今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、蒙古の使者が来朝し、大宰府の鎮西奉行・少弐資能が「大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)」と「高麗国王書状」、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取った日ですが、新暦では1月17日となります。
蒙古国牒状(もうここくちょうじょう)は、鎌倉時代の1274年(文永11年/至元11年10月)の元寇(文永の役)に先立つ、1266年(文永3年/至元3年8月)の日付のモンゴル皇帝フビライから日本に対して送られた、通好を求める国書(日本側は牒状と呼ぶ)でした。1266年(文永3年/至元3年)に、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団に国書を持たせて日本へ派遣したのですが、朝鮮半島の南端まで来て、対馬海峡の海の荒れ方を見せて航海が危険であるとして、帰国してしまいます。
しかし、皇帝フビライは納得せず、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、1268年(文永5年/至元5年1月)に、高麗使節団が大宰府に到着しました。この時、大宰府の鎮西奉行・少弐資能は国書と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達します。
その文面は、中国側の史料の『元史』「外夷伝日本伝」至元三年八月条と日本側の史料の『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)によって、伝えられてきました。『元史』載録の国書には、『東大寺尊勝院臓本』の「蒙古國牒状」と違い、冒頭の「上天眷命」および結びの「不宣」は記録されていないなどの相違が見られますが、内容は同じで、両文とも至元3年8月に発令されたことも一致しています。これに対して、日本側は返牒をしないという態度をとりました。
以下に、「蒙古国牒状」のことを記した『東大寺尊勝院臓本』と『元史』「外夷伝日本伝」、及び「高麗国王書状」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
しかし、皇帝フビライは納得せず、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、1268年(文永5年/至元5年1月)に、高麗使節団が大宰府に到着しました。この時、大宰府の鎮西奉行・少弐資能は国書と高麗国王書状、使節団代表の潘阜の添え状の3通を受け取り、鎌倉へ送達します。
その文面は、中国側の史料の『元史』「外夷伝日本伝」至元三年八月条と日本側の史料の『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)によって、伝えられてきました。『元史』載録の国書には、『東大寺尊勝院臓本』の「蒙古國牒状」と違い、冒頭の「上天眷命」および結びの「不宣」は記録されていないなどの相違が見られますが、内容は同じで、両文とも至元3年8月に発令されたことも一致しています。これに対して、日本側は返牒をしないという態度をとりました。
以下に、「蒙古国牒状」のことを記した『東大寺尊勝院臓本』と『元史』「外夷伝日本伝」、及び「高麗国王書状」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『東大寺尊勝院臓本』
<原文>
上天眷命大蒙古國皇帝奉書日本國王、朕惟自古小國之君境土相接、尚務講信修睦、況我祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即位之初、以高麗无辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖君臣、而歡若父子、計王之君臣、亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密迩高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好、尚恐王國知之未審、故特遣使持書布告朕意、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海爲家、不相通好、豈一家之理哉、至用兵、夫孰所好、王其圖之、不宣
至元三年八月 日
<読み下し文>
上天[1]眷命[2]、大蒙古国皇帝[3]、書を日本国王に奉る。朕[4]惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦[5]に務む、況んや我が祖宗、天の明命[6]を受け、区夏[7]を奄有[8]す。遐方[9]異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕[4]即位の初め、高麗の无辜[10]の民が久しく鋒鏑[11]に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域[12]を還し、その旄倪[13]を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕[4]の東藩[14]なり。日本は高麗に密迩[15]し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕[4]が躬に至りては、一乗[16]の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審[17]ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕[4]の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海[18]を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理[19]ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。不宣[20]
至元三年八月 日
【注釈】
[1]上天:しょうてん=天帝。造物主。
[2]眷命:けんめい=慈しみ思う。
