ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年01月

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、内務省が東京と名古屋に初の建物疎開命令を出し、指定区域内の建造物の強制取り壊しが始まった日です。
 建物疎開(たてものそかい)は、都市部において、防空対策を十分なものとするため、住宅密集地の家屋を強制的に解体し「防空空地」を設け、空襲の類焼を防ぐための政策でした。昭和時代前期の1937年(昭和12)4月5日に公布(施行は10月1日)された「防空法」(1943年改正)に基づき、1943年(昭和18)12月21日に、東条英機内閣において、閣議決定された「都市疎開実施要綱」を受けたもので、翌年1月26日に、内務省が東京と名古屋に初の建物疎開命令を出し、指定区域内の建造物の強制取り壊しが始まります。
 1945年(昭和20)の敗戦までの間に、東京や横浜、名古屋、京都、大阪、広島、長崎など全国279都市で実施され、約60万戸が強制的に撤去されました。
 以下に、「都市疎開実施要項」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「都市疎開実施要項」(としそかいじっしようこう)とは?

 昭和時代前期の太平洋戦争中、連合軍による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月21日に、東條英機内閣によって、建物や人員の疎開を促進するために閣議決定されたものです。これによって、京浜、阪神、名古屋、北九州地域の重要都市に於ける疎開区域や人口疎開の対象者を定め、人口疎開政策の具体化が図られ、都市施設の地方分散がおこなわれました。
 しかし、防火区域を設定するための空地帯をつくること、重要施設(官公署や軍事施設、軍需工場)を守るため、その周囲の民家をとりこわし空地をつくることが主目的となります。防火地帯にかかる建物が強制的に撤去され、それは、東京や京都、広島などで約60万戸に及びました。
 
☆都市疎開実施要綱 (全文)  1943年(昭和18)12月21日閣議決定 

都市疎開実施要綱 (昭和18年12月21日閣議決定)

第一 方針
九月二十一日閣議決定「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」ノ趣旨ニ基キ帝都其ノ他ノ重要都市ニ付強力ナル防空都市ヲ構成スル如ク人員、施設及建築物ノ疎開ヲ実施ス

第ニ 要領

一、疎開区域
疎開区域ハ京浜、阪神、名古屋及北九州地域ニ属スル左ノ重要都市トス
京浜地域  東京都区部、横浜市、川崎市
阪神地域  大阪市、神戸市、尼崎市
名古屋地域 名古屋市
北九州地域 門司市、小倉市、戸畑市、若松市、八幡市
前項ノ区域外ニ於テモ情況ニ依リ必要ト認ムル都市ニ於テハ疎開ノ勧奨、建築物ノ除却ヲ行ヲ

二、人員ノ疎開
(一)疎開セシムベキ人員
疎開セシムベキ人員ハ建築物ノ疎開又ハ施設ノ疎開ニ伴フ者ノ外左ニ掲グル者及其ノ家族トス但シ特ニ疎開区域内ニ居住スルヲ必要トスル者ヲ除ク
(イ)疎開区域外ニ職場ヲ有スル者
(ロ)企業整備等ニ依リ転廃業スル者
(ハ)其ノ他疎開区域内ニ居住スルノ要尠キ者
適当ナル時期ニ疎開人員ニ関スル実情調査ヲ実施ス
(二)疎開ノ勧奨
(1)人員ノ疎開ハ原則トシテ勧奨ニ依ルモノトシ其ノ目標程度ハ時期及情勢ニ依リ之ヲ定ム
(2)疎開ノ勧奨ニ当リテハ総合戦力増強ノ為ニスル国民ノ戦時配備ニ積極的ニ寄与スル所以ナルコトヲ徹底セシム
(3)疎開ノ勧奨ニ当リテハ成ル可ク世帯単位ノ地方転出ヲ図ル等家族主義ノ精神ニ悖ラザル如ク指導ス
(4)人員ノ転出先ハ疎開区域及軍事上ノ重要都市ノ地域ヲ避クル如ク指導ス
(三)移転奨励金ノ交付
左ニ掲グルモノニシテ世帯ヲ単位トシテ転出スル者ニ対シ移転奨励金ヲ交付ス
(イ)都市民税一定額以下ノ者及都市民税免除者
(ロ)入営、応召軍人ノ遺家族
(ハ)被徴用者ノ遺家族
(ニ)其ノ他必要ト認ムル者

