ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年12月

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始した日で、「電話創業の日」とも呼ばれています。
 電話創業の日(でんわそうぎょうのひ)は、東京市内と横浜市内の間に日本で初めて電話が開通したことに由来した記念日でした。この日、東京市千代田区に設置された電話交換局が営業を始めましたが、当時は、電話交換手は女子7人と夜間専門の男子2人の計9人で、電話交換業務を担当します。
 当初の加入者数は、個人・企業・公共団体を含め、全体で東京は155件、横浜は42件、電話料金は定額制で、東京は40円(現在の貨幣価値で約12万円)、横浜は35円(約10万5,000円)とかなり高額となっていました。この事業は、逓信省の下で運営管理されることになります。

〇電信・電話関係略年表

・1854年(安政4) ペリー二度目の来航の折、幕府に献上した電信装置で1.6km間を送信したのが最初となる
・1869年(明治2) 横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、横浜市内間の電報がスタートする
・1870年(明治3) 東京~横浜間で公衆電信線が架設され、電報がスタートする
・1873年(明治6) 青森~東京~長崎~世界へと電信網が拡大する
・1877年(明治10) 工部省が電話機を輸入して実験を行い、電話機の国産化に着手する
・1878年(明治11) 国産電話機を制作(ベル式電話1号機)する
・1883年(明治16) 音声通信の有用性に気づいた工部省電信局長石井忠亮が建議書を提出する
・1886年(明治19) 工学士志田林三郎が隅田川で、日本初の無線通信の実験を行なう
・1890年(明治23) 東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始される
・1899年(明治32) 東京~大阪間で電話の長距離通話が始まり、全国の電話加入者数が1万人を超える
・1904年(明治37) 日露戦争では3大式無線機が活躍、旗艦三笠から「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ」と各艦へ打電される
・1923年(大正12) 関東大震災の復旧をきっかけに自動電話交換機採用が進展する
・1926年(大正15) 電話交換の自動化(ダイヤル化)がスタートする
・1940年(昭和15) 電話加入者数は100万人(当時人口は7,300万人)を越える
・1945年(昭和20) 太平洋戦争終結時には、電話加入者数は46万8千台にまで激減する
・1950年(昭和25) 4号自動式卓上電話機(黒電話)が登場する
・1952年(昭和27) 自動電話交換機のステップ・バイ・ステップ交換機が登場する
・1953年(昭和28) 4号自動式ボックス公衆電話機(青電話)が登場する
・1959年(昭和34) 特殊簡易公衆電話(ピンク電話)が登場する
・1955年(昭和30) 自動電話交換機のクロスバ交換機、5号自動式ボックス公衆電話機(赤電話)が登場する
・1962年(昭和37) 600形電話機が登場する
・1965年(昭和40) 県庁所在地相互間のみのダイヤル化が完成する
・1969年(昭和44) 600P電話機によるプッシュホンサービスが開始される
・1970年(昭和45) 押しボタン式電話機にプッシュホンの愛称が用いられるようになり、キャッチホンサービスが開始され、電電公社でテレビ会議サービスの商用実験が始まる
・1971年(昭和46) 電話機のホワイト、グレー、グリーンの3色カラー化が始まる
・1973年(昭和48) 電話ファックスサービスが開始される
・1975年(昭和50) 国際ダイヤル通話が開始される
・1976年(昭和51) 電電公社(現NTT)が至急電報の取り扱いを終了する
・1978年(昭和53) 電話機の申し込み即取り付けが実現する
・1979年(昭和54) 小笠原諸島を含む全国のダイヤル即時通話が完成、東京23区内で自動車に取り付けて走りながら通話可能な電話サービス(自動車電話)が始まる
・1982年(昭和57) 自動電話交換機のデジタル交換機が登場する
・1984年(昭和59) テレビ会議システムのサービスが開始される
・1985年(昭和60) 人が持ち運べるショルダーフォンが登場する
・1987年(昭和62) コードレス電話機の販売自由化が始まる
・1995年(平成7) PHSサービスが開始される
・2001年(平成13) ソフトバンク、ブロードバンド電話事業「BB Phone」発表する
・2002年(平成14) 総務省がIP電話に専用番号「050」を設定、多数のIP電話サービスプロバイダ出現する
・2003年(平成15) プロバイダ間の提携が活発化、各社がIP電話と固定電話や携帯電話との接続サービスを開始する
・2004年(平成16) 東西NTT、「0AB~J」番号を利用したIP電話「ひかり電話」を開始する
・2006年(平成18) コードレス電話のデジタル化が始まる
・2007年(平成19) 電報為替(かわせ)が廃止になる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
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 昭和時代前期、太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大政翼賛会が「海ゆかば」を国歌につぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達した日です。
 「海ゆかば」(うみゆかば)は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、信時潔(のぶとききよし)が日本放送協会(NHK)の嘱託を受けて作曲した日本歌曲で、合唱曲として、NHKラジオで放送されました。歌詞は、『万葉集』巻十八の長歌「賀陸奥国出金詔書歌」(大伴家持作)の一節から採ったものです。
 国民の戦闘意欲高揚を意図して依頼された曲で、1942年(昭和17)12月15日には、大政翼賛会がこの歌を国歌「君が代」に次ぐ国民の歌として各種会合に斉唱するよう通達しました。また、NHKラジオ放送の戦果発表(大本営発表)や、部隊の玉砕を伝える際に冒頭に流されたことから、国民に広く知られることになります。
 戦時歌謡として強く意識されため、戦後は事実上の封印状態が続くこととなりました。

