
平城京跡の発掘・保存の動きは、古く江戸時代後期の1852年(嘉永5)に、北浦定政(1817~72年)が『平城宮大内裏跡坪割之図』を完成させたことがありました。明治時代になって、1899年(明治32)に、帝国議会の貴族院の第十三回議会で「御歴世宮趾保表ノ建議」が可決され、1901年(明治34)には、大極殿跡に木製標柱が建立されます。
1902年(明治35)に棚田嘉十郎は地元の溝辺文四郎らと保存運動を始め、「平城神宮建設会」が組織されたものの、後に解散し、1906年(明治39)には、棚田らが主導して「平城宮址保存会」が設立されました。1910年(明治43)に、平城遷都千二百年にあたり、宮内省から記念碑建設の下賜金があり、大極殿跡で建碑地鎮祭と平城奠都千二百年祭が挙行されます。
1922年(大正11)に、平城宮第二次大極殿・朝堂院跡が史蹟に指定され、1924年(大正13)には、「奈良大極殿保存会」により、平城宮の発掘調査も行われました。太平洋戦争後の1952年(昭和27)に、平城宮跡の一部が特別史跡に指定される(その後も順次追加指定)、文化財保護委員会に附属する調査研究機関の奈良文化財研究所が発足します。
1954年(昭和29)1月12日に、文化財保護委員会による平城京跡の発掘が開始され、同年7月には、奈良文化財研究所が奈良国立文化財研究所と改称されました。1959年(昭和34)に、奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査が開始され、1961年(昭和36)には、初めて木簡が出土、宮跡内での鉄道検車区建設計画が国民的世論により中止となります。
1968年(昭和43)に、平城宮跡を保存するため、国道24号線バイパス計画を変更し東に迂回させ、1969年(昭和44)には、「平城宮跡資料館」が建設されました。1978年(昭和53)に「平城宮跡保存整備基本構想」が策定され、1998年(平成10)には、朱雀門、東院庭園の復原が完成、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されています。
2008年(平成20)に、文化庁が「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画」を策定、国営公園として整備することが閣議決定されました。2009年(平成21)に、国営公園事業の一環として第一次大極殿院広場を整備、2010年(平成22)には、第一次大極殿の復原が完成、平成遷都1300年祭が行われています。
1902年(明治35)に棚田嘉十郎は地元の溝辺文四郎らと保存運動を始め、「平城神宮建設会」が組織されたものの、後に解散し、1906年(明治39)には、棚田らが主導して「平城宮址保存会」が設立されました。1910年(明治43)に、平城遷都千二百年にあたり、宮内省から記念碑建設の下賜金があり、大極殿跡で建碑地鎮祭と平城奠都千二百年祭が挙行されます。
1922年(大正11)に、平城宮第二次大極殿・朝堂院跡が史蹟に指定され、1924年(大正13)には、「奈良大極殿保存会」により、平城宮の発掘調査も行われました。太平洋戦争後の1952年(昭和27)に、平城宮跡の一部が特別史跡に指定される(その後も順次追加指定)、文化財保護委員会に附属する調査研究機関の奈良文化財研究所が発足します。
1954年(昭和29)1月12日に、文化財保護委員会による平城京跡の発掘が開始され、同年7月には、奈良文化財研究所が奈良国立文化財研究所と改称されました。1959年(昭和34)に、奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査が開始され、1961年(昭和36)には、初めて木簡が出土、宮跡内での鉄道検車区建設計画が国民的世論により中止となります。
1968年(昭和43)に、平城宮跡を保存するため、国道24号線バイパス計画を変更し東に迂回させ、1969年(昭和44)には、「平城宮跡資料館」が建設されました。1978年(昭和53)に「平城宮跡保存整備基本構想」が策定され、1998年(平成10)には、朱雀門、東院庭園の復原が完成、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されています。
2008年(平成20)に、文化庁が「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画」を策定、国営公園として整備することが閣議決定されました。2009年(平成21)に、国営公園事業の一環として第一次大極殿院広場を整備、2010年(平成22)には、第一次大極殿の復原が完成、平成遷都1300年祭が行われています。
〇平城京(へいじょうきょう)とは?
710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。
尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。
尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。
〇平城宮跡(へいじょうきゅうあと)とは?
奈良県奈良市にある奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備される予定になっています。この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了ました。
1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されます。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができるようになりました。
1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されます。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができるようになりました。
☆平城京発掘・保存関係略年表
・1852年(嘉永5) 北浦定政(1817~72年)が『平城宮大内裏跡坪割之図』を完成させる
・1899年(明治32) 帝国議会の貴族院の第十三回議会で「御歴世宮趾保表ノ建議」が可決される
・1901年(明治34) 大極殿跡に木製標柱が建立される
・1902年(明治35) 棚田嘉十郎は地元の溝辺文四郎らと保存運動を始め、「平城神宮建設会」が組織される(後に解散)
・1906年(明治39) 棚田らが主導して「平城宮址保存会」が設立される
・1910年(明治43) 平城遷都千二百年にあたり、宮内省から記念碑建設の下賜金があり、大極殿跡で建碑地鎮祭と平城奠都千二百年祭が挙行される
・1913年(大正2) 大極殿跡の保存を大正天皇即位式の記念の一端とするため、徳川頼倫侯爵を会長とする「奈良大極殿阯保存会」が結成される
・1922年(大正11) 平城宮第二次大極殿・朝堂院跡が史蹟に指定される
・1924年(大正13) 「奈良大極殿保存会」により、平城宮の発掘調査が行われる
・1952年(昭和27) 平城宮跡の一部が特別史跡に指定される(その後も順次追加指定)、文化財保護委員会に附属する調査研究機関の奈良文化財研究所(奈良国立文化財研究所の前身)が発足する
・1954年(昭和29)1月 文化財保護委員会による平城京跡の発掘が開始される
・1954年(昭和29)7月 奈良文化財研究所が奈良国立文化財研究所と改称される、
・1959年(昭和34) 奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査が開始される
・1961年(昭和36) 初めて木簡が出土、宮跡内での鉄道検車区建設計画が国民的世論により中止となる
・1965年(昭和40) 国道24号線バイパスの計画に伴う調査により平城宮の東側に張り出し部が発見される
・1968年(昭和43) 平城宮跡を保存するため、国道24号線バイパス計画を変更し東に迂回させる
・1969年(昭和44) 「平城宮跡資料館」が建設される
・1970年(昭和45) 奈良国立文化財研究所は平城宮跡発掘調査部に計測修景調査室を設置する
・1974年(昭和49) 文化庁は、「平城宮跡保存整備委員会」を新たに発足させる
・1978年(昭和53) 「平城宮跡保存整備基本構想」が策定される
・1998年(平成10) 朱雀門、東院庭園の復原が完成、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録される
・2001年(平成13) 第一次大極殿の復原工事に着手する
・2008年(平成20)5月 文化庁が「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画」を策定する
・2008年(平成20)10月 平城宮跡を国営公園として整備することが閣議決定される
・2008年(平成20)12月 「国営平城宮跡歴史公園の整備・管理にかかる基本計画」が策定する
・2009年(平成21) 国営公園事業の一環として第一次大極殿院広場を整備する