三、施設ノ疎開
(一)左ニ掲グルモノノ施設又ハ事業ニ関シ統合整理又ハ地方移転等ノ計画ヲ樹立実施ス
(イ)学校
(ロ)公共団体、各種外廓団体
(ハ)各種統制機関
(ニ)会社、工場等
(二)疎開区域内ニ於テハ店舗、工場等ノ疎開ニ資スル如ク企業整備ヲ特ニ強化促進ス

四、建築物ノ疎開
(一)都市疎開事業トシテ左ニ掲グル地区内ノ建築物ヲ除却ス
(イ)疎開空地帯
(ロ)疎開空地
i 重要施設疎開空地
ii 交通疎開空地
iii 疎開小空地
(二)建築物ノ除却ハ防空法第五条ノ六ニ依ル
測量、評価、除却等ノ施行ハ徹底シタル戦時的方式ニ拠ル
(三)建築物ノ除却ニ因リ移転スル人員ハ能フ限リ疎開区域外ニ転出セシム
(四)移転者ニ対シテハ防空法第十ニ条ノ二ニ依リ移転費ヲ支給ス
(五)除却建築物ノ古材等ノ利用ハ之ヲ統制ス
(六)交付スベキ補償金等ニ付テハ之ガ浮動化防止ノ措置ヲ講ズ

五、輸送ニ関スル措置
(一)疎開ニ関スル輸送ハ鉄道及自動車輸送其ノ他ノ小運搬、荷造作業等ヲ通ジ統合的ニ処理シ得ル如ク措置ス
(二)疎開輸送ヲ迅速且円滑ナラシムル為各種資材ノ確保ヲ図リ之ガ配分ニ関シテハ前項ノ統合的輸送ニ適合スル如ク措置ス
(三)荷造所要資材ニ関シテハ極力故品ノ利用ヲ図リ且之ガ回収ヲ強力ニ実施ス
(四)運賃、料金其ノ他諸費用ニ関スル特別取扱ヲ行フト共ニ其ノ簡明単純化ヲ図ル
(五)荷造及小運搬ノ労務ニ関シテハ極力余剰労力ヲ動員スル等ノ措置ヲ講ズ

六、移転先家屋ノ斡旋供給其ノ他ノ便宜供与
(一)移転先ノ家屋ニ付テハ各自ノ縁故先ニ之ヲ求ムルノ外家屋空間ノ提供慫慂及店舗等ノ住宅化ヲ強力ニ実施ス
(二)移転先ニ於ケル転就職ノ斡旋又ハ転入学ノ特別取扱、土地家屋家財ノ受託管理又ハ売買斡旋等ニ関シテハ極力便宜供与ノ措置ヲ講ズ

七、其ノ他疎開ニ伴フ措置
(一)建築ノ規制
(1)建築規制区域ハ疎開区域トシ防空法第五条ノ五第一項ニ依リ指定ス
(2)建築規制区域内ノ建築ハ原則トシテ之ヲ禁止ス
(二)転入ノ規制
(1)転入規制区域ハ疎開区域トシ防空法第五条ノ九ニ依リ指定ス
(2)転入ノ規制ハ転入ヲ必要トスル証明書ノ発給又ハ地方長官ノ許可ニ依リ之ヲ行ヲ
(3)業務ノ場所ノ新設及転入ハ極力抑制ス
(三)建築物ノ利用統制
建築物ノ除却ニ伴フ人員ニシテ疎開区域内ニ居住ヲ要スルモノニ対シ住居ヲ確保スル等ノ目的ヲ以テ疎開区域内ニ於テハ防空法第五条ノ十ノ規定ニ基キ建築物ノ利用統制ヲ行ヲ

