ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2023年01月

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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、病理学者緒方知三郎が生まれた日です。
 緒方知三郎(おがた ともざぶろう)は、東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の三男として生まれました。旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に学び、1908年(明治41)に卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務します。
 1910年(明治43)にドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究、1913年(大正2)に留学から帰国し、翌年には、東京帝国大学医科大学助教授となりました。1915年(大正4)に、論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得て、1923年(大正12)には教授に昇任し、病理学を担当します。
 1926年(大正15)に、島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1943年(昭和18)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任しました。1944年(昭和19)に、「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となります。
 1954年(昭和29)に財団法人老人病研究会を設立、老人病の研究に努め、1952年(昭和27)に東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となり、1957年(昭和32)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任しましたが、1973年(昭和48)8月25日に、東京において、90歳で亡くなっています。

〇緒方知三郎の主要な著作

・『病理学総論』
・『病理学入門』
・『常用医語事典』

☆緒方知三郎関係略年表

・1883年(明治16)1月31日 東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の3男として生まれる
・追手門学院を卒業する
・1908年(明治41) 東京帝大医科大学を卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務する
・1910年(明治43) ドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究する
・1913年(大正2) 留学から帰国し、東京帝国大学医科大学講師となる
・1914年(大正3) 東京帝国大学医科大学助教授となる 
・1915年(大正4) 論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得る
・1923年(大正12) 東京帝国大学医学部教授(病理学)となる
・1926年(大正15) 島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任する
・1944年(昭和19) 「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1946年(昭和21) 東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となる
・1954年(昭和29) 財団法人老人病研究会を設立する
・1952年(昭和27) 東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となる
・1957年(昭和32) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任する
・1973年(昭和48)8月25日 東京において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、児童文学作家川村たかしの亡くなった日です。
 川村 たかし(かわむら たかし)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)11月8日に、奈良県宇智郡牧野村(現在の五條市)の兼業農家に生まれましたが、本名は隆(たかし)と言いました。奈良県立五條高等学校を経て、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を卒業します。
 その後、奈良県五條市内の小学校、中学校、高校の教諭を務めました。その傍ら、1958年(昭和33)頃から小説を書き始め、1960年(昭和35)には、花岡大学らと共に近畿児童文化協会を結成し、機関紙「近畿児童文化」を発刊します。
 1968年(昭和43)に『川にたつ城』を処女出版し、1970年(昭和45)には、花岡大学らと「幼年芸術」を発刊しました。1978年(昭和53)に、『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞を受賞、一方で全国高等学校定時制通信制軟式野球大会に監督として出場します。
 1980年(昭和55)に『山へ行く牛』、『北へ行く旅人たち-新十津川物語』で路傍の石文学賞を受賞、1981年(昭和56)には、那須正幹ら児童文学者らとともに児童文学創作集団「亜空間」を結成、短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』で日本児童文学者協会賞を受賞しました。1983年(昭和58)に梅花女子大学の教授となり、創作分野を担当、1977年から1988年にかけて刊行した『新十津川物語』(全10巻)で、1989年(平成元)には、日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞大賞を受賞します。
 また、この作品は、1991年から1992年にかけて、「明治編」「大正編」「昭和編」各2部(全6回)が、NHK総合テレビジョン「土曜ドラマ」にて放送されました。1994年(平成6)に梅花女子大学教授を辞めましたが、1995年(平成7)には、『天の太鼓』で日本児童文芸家協会賞を受賞します。
 1998年(平成10)に、第3代日本児童文芸家協会会長に就任、2002年(平成14)には、紫綬褒章を受章したものの、2010年(平成22)1月30日に、奈良県天理市に病院で敗血症のため、78歳で亡くなり、従五位、旭日小綬章を追贈されました。尚、2010年(平成22)には、五條市名誉市民の称号も追贈されています。

