
シーメンス事件(しーめんすじけん)は、大正時代の1914年(大正3)1月に暴露された、海軍首脳とドイツのシーメンス社との大疑獄事件でした。1913年(大正2)10月17日に、シーメンス社の通信・電気装備品納入に対する、海軍将校への謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出したシーメンス商会社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が、東京支店長宛に買い取るように脅迫文書を送ったことから始まります。
この後、カール・リヒテルは、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国、11月27日に、シーメンス社が秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却して、一度事件は終結を見ました。しかし、翌年1月21日に、リヒテルが盗んだ書類には、シーメンス社が発注者である日本海軍将校に賄賂を贈ったとの記載があると、ベルリン発のロイター外電がこれを報じます。
1月23日に、これを元に、第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及したことから、重大問題化しました。その後、1月30日に、ロイター通信特派員のアンドルー・プーレーは司直からの家宅捜索を受け、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置されます。
2月5日に、憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議、翌日には、各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5,000人が参加しました。2月7日に藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付され、2月10日には、野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれるに至ります。
2月14日に倒閣国民大会に発展し、民衆、警官が衝突、数百人の逮捕者を出し、海軍には査問委員会が設けられ、司法当局が捜査に乗出し、ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社、三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明しました。この結果、3月24日に予算案は両院協議会の不調となり、不成立となって、山本権兵衛内閣(第1次)は総辞職し、4月16日には、大隈重信内閣(第2次)が成立することとなります。
5月19日に軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下し、7月18日には、東京地方裁判所は山本条太郎ら5名全員に有罪判決(控訴審では全員が執行猶予となる)を下しました。そして、9月3日に軍法会議では、藤井光五郎はヴィッカース他数社から収賄したとして懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下されて、司法処分は完了しています。
7月28日には、第一次世界大戦の勃発もあり、海軍軍人は3名が有罪となったのみで、事件は終結させられました。
この後、カール・リヒテルは、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国、11月27日に、シーメンス社が秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却して、一度事件は終結を見ました。しかし、翌年1月21日に、リヒテルが盗んだ書類には、シーメンス社が発注者である日本海軍将校に賄賂を贈ったとの記載があると、ベルリン発のロイター外電がこれを報じます。
1月23日に、これを元に、第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及したことから、重大問題化しました。その後、1月30日に、ロイター通信特派員のアンドルー・プーレーは司直からの家宅捜索を受け、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置されます。
2月5日に、憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議、翌日には、各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5,000人が参加しました。2月7日に藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付され、2月10日には、野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれるに至ります。
2月14日に倒閣国民大会に発展し、民衆、警官が衝突、数百人の逮捕者を出し、海軍には査問委員会が設けられ、司法当局が捜査に乗出し、ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社、三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明しました。この結果、3月24日に予算案は両院協議会の不調となり、不成立となって、山本権兵衛内閣(第1次)は総辞職し、4月16日には、大隈重信内閣(第2次)が成立することとなります。
5月19日に軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下し、7月18日には、東京地方裁判所は山本条太郎ら5名全員に有罪判決(控訴審では全員が執行猶予となる)を下しました。そして、9月3日に軍法会議では、藤井光五郎はヴィッカース他数社から収賄したとして懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下されて、司法処分は完了しています。
7月28日には、第一次世界大戦の勃発もあり、海軍軍人は3名が有罪となったのみで、事件は終結させられました。
〇シーメンス事件関係略年表
<1913年(大正2)>
・2月20日 桂太郎内閣(第3次)に代わって、山本権兵衛内閣(第1次)が成立する
・10月17日 シーメンス社の通信・電気装備品納入に対する、海軍将校への謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出したシーメンス商会社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が、東京支店長宛に買い取るように脅迫文書を送る
この後、カール・リヒテルは、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国する
・11月27日 シーメンス社が秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却し、一度事件は終結を見る
<1914年(大正3)>
・1月21日 リヒテルが盗んだ書類には、シーメンス社が発注者である日本海軍将校に賄賂を贈ったとの記載があると、ベルリン発のロイター外電がこれを報じる
・1月23日 第31帝国議会の衆議院予算委員会で島田三郎議員がシーメンス社による日本海軍へのリベート供与を追及する
・1月30日 ロイター通信特派員のアンドルー・プーレーは司直からの家宅捜索を受け、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置される
・1月31日 プーレー夫人のアンは、取り調べの後、剃刀で自殺未遂を図る
・2月5日 憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議する
・2月6日 各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5000人が参加する
・2月7日 藤井光五郎機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付される
・2月10日 野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は衆議院に内閣弾劾決議案を上程、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれる
・2月12日夜 警視庁は政友会系毎夕新聞社をとりまく民衆465人を検束する
・2月14日 倒閣国民大会が開催され、民衆、警官が衝突、数百人の逮捕者を出す
・2月15日 東京朝日の記者芳賀栄蔵は原敬内相私邸前で護衛中の壮士に襲撃され負傷する
・2月18日 呉鎮守府司令官松本和が家宅捜索を受ける
・2月23日 全国記者大会が開かれ、内相原敬の辞職を要求する
・3月12日 イギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産重役の岩原謙三が、巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため、1910年(明治43年)に海軍高官に贈賄した容疑で拘禁される
・3月24日 予算案は両院協議会の不調となり、不成立となって、山本権兵衛内閣(第1次)は総辞職する
・3月26日 元老の山縣有朋の主導により、元老会議が行われる
・3月31日 呉鎮守府司令官松本和が収監される
・4月9日 大正天皇が山縣自らに組閣を求めたが、山縣は拒否する
・4月10日 組閣候補として、大隈重信と加藤高明が提案され、井上馨・大山・松方も賛成する
・4月16日 大隈重信内閣(第2次)が成立する
・5月11日 山本前首相及び斎藤実前海相を予備役に編入する
・5月19日 軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下す
・7月18日 東京地方裁判所は山本条太郎ら5名全員に有罪判決を下す(控訴審では全員が執行猶予となる)
・7月28日 第一次世界大戦が勃発する
・8月 大隈内閣はイギリスなど連合国側での第一次世界大戦への参戦を決める
・9月3日 軍法会議では、藤井光五郎はヴィッカース他数社から収賄したとして懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下される(司法処分完了)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1657年(明暦3) | 江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日) | 詳細 | |||||
1890年(明治23) | 教育者・キリスト教指導者新島襄の命日 | 詳細 | |||||
1928年(昭和3) | 「日ソ基本条約」の規定に従って、ソ連のモスクワにおいて、「日ソ漁業条約」が締結される | 詳細 | |||||
1933年(昭和8) | 日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日 | 詳細 | |||||
1993年(平成5) | 演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の命日 | 詳細 |