)2月8日に、奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して、戦いの火ぶたが切られ、同日陸軍も朝鮮半島に上陸し、まもなく完全に制圧、2月10日に正式に、「露国に対する宣戦の詔勅」が発せらて宣戦が布告されます。
日本は、同年8月以降の旅順攻撃、翌年3月の奉天会戦などで有利に戦いを進めましたが、以後戦闘は膠着状態となり、5月の日本海海戦でも勝利を得たものの、戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しむこととなりました。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大、1905年(明治38)1月には、血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫します。
そこで、米国大統領T.ローズベルトの講和勧告をもとに、8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、9月5日に「日露講和条約(ポーツマス条約)」調印に至りました。この結果、日本は朝鮮における優越権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利、南樺太を得て、大陸進出の地歩を固めます。
しかし、賠償金が獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では、内相官邸焼打ちなどの暴動(日比谷焼打事件)が発生することとなりました。この戦争に直接参加した総兵力は108万余人、艦船31.8万t、戦費は約20億円を要し、疾病をも含めた死傷者は37万余人、喪失艦船91隻と大きなものとなります。
☆日露戦争関係略年表
<1903年(明治36)>
・2月7日 ロシアが中国東北部からの撤兵を中止する
・4月21日 京都の山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われる
・4月 ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告する
・5月 ロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめる(龍岩浦事件)
・6月10日 戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出する(七博士建白事件)
・6月12日 アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられる
・6月23日 明治天皇臨席の御前会議に、「満韓交換論」とも言うべき対露方針が提出されて、対露交渉に臨むことが確認される
・6月24日 「日露開戦を唱える七博士意見書」の全文が「東京朝日新聞」紙上に掲載され、新聞「万朝報」紙上で幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判する
・6月30日 新聞「万朝報」に、内村鑑三の非戦論が掲載される
・7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める
・8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項を提出、中国東北部・朝鮮半島に関する交渉を開始する
・10月3日 ロシアが日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出とて交渉する
・12月30日 日本が戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定する
<1904年(明治37)>
・1月17日 週刊「平民新聞」第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・1月24日 週刊「平民新聞」第11号に、幸徳秋水の「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月4日 明治天皇臨席の御前会議で、対露開戦が決定される
・2月6日 日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡す
・2月7日 週刊「平民新聞」第13号に、幸徳秋水の社説「和戦を決する者」が掲載される
・2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸する
・2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲する
・2月9日 仁川沖海戦が行われる
・2月10日 日・露相互で宣戦布告が出される
・2月11日 大本営が設置される
・2月12日 清国が局外中立を宣言する
・2月14日 週刊「平民新聞」第14号に、幸徳秋水の「戦争来」・「兵士を送る」・「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月23日 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
・2月24日 第一次旅順口閉塞作戦実施
・3月13日 週刊「平民新聞」第18号に、幸徳秋水の社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する) が掲載される
・3月20日 週刊「平民新聞」第19号に、幸徳秋水の「戦争と小学児童」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・3月24日 週刊「平民新聞」第20号に、幸徳秋水の「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)が掲載されるが、発禁処分を受ける
・3月27日 第二次旅順口閉塞作戦実施
・4月1日 「非常特別税法」、「煙草専売法」が公布それる
・5月1日 鴨緑江会戦が行われる
・5月8日 日本軍が遼東半島に上陸開始する
・6月20日 満州軍総司令部を設置する
・7月28日 ロシア国内でヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣が暗殺される
・8月10日 黄海海戦が行われる
・8月22日 大韓帝国と「第一次日韓協約」を結ぶ
・8月14日 蔚山沖海戦が行われる
・8月19日 第一回旅順総攻撃が行われる
・8月30日 遼陽会戦が行われる
・9月 文芸誌『明星』に、与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が掲載される
・10月 雑誌『太陽』で、大町桂月が与謝野晶子を“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難する
・10月9日 沙河会戦が行われる
・10月15日 バルチック艦隊が出航する
・11月 文芸誌『明星』に与謝野晶子の「ひらきぶみ」が掲載され、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と大町桂月に反論する
・11月26日 第二回旅順総攻撃が行われる
・12月5日 日本軍が旅順口203高地を占領する
・12月31日 第三回旅順総攻撃が行われる
<1905年(明治36)>
・1月 雑誌『太陽』に、大塚楠緒子の厭戦詩「お百度詣」が掲載される
・1月1日 「非常特別税法」改正法、「塩専売法」、「相続税法」を公布する
・1月2日 旅順開城する
・1月22日 ロシア国内で血の日曜日事件が起き、各地でストライキが起きる
・1月25日 黒溝台会戦が行われる
・3月1日 奉天会戦が行われる
・5月27日 日本海海戦が行われる
・6月 ロシア国内各地で反乱・暴動が起きる(ロシア第一革命の始まり)
・6月9日 アメリカのセオドア・ルーズベルトが正式に日露両国へ講和勧告を行う
・6月14日 ロシア国内で戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
・6月12日 ロシアが講和勧告を正式に受諾する
・7月7日 日本軍が樺太へ上陸(樺太作戦開始)する
・7月23日 ロシア国内でニコライ2世とドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ
・7月29日 日本とアメリカ間で「桂・タフト協定」が締結される
・7月31日 日本軍が樺太を占領する
・8月9日 アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まる
・8月12日 「日英同盟」が改訂される
・8月28日 明治天皇臨席の御前会議で、日露講和成立方針が決定される
・9月1日 日露両国が休戦議定書に調印(休戦)する
・9月5日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」に調印、日本で講和に反対する日比谷焼打事件が起きる
・9月6日 日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令を敷く
・9月7日 神戸で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・9月12日 横浜で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・10月 ロシア国内でゼネラル・ストライキが起きる
・10月14日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」を批准(終戦)する
・10月17日 ロシアのニコライ2世が十月詔書に署名する