〇川村たかしの主要な著作

・『山へいく牛』(1978年)国際アンデルセン賞優良作品賞・野間児童文芸賞を受賞
・『北へ行く旅人たち-新十津川物語』(1980年)路傍の石文学賞受賞
・短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』(1981年)日本児童文学者協会賞
・『新十津川物語』全10巻(1989年) 日本児童文学者協会賞・産経児童出版文化賞大賞受賞
・『天の太鼓』(1995年)日本児童文芸家協会賞受賞

☆川村たかし関係略年表

・1931年(昭和6)11月8日 奈良県宇智郡牧野村(現在の五條市)の兼業農家に生まれる
・奈良県立五條高等学校を経て、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を卒業する
・五條市内の小・中・高校教諭を務める
・1958年(昭和33)頃 小説を書き始める
・1960年(昭和35) 花岡大学らとともに近畿児童文化協会を結成し、機関紙『近畿児童文化』を発刊する
・1968年(昭和43) 『川にたつ城』を処女出版する
・1970年(昭和45) 花岡大学らと「幼年芸術」を発刊する
・1978年(昭和53) 『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞を受賞、全国高等学校定時制通信制軟式野球大会に監督として出場する
・1980年(昭和55) 『山へ行く牛』『北へ行く旅人たち-新十津川物語』で路傍の石文学賞を受賞する
・1981年(昭和56) 那須正幹ら児童文学者らとともに児童文学創作集団「亜空間」を結成、1短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』で日本児童文学者協会賞を受賞する
・1983年(昭和58) 梅花女子大学の教授となり、創作分野を担当する
・1989年(平成元) 『新十津川物語』(全10巻)で日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1994年(平成6) 梅花女子大学教授を辞める
・1995年(平成7) 『天の太鼓』で日本児童文芸家協会賞を受賞する
・1998年(平成10) 第3代日本児童文芸家協会会長に就任する
・2002年(平成14) 紫綬褒章を受章する
・2010年(平成22)1月30日 奈良県天理市に病院で敗血症のため、78歳で亡くなり、従五位、旭日小綬章を追贈される
・2010年(平成22)11月28日 五條市名誉市民の称号を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35)「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20) 「藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1634年(寛永11)に、江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置した日ですが、新暦では2月26日となります。
 大名火消(だいみょうびけし)は、江戸幕府が設置した、消防制度の一つでした。1634年(寛永11年1月29日)に、大名への課役とする新たな火消制度として、江戸城以下の重要建造物をはじめ、大名の藩邸とその付近一帯の消火活動を義務付けたものです。
 1643年(寛永20年9月)には、6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成し、1万石につき30名ずつ藩邸の武士を動員、1組が10日交代で常時消防に当たらせるように整備しました。火事が発生すると、火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされています。
 その後、1657年(明暦3年1月18日)の明暦の大火の翌年に、方角火消が設置され、1658年(万治元)に、江戸幕府が旗本4人を火消役に任命して定火消制度が始まり、1720年(享保5)には、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられるなど、江戸の消火組織も整えられていきました。

〇江戸の火消関係略年表(日付は旧暦です)

・1634年(寛永11年1月29日) 江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置する
・1643年(寛永20年9月) 江戸幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して、大名火消を整備する
・1657年(明暦3年1月18日) 明暦の大火が起き、約500~800町を焼き、焼死者が10万人以上に及んだとされる
・1657年(明暦3年) 方角火消が設置される
・1658年(万治元年9月8日) 江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消制度が始まる
・1659年(万治2年1月4日) 老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なう
・1695年(元禄8年) 定火消組織が15組に増やされる
・1704年(宝永元年) 10組の定火消組織が確立し「十人火消」といわれるようになる
・1720年(享保5年) 約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられる
・1730年(享保15年) いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編する
・1772年(明和9年2月29日) 明和の大火が起き、934町を焼き、死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人を超える
・1806年(文化3年3月4日) 文化の大火が起き、530町を焼き、焼失家屋は12万6,000戸、死者は1200人を超える
・1859年(安政6年) 定火消組織が8組に減らされる
・1866年(慶応2年) 定火消組織が4組に減らされる

〇明暦の大火(めいれきのたいか)とは?

