
国民錬成所(こくみんれんせいじょ)は、国体の本義に基づき、実践躬行をもって先鋒たる人物を錬成する文部省直轄の錬成機関でした。1942年(昭和17)1月24日の「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、中学教員に対する錬成を実施する機関として、文部省に設置が決まります。
その後、1940年(昭和15)に実施された「紀元二千六百年式典」の式殿であった光華殿を東京小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に移転の上、その9万坪の敷地をもって、1942年(昭和17)11月に開設されました。所内に企画課(総務班・教育班・訓練班・農場班)、庶務課(庶務掛・会計掛)が置かれ、別に錬成会議が設置されます。
中等学校教員や校長、国民学校長、高等学校教授など、さまざまな対象者を修練生として迎え、心身の鍛錬、精神の修養をおこないました。しかし、行政整理のため、1943年(昭和18)11月1日に、先に設けていた国民精神文化研究所と合併して、教学錬成所(初代所長:橋田邦彦)となり、教学に関する研究と、教員そのほかの指導的国民の錬成に当たることとなります。
その後、1940年(昭和15)に実施された「紀元二千六百年式典」の式殿であった光華殿を東京小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に移転の上、その9万坪の敷地をもって、1942年(昭和17)11月に開設されました。所内に企画課(総務班・教育班・訓練班・農場班)、庶務課(庶務掛・会計掛)が置かれ、別に錬成会議が設置されます。
中等学校教員や校長、国民学校長、高等学校教授など、さまざまな対象者を修練生として迎え、心身の鍛錬、精神の修養をおこないました。しかし、行政整理のため、1943年(昭和18)11月1日に、先に設けていた国民精神文化研究所と合併して、教学錬成所(初代所長:橋田邦彦)となり、教学に関する研究と、教員そのほかの指導的国民の錬成に当たることとなります。
〇国民錬成所・国民精神文化研究所関係略年表
・1931年(昭和6)6月 学生思想問題調査委員会が設置される
・1932年(昭和7)5月 学生思想問題調査委員会から、「学生生徒左傾」対策として「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関」の創設が答申される
・1932年(昭和7)8月 「国民精神文化研究所官制」(昭和7年勅令233号)が公布される
・1933年(昭和7) 国民精神文化研究所が東京市品川区上大崎の新庁舎に新築移転される
・1934年(昭和8) 国民精神文化研究所の初代所長に関屋龍吉が就任する(それまでは、粟屋謙・伊東延吉が代行)
・1941年(昭和16) 国民精神文化研究所の2代所長に伊東延吉が就任する
・1942年(昭和17)1月24日 「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)が公布される
・1942年(昭和17)11月 国民錬成所が小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に設置される
・1943年(昭和18)11月1日 国民精神文化研究所が国民錬成所に移転合併する形で教学錬成所となる
・1945年(昭和20)10月15日 教学錬成所が廃止され、教育研修所(後に国立教育研究所に改組、現在の国立教育政策研究所)となる