[3]大蒙古国皇帝:だいもうここくこうてい=皇帝フビライのこと。
[4]朕:ちん=皇帝フビライの自称。
[5]修睦:しゅうぼく=よしみを修める、国と国とのよしみを通ずる。音信を交わし合い仲良くする。
[6]明命:めいめい=帝王となるべき天の命令。
[7]区夏:くか=天下。中国全土。
[8]奄有:えんゆう=すべての土地の所有者となる。土地を悉く有して主となること。
[9]遐方:かほう=遠方。
[10]无辜:むこ=罪がない。無辜である。
[11]鋒鏑:ほうてき=ほこさきとやじり。転じて、武器。兵器。戦争。戦乱。
[12]疆域:きょういき=土地の境目。境界。また、境界内の地。領域。国の範囲。
[13]旄倪:ぼうげい=老人と小児。
[14]東藩:とうはん=かきね。塀。東方の従属国。
[15]密迩:みつじ=まぢかに接する。
[16]一乘:いちじょう=車一両。馬四匹。
[17]審:つまびらか=物事を詳しく調べて明らかにする。はっきりとよしあしを見分ける。
[18]四海:しかい=四方の海の内。天下。
[19]理:ことわり=すじみち。道理。
[20]不宣:ふせん=述べ尽くしていないの意味で、友人間の手紙の末尾に使う語。
<現代語訳>
天帝が慈しみ思う、大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。不宣。
至元3年(1266年)8月 日
東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』より
〇『元史』「外夷伝日本伝」より
元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的、給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。書曰:
大蒙古國皇帝、奉書日本國王。朕惟、自古小國之君、境土相接、尚務講信修睦。況我祖宗、受天明命、奄有區夏、遐方異域、畏威懷德者、不可悉數。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其疆域、反其旄倪。高麗君臣、感戴來朝。義雖君臣、歡若父子。計王之君臣亦已知之。高麗朕之東藩也。日本密邇高麗、開國以來、亦時通中國、至於朕躬、而無一乘之使以通和好。尚恐王國知之未審。故特遣使持書、布告朕志。冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家。不相通好、豈一家之理哉。以至用兵、夫孰所好。王其圖之。
<読み下し文>
元の世祖の至元二年、高麗人趙彝等、日本国通すべしと言うを以って、奉使すべき者を擇ぶ。
三年八月、兵部侍郎黑的に命じ、虎符を給して、国信使に充て、禮部侍郎殷弘に金符を給して、国信副使に充て、国書を持して日本へ使せしむ。書に曰く、「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕惟ふに、古より小国の君境土相接すれば、尚ほ講信修睦に務む、況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。遐方異域、威を畏れ徳に懐く者、悉く数うべからず。朕即位の初め、高麗の无辜の民が久しく鋒鏑に疲るるを以って即ち兵を罷ましめ、その疆域を還し、その旄倪を反す。高麗の君臣、感戴して来朝せり。義は君臣と雖も、歓は父子の若し。計るに王の君臣。またすでに之を知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密迩し、開国以来、また時に中国に通ぜり。朕が躬に至りては、一乗の使も以って和好を通ずること無し。尚ほ王の国之を知ること未だ審ならざるを恐る。故に特に使を遣はし書を持して朕の志を布告せしむ。冀くは今より以往、通問して好を結び、以て相親睦せん。且つ聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならんや。兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。王其れ之を図れ。」と。
<現代語訳>
元の世祖の至元二年(1265年)、高麗人の趙彜(ちょうい)という者が、元の世祖・フビライに日本国との通交を勧めたのに従って、使者として遣わすべき者を選ぶ。
至元3年(1266年)8月、兵部侍郎黑的に命じ、信任状を与えて、国信使に任命し、禮部侍郎殷弘に金符を与えて、国信副使に任命し、国書を持たせて日本へ遣わした。国書でいうことには、「大蒙古国皇帝(フビライ)は、書を日本国王に送る。私(フビライ)が考えるに、昔から小国の王は国境を接していれば、久しく交信して国と国とのよしみを通ずことに務めてきた、まして私の先祖は、天の命令を受け、天下を領有している。遠方や異国でも、威勢を畏れ、徳に従う者が、数え切れないほどだ。私(フビライ)が即位した初めは、高麗の罪のない民が久しく戦乱に疲れていたので、すぐに兵を止めさせ、その領域を還し、その老人と小児を返した。高麗の君臣は、ありがたくおしいただいて使者を派遣してきた。道理では君臣の関係といっても、よしみとしては父子のようでもある。おもんばかれば王の君臣もまたすでにこれを知っているではあろう。高麗は私(フビライ)の東方の従属国であるが、日本は高麗に間近に接し、建国以来、時には中国とも通交してきた。私(フビライ)の治世になってからは、一度も使者を派遣して友好を通じたことがない。久しく王の国がこれを知ることがいまだに無理解であることを恐れている。従って特に使者派遣し書簡を持たせて、私(フビライ)の意向を告げ知らせる。願わくば今から後は、お互いに使者を交わし、友好を結び、もって親睦を結ぼうではないか。また、聖人は四方の海の内を一家とするものである。互いに親交を結ばないでは、どうして一家の道理にかなうであろうか。兵力を用いるに至るのは、誰が好むものであろうか。王はそのことをよく考えなさい。」と。
〇「高麗国王書状」
高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、『海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。』其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。
『東大寺尊勝院臓本』(東大寺尊勝院所蔵『調伏異朝怨敵抄』)より