 江戸時代前期の1657年(明暦3年1月18日)午後2時頃、北西風が激しく吹く中、江戸の本郷丸山本妙寺で、3人の女が法会(施餓鬼)のため振袖を焼いたのが出火原因となり、大風のため次々と延焼しました。翌日に鎮火するまでに、約500~800町を焼き、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数を焼失、江戸城天守までもが燃え落ち、焼死者が10万人以上に及んだといわれています。
 寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
 その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
 しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。 

☆江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、放射線医学者高橋信次が生まれた日です。
 高橋信次(たかはし しんじ)は、福島県安達郡二本松町亀谷(現在の二本松市)において、父・高橋定之助、母・サキの次男として生まれました。旧制安達中学校、旧制第二高等学校理科乙類を経て、東北帝国大学医学部に学び、1938年(昭和13)に卒業後、同大学助手となって放射線医学教室へ入局します。
 1942年(昭和17)に講師に昇任、1944年(昭和19)には、論文「鷄胎心培養組織に及ぼすレ線の影響」により、東北帝国大学より医学博士を得ました。1947年(昭和22)に青森医学専門学校 (現在の弘前大学) 教授となり、戦後の学制改革により、1949年(昭和24)には、弘前大学教授となります。
 1950年(昭和25)にX線廻転(回転)撮影法の研究で、東奥賞を受賞、1954年(昭和29)には、名古屋大学医学部教授となり、新たに放射線医学講座を開設しました。1958年(昭和33)に廻転撮影法研究により中日文化賞を受賞、1959年(昭和34)には、名古屋大学医学部附属病院中央放射線部長として放射線治療に従事します。
 1964年(昭和39)に世界保健機関(WHO)放射線専門委員、1966年(昭和41)に国際放射線防護委員、1967年(昭和42)に米国放射線学会名誉会員、1969年(昭和44)に第12回国際放射線会議副議長(東京)、1971年(昭和46)には、科学技術庁放射線審議会会長と要職に就きました。1972年(昭和47)に「生体のX線による解剖」により、日本医師会医学賞を受賞、1974年(昭和49)に浜松医科大学副学長、日本癌治療学会名誉会員となり、1977年(昭和52)には、浜松医科大学附属病院長就任、「X線による生体病理解剖の研究」で恩賜賞・日本学士院賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に文化功労者顕彰を受け、1980年(昭和55)に愛知県がんセンター総長、1981年(昭和56)に日本学士院会員、1983年(昭和58)には、北米放射線学会名誉会員ともなりました。1984年(昭和59)に文化勲章を受章(放射線医学で初)、1985年(昭和60)には、愛知県がんセンター名誉総長、二本松市名誉市民ともなりましたが、1985年(昭和60)4月2日に、愛知県がんセンター病院において、74歳で亡くなっています。
 没後に、医学への長年の貢献をたたえて、スウェーデン王立科学アカデミーよりゴールドメダルを授与されました。

〇高橋信次の主要な著作

・『断層撮影と廻転横断撮影―肺結核症の診断』(1954年)
・『X線撮影と検査の手びき』(1961年)
・『放射線医学』(1965年)古賀良彦との共著
・『X線撮影とX線検査』(1972年)佐久間貞行との共著
・『図解 コンピュータ断層法―基礎原理から診断図譜まで』(1979年)、1990年(3訂増補新版)佐久間貞行との共著