八、疎開事務担当機関
(一)疎開区域ニ関係アル都府県庁ニハ疎開事務ノ総合連絡調整並ニ都市疎開事業ノ円滑ナル執行ヲ図ル為必要ナル組織ヲ設ク
(二)各庁連絡ニ関シテハ地方行政協議会ノ活動等ニ依ルモノトス
(三)区役所等ニ疎開指導所ヲ設置シ疎開ニ関スル勧奨、指導、斡旋ニ任ゼシム

備考
本件ニ関シ必要ナル事項ニ付関係各庁ハ具体策ヲ樹立シ防空総本部ニ連絡ノ上実施スルコト

     「東京大空襲・戦災誌 第3巻 軍・政府(日米)公式記録集」より
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、国文学者・作詞家・文学博士高野辰之が亡くなった日です。
 高野辰之(たかの たつゆき)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月13日に、長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれました。1890年(明治23)に、下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となります。
 1893年(明治26)に長野県尋常師範学校へ入学、1897年(明治30)に卒業後、下水内高等小学校訓導となりました。1898年(明治31)に、国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学びます。
 1900年(明治33)に、長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教え、1902年(明治35)には、「国文学史」教科書を出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となりました。1904年(明治37)に文部省国語教科書編纂委員、1908年(明治41)に東京音楽学校邦楽調査嘱託、1909年(明治42)には、教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となります。
 1910年(明治43)に東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となり、1911年(明治44)に尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」、1912年(明治45)に尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」、1914年(大正3)には、尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載しました。1917年(大正6)に東京音楽学校邦楽調査掛主事となり、1922年(大正11)に『近松門左衛門全集』を出版、1923年(大正12)には、國學院大學講師となります。
広く文献資料を収集・考証し、1925年(大正14)に論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得、1926年(大正15)に『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任、1928年(昭和3)には、「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞しました。1934年(昭和9)に野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求め、1935年(昭和10)には、勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版します。1936年(昭和11)に東京音楽学校を定年退職、1941年(昭和16)には、大正大学も退職しましたが、1947年(昭和22)1月25日に、長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなりました。

〇高野辰之の主要な著作

<著書>
・『歌舞音曲考説』(1915年)
・『日本民謡の研究』(1924年)
・『日本歌謡史』(1926年)学士院賞受賞
・『日本演劇之研究』(1926年)
・『日本歌謡集成』全12巻
・『江戸文学史』(1935年)
・『日本演劇史』全3巻(1947~49年)

<作詞>
・「故郷」
・「朧月夜」
・「もみじ」
・「春がきた」
・「春の小川」
・「日の丸の旗」
・「人形を迎える歌」(作曲:東京音楽学校)
・「人形を送る歌』(作曲:島崎赤太郎)
・「飯山小唄」(作曲:中山晋平)