☆高橋信次関係略年表

・1912年(明治45)1月28日 福島県安達郡二本松町亀谷(現在の二本松市)において、父・高橋定之助、母・サキの次男として生まれる
・1924年(大正13) 町立第二尋常高等小学校を卒業する
。1929年(昭和4) 旧制安達中学校を卒業する
・1934年(昭和9) 旧制第二高等学校理科乙類を卒業する
・1938年(昭和13) 東北帝国大学医学部を卒業し、同大学助手となって放射線医学教室へ入局する
・1942年(昭和17) 東北帝国大学講師となる
・1944年(昭和19) 論文「鷄胎心培養組織に及ぼすレ線の影響」により、東北帝国大学より医学博士を得る
・1947年(昭和22) 青森医学専門学校 (現在の弘前大学) 教授となる
・1949年(昭和24) 弘前大学教授となる
・1950年(昭和25) X線廻転(回転)撮影法の研究で、東奥賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第10回日本医学放射線学会宿題報告「X線撮影解析法」を行う
・1954年(昭和29) 名古屋大学医学部教授となり、新たに放射線医学講座を開設する
・1955年(昭和30) イタリアのゼノア市での第3回国際断層撮影講習会へ講師として招聘される
・1956年(昭和31) イタリアのゼノア市での第4回国際断層撮影講習会へ講師として招聘される
・1958年(昭和33) 廻転撮影法研究により中日文化賞を受賞する
・1959年(昭和34) 名古屋大学医学部附属病院中央放射線部長として放射線治療に従事する
・1963年(昭和38) 第1回日本癌治療学会において「原体照射法」の特別報告をする
・1964年(昭和39) 世界保健機関(WHO)放射線専門委員となる
・1966年(昭和41) 国際放射線防護委員となる
・1967年(昭和42) 米国放射線学会名誉会員となる
・1969年(昭和44) 第12回国際放射線会議副議長(東京)となる
・1971年(昭和46) 科学技術庁放射線審議会会長となる
・1972年(昭和47) 「生体のX線による解剖」により、日本医師会医学賞を受賞する
・1974年(昭和49) 浜松医科大学副学長、日本癌治療学会名誉会員となる
・1977年(昭和52) 浜松医科大学附属病院長就任、「X線による生体病理解剖の研究」で恩賜賞・日本学士院賞を受賞する
・1979年(昭和54) 文化功労者顕彰を受ける、
・1980年(昭和55) 愛知県がんセンター総長となる
・1981年(昭和56) 日本学士院会員となる
・1983年(昭和58) 北米放射線学会名誉会員となる
・1984年(昭和59) 文化勲章を受章する
・1985年(昭和60) 愛知県がんセンター名誉総長、二本松市名誉市民となる
・1985年(昭和60)4月2日 愛知県がんセンター病院において、74歳で亡くなる
・1985年(昭和60)7月 医学への長年の貢献をたたえて、スウェーデン王立科学アカデミーよりゴールドメダルを授与される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5)太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日)詳細
1582年(天正10)天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日)詳細
1886年(明治19)日本とハワイ王国との間で、「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)が締結される詳細
1946年(昭和21)GHQが「映画検閲に関する覚書」(SCAPIN-658)を出す詳細
1948年(昭和23)関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で触雷して沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)詳細
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 今日は、明治時代前期の1870年(明治3)に、太政官が「郵船商船規則」を布告、日本の商船は日章旗を掲揚することとし、日章旗の規格を定めた日ですが、新暦では2月27日となります。
 「郵船商船規則」(ゆうせんしょうせんきそく)は、明治維新後、近代的汽船の航行に対応するため、英国法を範として、商船について規定した太政官布告(明治3年太政官布告第57号)でした。和船から西洋型蒸気船への大々的な転換を図るため、西洋型船舶の所有を奨励したものですが、この中で日章旗を「御国旗」として規定しています。
 それによると、①毎朝8時から日没まで掲揚し、②祝日には必ず掲揚すること、③商船が軍艦に出遭った時は商船側が3度国旗を昇降すること、④国旗を掲げていない船は海賊船とみなされることなどを厳重に申し渡していました。また、国旗の作図法を定めた、詳しい付図を掲載していますが、規格は現行とは若干異なり、縦横比は7:10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされています。
 この日を記念して、一般社団法人・国旗協会は、「国旗制定記念日」と制定し、国旗掲揚の日としました。
 以下に、「郵船商船規則(抄)」(明治3年太政官布告第57号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「郵船商船規則(抄)」(明治3年太政官布告第57号) 1870年(明治3年1月27日)

  蒸気郵船規則

一郵船出入定日ノ儀ハ一ノ日ト相定甲乙二艘ヲ以一ケ月三度宛横浜神戸一日宛碇泊東京大阪往復ノ事
  但暴風雨ハ日送リノ事
一人数乗込ノ儀ハ出帆前々日迄ニ最寄廻船荷積仲間飛脚仲間取次ヲ以会社江申出候得ハ武家百姓町人婦女子タリ共無弁別望次第紙札ニ姓名ヲ記シ相渡可申其節乗船賃請取置出帆前日右紙札持参致候得ハ相改為乗込可申事
  但御用旅行ニテモ平人同様船賃取之尤廻船荷積仲間等取次ニ及申間敷事
一荷物御用ノ分ハ廻漕会社ニテ取扱其余ノ分ハ廻船荷積仲間飛脚仲間共ニ為取扱出帆前々日迄ニ廻漕会社江取集メ荷数品訳並荷主届所名前紙札ニ記シ相渡可申其節引替運賃請取之右紙札ヲ以相改船積致候且廻船荷積仲間飛脚仲間取来候口銭ハ運賃ノ内ヲ以差遣シ可申候事
  但御用荷物ニテモ同様運賃取立候事
一乗船人荷物其外食料等ハ別紙定書ノ通取極候事
一船中部屋料ノ儀ハ船ニ寄相違有之候間上中下弁別イタシ取極可申事
  但船客接待方ハ士商トモ身分ノ貴賤ニ不拘部屋料ノ高下ヲ以テ等級差定候事
一百姓町人所持船ヲ以テ郵船ニ仕立度願出候分ハ船ノ大小間数馬力等見分ノ上良船ニ候ヘハ御許容可有之廻漕会所付郵船同様取扱運賃ハ会社ニテ取立右ノ内為税金金高ノ十分ノ一廻漕会所江相納其余船主江相渡候事
一外国人乗船ノ節ハ都テ同様運賃取之食料ハ持参ノ事
一横浜神戸積入荷物人員ノ分ハ某所差配人等ヨリ荷積仲間江申付前以荷集方為致置積入可申事
一船中為取締廻漕掛吏員一人並運用方蒸気方勘定方トシテ廻漕会社差配人手代三人大船ハ四人乗組候事
右之通相定候事
  明治三午年正月            廻漕会社

      甲船            乙船 
朔日   東京出帆横浜入津      大阪出帆神戸入津 
二日   横浜出帆          神戸出帆 
三日   海上            海上 
四日   同断            同断 
五日   神戸着           横浜着 
六日   神戸出帆大阪入津      横浜出帆東京入津 
七日   荷揚            荷揚 
八日   同断            同断 
九日   荷積            荷積 
十日   同断            同断 
十一日  大阪出帆神戸入津      東京出帆横浜入津 
十二日  神戸出帆          横浜出帆 
十三日  海上            海上  
十四日  同断            同断 
十五日  横浜着           神戸着 
十六日  横浜出帆東京入津      神戸出帆大阪入津 
十七日  荷揚            荷揚 
十八日  同断            同断 
十九日  荷積            荷積 
二十日  同断            同断 
二十一日 東京出帆横浜入津      大阪出帆神戸入津 
二十二日 横浜出帆          神戸出帆 
二十三日 海上            海上 
二十四日 同断            同断 
二十五日 神戸着           横浜着 
二十六日 神戸出帆大阪入津      横浜出帆東京入津 
二十七日 荷揚            荷揚 
二十八日 同断            同断 
二十九日 荷積            荷積 
晦日   同断            同断 