☆高野辰之関係略年表

・1876年(明治9)4月13日 長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれる
・1887年(明治20) 豊津学校永江支校小学中等科卒業する
・1890年(明治23) 下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となる
・1893年(明治26) 長野県尋常師範学校へ入学する
・1897年(明治30) 長野県尋常師範学校を卒業後、下水内高等小学校訓導となる
・1898年(明治31) 国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学ぶ
・1900年(明治33) 長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教える
・1902年(明治35) 「国文学史」教科書出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となる
・1904年(明治37) 文部省国語教科書編纂委員となる
・1908年(明治41) 東京音楽学校邦楽調査嘱託となる
・1909年(明治42) 教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となる
・1910年(明治43) 東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となる
・1911年(明治44) 尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」を掲載、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」を掲載する
・1912年(明治45) 尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」を掲載、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」を掲載する
・1914年(大正3) 尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載する
・1917年(大正6) 東京音楽学校邦楽調査掛主事となる
・1922年(大正11) 『近松門左衛門全集』を出版する
・1923年(大正12) 國學院大學講師となる
・1925年(大正14) 論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得する
・1926年(大正15) 『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任する
・1928年(昭和3) 「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞する
・1934年(昭和9) 野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求める
・1935年(昭和10) 勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版する
・1936年(昭和11) 東京音楽学校を定年退職する
・1941年(昭和16) 大正大学を退職する
・1947年(昭和22)1月25日 長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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kokuminrenseijyo01
 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に、「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとした日です。
 国民錬成所(こくみんれんせいじょ)は、国体の本義に基づき、実践躬行をもって先鋒たる人物を錬成する文部省直轄の錬成機関でした。1942年(昭和17)1月24日の「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、中学教員に対する錬成を実施する機関として、文部省に設置が決まります。
 その後、1940年(昭和15)に実施された「紀元二千六百年式典」の式殿であった光華殿を東京小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に移転の上、その9万坪の敷地をもって、1942年(昭和17)11月に開設されました。所内に企画課(総務班・教育班・訓練班・農場班)、庶務課(庶務掛・会計掛)が置かれ、別に錬成会議が設置されます。
 中等学校教員や校長、国民学校長、高等学校教授など、さまざまな対象者を修練生として迎え、心身の鍛錬、精神の修養をおこないました。しかし、行政整理のため、1943年(昭和18)11月1日に、先に設けていた国民精神文化研究所と合併して、教学錬成所(初代所長:橋田邦彦)となり、教学に関する研究と、教員そのほかの指導的国民の錬成に当たることとなります。

〇国民錬成所・国民精神文化研究所関係略年表

・1931年(昭和6)6月 学生思想問題調査委員会が設置される
・1932年(昭和7)5月 学生思想問題調査委員会から、「学生生徒左傾」対策として「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関」の創設が答申される
・1932年(昭和7)8月 「国民精神文化研究所官制」(昭和7年勅令233号)が公布される
・1933年(昭和7) 国民精神文化研究所が東京市品川区上大崎の新庁舎に新築移転される
・1934年(昭和8) 国民精神文化研究所の初代所長に関屋龍吉が就任する(それまでは、粟屋謙・伊東延吉が代行)
・1941年(昭和16) 国民精神文化研究所の2代所長に伊東延吉が就任する
・1942年(昭和17)1月24日 「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)が公布される
・1942年(昭和17)11月 国民錬成所が小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に設置される
・1943年(昭和18)11月1日 国民精神文化研究所が国民錬成所に移転合併する形で教学錬成所となる
・1945年(昭和20)10月15日 教学錬成所が廃止され、教育研修所(後に国立教育研究所に改組、現在の国立教育政策研究所)となる
・1949年(昭和24)6月 国立教育研究所が旧教学錬成所の施設を利用して設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及し、シーメンス事件が問題化された日です。
 シーメンス事件(しーめんすじけん)は、大正時代の1914年(大正3)1月に暴露された、海軍首脳とドイツのシーメンス社との大疑獄事件でした。1913年(大正2)10月17日に、シーメンス社の通信・電気装備品納入に対する、海軍将校への謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出したシーメンス商会社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が、東京支店長宛に買い取るように脅迫文書を送ったことから始まります。
 この後、カール・リヒテルは、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国、11月27日に、シーメンス社が秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却して、一度事件は終結を見ました。しかし、翌年1月21日に、リヒテルが盗んだ書類には、シーメンス社が発注者である日本海軍将校に賄賂を贈ったとの記載があると、ベルリン発のロイター外電がこれを報じます。
 1月23日に、これを元に、第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及したことから、重大問題化しました。その後、1月30日に、ロイター通信特派員のアンドルー・プーレーは司直からの家宅捜索を受け、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置されます。
 2月5日に、憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議、翌日には、各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5,000人が参加しました。2月7日に藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付され、2月10日には、野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれるに至ります。
 2月14日に倒閣国民大会に発展し、民衆、警官が衝突、数百人の逮捕者を出し、海軍には査問委員会が設けられ、司法当局が捜査に乗出し、ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社、三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明しました。この結果、3月24日に予算案は両院協議会の不調となり、不成立となって、山本権兵衛内閣(第1次)は総辞職し、4月16日には、大隈重信内閣(第2次)が成立することとなります。
 5月19日に軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下し、7月18日には、東京地方裁判所は山本条太郎ら5名全員に有罪判決(控訴審では全員が執行猶予となる)を下しました。そして、9月3日に軍法会議では、藤井光五郎はヴィッカース他数社から収賄したとして懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下されて、司法処分は完了しています。
 7月28日には、第一次世界大戦の勃発もあり、海軍軍人は3名が有罪となったのみで、事件は終結させられました。

〇シーメンス事件関係略年表

<1913年(大正2)>
・2月20日 桂太郎内閣(第3次)に代わって、山本権兵衛内閣(第1次)が成立する
・10月17日 シーメンス社の通信・電気装備品納入に対する、海軍将校への謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出したシーメンス商会社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が、東京支店長宛に買い取るように脅迫文書を送る
 この後、カール・リヒテルは、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国する
・11月27日 シーメンス社が秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却し、一度事件は終結を見る

<1914年(大正3)>
・1月21日 リヒテルが盗んだ書類には、シーメンス社が発注者である日本海軍将校に賄賂を贈ったとの記載があると、ベルリン発のロイター外電がこれを報じる
・1月23日 第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及する
・1月30日 ロイター通信特派員のアンドルー・プーレーは司直からの家宅捜索を受け、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置される
・1月31日 プーレー夫人のアンは、取り調べの後、剃刀で自殺未遂を図る
・2月5日 憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議する
・2月6日 各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5000人が参加する
・2月7日 藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付される
・2月10日 野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれる
・2月12日夜 警視庁は政友会系毎夕新聞社をとりまく民衆465人を検束する
・2月14日 倒閣国民大会が開催され、民衆、警官が衝突、数百人の逮捕者を出す
・2月15日 東京朝日の記者芳賀栄蔵は原敬内相私邸前で護衛中の壮士に襲撃され負傷する
・2月18日 呉鎮守府司令官松本和が家宅捜索を受ける
・2月23日 全国記者大会が開かれ、内相原敬の辞職を要求する
・3月12日 イギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産重役の岩原謙三が、巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため、1910年(明治43年)に海軍高官に贈賄した容疑で拘禁される
・3月24日 予算案は両院協議会の不調となり、不成立となって、山本権兵衛内閣(第1次)は総辞職する
・3月26日 元老の山縣有朋の主導により、元老会議が行われる
・3月31日 呉鎮守府司令官松本和が収監される
・4月9日 大正天皇が山縣自らに組閣を求めたが、山縣は拒否する
・4月10日 組閣候補として、大隈重信と加藤高明が提案され、井上馨・大山・松方も賛成する
・4月16日 大隈重信内閣(第2次)が成立する
・5月11日 山本前首相及び斎藤実前海相を予備役に編入する
・5月19日 軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下す
・7月18日 東京地方裁判所は山本条太郎ら5名全員に有罪判決を下す(控訴審では全員が執行猶予となる)
・7月28日 第一次世界大戦が勃発する
・8月 大隈内閣はイギリスなど連合国側での第一次世界大戦への参戦を決める
・9月3日 軍法会議では、藤井光五郎はヴィッカース他数社から収賄したとして懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下される(司法処分完了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1928年(昭和3)「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
1993年(平成5)演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、東京電燈会社が営業開始し、移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電灯が灯った日です。
 東京電燈会社(とうきょうでんとうがいしゃ)は、明治時代前期の1883年(明治16)2月15日に、大倉喜八郎や原六郎らが設立した日本初の電力会社でした。1886年(明治19)7月5日に、資本金20万円で、企業活動を開始し、翌年1月22日に営業を開始、移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電灯(白熱灯)が灯ります。
 同年11月には、東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始しましたが、まだ電灯数は、1888年(明治21)で138灯に過ぎませんでした。1893年(明治26)に、200kWの国産大出力交流発電機を備えた浅草火力発電所の建設を開始、1897年(明治30)には、浅草火力発電所第二工事が落成します。
 1901年(明治34)に電灯数が5万灯となり、1902年(明治35)に品川電灯会社を買収、1904年(明治37)には、電灯数が9万5000灯となりました。1905年(明治38)に深川電灯会社合併、1906年(明治39)に八王子電灯会社の譲受、1907年(明治40)に東京電力会社合併、1917年(大正6)には、江戸川電気会社を買収して、企業規模を拡大していきます。
 一方で、競争激化により、ダンピングが行われるまでに至りましが、同年7月12日に東京市電、日本電灯会社との間で、三電協定が結ばれたことで終結しました。その後も、1920年(大正9)に日本電灯会社合併、1921年(大正10)に利根発電会社合併、1921年(大正10)に横浜電気会社合併、1922年(大正11)に桂川電力会社合併、1922年(大正11)に日本水力電気会社合併、1922年(大正11)に烏川電力会社買収、1923年(大正12)に水上発電会社買収、1923年(大正12)には、猪苗代水力電気会社と忍野水力電気会社を合併して規模拡大が続きます。
 しかし、同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けました。それからも、1925年(大正14)に東洋モスリン会社電気事業部買収、1925年(大正14)に京浜電力会社と富士水電会社合併と規模拡大が続き、大正時代末期には地方でも電力会社の統合が進み、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力と共に五大電力会社と呼ばれるようになります。関東大震災以後、千住火力発電所(日本初の蒸気タービン発電所)が建設され、1929年(昭和4)には、50,000 kWの供給力を持つ大型発電所が稼働するようになりました。
 以後も企業規模や設備の拡大がはかられていったものの、1938年(昭和13)に、「国家総動員法」に併せて「電力管理法」、「日本発送電株式会社法」、「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」、「電気事業法」が制定され、翌年には、国策会社日本発送電株式会社が設立されるに至ります。同年8月に、「配電統制令」が発布され、電力会社は日本発送電と関連する9配電会社に統合されることとなり、1942年(昭和17)4月1日には、9配電会社設立に伴い、関東配電へ吸収されました。