  蒸気郵船出帆日並運賃定

 東京大阪共                  横浜神戸
  毎月一ノ日出帆                二ノ日出帆
   但暴風雨ハ日送之事
一乗船賃一人ニ付                 金五両
  但喰料一人前金弐分宛
一通用金古金共                  千両ニ付金弐両
一同銀                      同断金三両
一同金礼                     同断金壱両
一同銭                      目方拾貫目ニ付金弐両壱分
一大砲並銅鉄金物類目重之品            同断金三分
 但一品五拾貫目以上ハ定高之弐割増
 但百貫目以上ハ同断五割増
  此外五百貫目以上ハ其品ニ応シ運賃取極候事
一九尺以上長物                  一本ニ付金弐朱
一乗物駕籠                    曲尺一尺角ニ付金壱分
  但棒抜取不申分相断申候
一櫃物箇物大中小長持両掛             目方拾貫目ニ付金弐分
 箪筍樽入物ノ類                 曲尺方ニ付金壱分
一唐物反物類                   同断金壱分
一米百石ニ付                   金百二拾両
一商荷物酒綿木綿鰹節薬種鉄茶油砂糖蝋紙青莚之類ハ樽菱垣廻船定運賃一倍之積ニ候事
一武士百姓町人婦女子タリ共廻船荷積仲間飛脚仲間取次ヲ以申出候得ハ望次第為乗組候事
一御用旅行之向乗船賃並部屋代御用荷物之運賃モ都而相対之者同様差出可申事
一自身提候手包之外ハ何品ニテモ相当之運賃差出可申事
一部屋代床代之儀ハ船客之好モ有之其船ニ寄不同ニ候間上中下其時々相対ヲ以取極可申事
一フランケツト入用之向ハ船中限損料ニ而貸渡候事
一諸荷物者定日之前々日迄ニ差出可申乗船人ハ定日之前日廻漕会社江相越候而本船乗込候定ニ候事
一運賃之外可相払分者上陸前差出候定之事
一定日之外臨時ニ郵船仕出シ候節ハ別段引札差出候事
一風順ニ寄大阪安治川口江難乗入節ハ兵庫上陸之事
右之通相定候事
  明治三午年正月            廻漕会社

  商船規則

(略)

(別紙)
yuusenshyousenkisokufuzu0

  規  則

一 西洋形商船買入度モノハ其旨開港場運上所江可願出其上船之善悪新古検閲之上免許差遣可申事
一 御國旗之事
   右ハ決而取外シ候事不相成附属之艀舟ニ至迄必可揚置事
一 毎朝西洋時規第八字ニ引揚ケ夕方ハ日没迄ヲ限引卸スヘキ事
   但右御國旗引揚無之節ハ海賊船之取扱請候而モ申訳ナキ事萬國普通之公法タル事
一 御國旗之寸法別紙之通二候事
   但大旗ハ祝日ニ引揚平日ハ小旗引揚ケ風雨晦瞑之節ハ小旗迄引卸置不苦候事
 祝日
  正月朔日  正月十五日  三月三日
  五月五日  七月七日   七月十五日
  八月朔日  九月九日   九月廿二日
   右之通
一 御軍艦江出合候節ハ我旗章ヲ三度昇降イタシ礼儀ヲナスヘキ事
一 夜間ハ旗章ト引替ニ燈明可引揚燈明ハ青赤白之三坐ヲ設ケ航海中赤ハ左舷青ハ右舷ニ点火シ白ハ前檣頂遠方ヨリ見留易キ所ニ揚置燈明消ヘサル樣可致事
一 船之込合タル節並風雨浪高之折者別而心ヲ用ヒ互ニ突當ラサル樣可致右者日本船タリ共同樣ナレトモ外國船ハ別而此規則嚴重ナレハ精密ニ用心スヘシ

(略)

右之通相定候條嚴重ニ可相守事

 明治二巳年十二月
  民部省
  外務省
 
  「国立国会図書館デジタルコレクション」より

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