〇鹿鳴館(ろくめいかん)とは?

 明治時代に東京府麹町区内幸町(現在の東京都千代田区内幸町)に建てられた西洋館で、官設の社交場でした。外務卿になった井上馨の提唱で、お雇い外国人のイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが設計、1881年(明治14)に旧薩摩藩上屋敷跡で着工され、1883年(明治16)7月に落成、同年11月28日に盛大な開館式(1,200名招待)が行われました。
 ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦造り二階建ての本館(1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室)と付属施設とからなり、総建坪1,450平方m、総工費は18万円かかっています。条約改正の実現には内外人の交誼友好が必要であると考えられ、外務官を招いて舞踏会や園遊会などがしばしば開かれ、欧化主義の象徴とされた建物で、鹿鳴館時代とも呼ばれました。
 その後、1890年(明治23)に華族会館に貸与、1894年(明治27)に払い下げられ、1898年(明治31)には名称も華族会館と変わります。さらに、1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年(昭和16)に取り壊されました。 

☆東京電燈会社関係略年表

・1882年(明治15)3月18日 渋沢栄一・大倉喜八郎らは、東京電燈会社設立(資本金20万円)を出願する
・1882年(明治15)7月 横山孫一郎・大倉喜八郎ら計画中の電燈会社と合同し、大倉組内に東京電燈会社設立事務所を設置する
・1883年(明治16)2月15日 矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が国から会社の設立許可を受け、矢嶋作郎氏が社長となる
・1886年(明治19)7月5日 資本金20万円で、企業活動を開始する
・1887年(明治20)1月22日 営業を開始し、移動式発電機により鹿鳴館に日本初の電灯(白熱灯)が灯る
・1887年(明治20)11月 東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する
・1888年(明治21) 電灯数が138灯となる
・1889年(明治22)7月6日 臨時総会に於て、増資して100万円とすることを議決する
・1890年(明治23)5月4日 第三回内国勧業博覧会の開催に当り、上野公園内に電車を運転する(日本の電車の初め)
・1891年(明治24)12月28日 「電気営業取締規則」が制定される
・1893年(明治26) 200kWの国産大出力交流発電機を備えた浅草火力発電所の建設を開始する
・1895年(明治28) 甲州財閥の若尾逸平の事業体に買収される
・1896年(明治29)12月25日 浅草火力発電所第一工事が落成する
・1897年(明治30)11月25日 浅草火力発電所第二工事が落成する
・1901年(明治34) 電灯数が5万灯となる
・1902年(明治35)8月1日 品川電灯会社を買収する
・1904年(明治37) 電灯数が9万5000灯となる
・1905年(明治38)9月1日 深川電灯会社を合併する
・1906年(明治39)1月17日 八王子電灯会社の譲受が認可される
・1907年(明治40)4月5日 東京鉄道会社への電気供給事業を開始する
・1907年(明治40)7月1日 東京電力会社を合併する
・1914年(大正3)11月 八ツ沢発電所が全部落成する
・1917年(大正6)1月27日 江戸川電気会社を買収する
・1917年(大正6)7月12日 競争激化により、ダンピングが行われるまでに至ったが、東京市電、日本電灯会社との間で、三電協定が結ばれたことで終結する
・1920年(大正9)3月1日 日本電灯会社を合併する
・1921年(大正10)4月1日 利根発電会社を合併する
・1921年(大正10)5月1日 横浜電気会社を合併する
・1922年(大正11)2月1日 桂川電力会社を合併する
・1922年(大正11)10月1日 日本水力電気会社を合併する
・1922年(大正11)11月10日 烏川電力会社を買収する
・1923年(大正12)2月1日 水上発電会社を買収する
・1923年(大正12)4月1日 猪苗代水力電気会社と忍野水力電気会社を合併する
・1923年(大正12)6月27日 英貨社債300万ポンドを発行する(電力外債の初め)
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災によって甚大な被害を受ける
・1924年(大正13)10月1日 日本鉄合金会社を買収する
・1925年(大正14)4月1日 東洋モスリン会社電気事業部を買収する
・1925年(大正14)10月1日 京浜電力会社と富士水電会社を合併する
・大正時代末期には地方でも電力会社の統合が進み、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力と共に五大電力会社と呼ばれるようになる
・1927年(昭和2)3月26日 東電証券会社を設立する
・1928年(昭和3)4月1日 東邦電力系列の東京電力と合併する
・1928年(昭和3)9月12日 東電電球会社を創立する
・1929年(昭和4)4月12日 千住火力発電所(日本初の蒸気タービン発電所)が建設され、50,000 kWの供給力を持つ大型発電所となる
・1929年(昭和4)6月30日 桂川電気興業会社を買収する
・1929年(昭和4)12月10日 海部岬電気会社を買収する
・1931年(昭和6)4月1日 東京発電会社を合併する
・1932年(昭和7)3月28日 東電電気商品会社を創立する
・1938年(昭和13) 「国家総動員法」に併せて「電力管理法」、「日本発送電株式会社法」、「電力管理に伴う社債処理に関する法律案」、「電気事業法」が制定される
・1939年(昭和14) 国策会社日本発送電株式会社が設立される
・1939年(昭和14)8月 「配電統制令」が発布され、電力会社は日本発送電と関連する9配電会社に統合されることとなる
・1942年(昭和17)4月1日 9配電会社設立に伴い、関東配電へ吸収される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1893年(明治26)歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の命日詳細
1925年(大正14)第50回帝国議会で加藤高明首相の普通選挙法提案理由の説明がなされる詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア美術家同盟(AR)が結成される詳細
1941年(昭和16)「人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とする詳細
1993年(平成5)小説家・劇作家・演出家安部公房の命日詳細
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