<歌詞>

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草(くさ)生(む)す屍
大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

<原歌>

陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持作)
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代重ね 天の日嗣(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝(みつきたから)は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大王(おほきみ)の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(かみあい)うづなひ 皇御祖(すめろぎ)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 御食国(みをすぐに)は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして 武士(もののふ)の 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいびと)も 女めの童児(わらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだてて 丈夫の 清きその名を 古いにしえよ 今の現をつつに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言ことの官つかさぞ 梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩はき 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)のさきの聞けば貴み

〇大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。
 その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。
 さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

827年(天長5)空海が京都九条の教王護国寺(東寺)の東隣に綜芸種智院を創設する(新暦828年1月23日)詳細
1914年(大正3)方城炭鉱(福岡県)で爆発事故があり、死者・行方不明者671人を出す詳細
1937年(昭和12)第一次人民戦線事件で政府が労農派などの関係者446人を一斉逮捕する詳細
1945年(昭和20)GHQが「宗教指令(神道指令)」(SCAPIN-448)を指令する詳細
1988年(昭和63)俳人・随筆家・鉱山学者山口青邨の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1972年(昭和47)に、元東京帝国大学総長・建築家で、日本の建築構造学の父と言われた内田祥三の亡くなった日です。
 内田祥三(うちだ よしかず)は、明治時代前期の1885年(明治18)2月23日に、東京・深川において生まれましたが、4歳の時に父を亡くしました。旧制開成中学を経て、1901年(明治34)に、旧制第一高等学校に入学、1904年(明治37)には、東京帝国大学工科大学建築学科へ進みます。
 在学中に三菱ビジネス街で建築実習し、1907年(明治40)に卒業後、三菱合資地所部(現三菱地所)に入社して13号館などオフィスビル等の建設に従事しました。1910年(明治43)に東京帝国大学に戻って大学院に進み、佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究します。
 1911年(明治44)に東京帝国大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師となりました。1916年(大正5)に東京帝国大学助教授となり、1918年(大正7)には、論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与されます。
 1921年(大正10)に東京帝国大学工学部教授に昇進し、1923年(大正12)には、東京帝国大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導しました。1924年(大正13)に財団法人同潤会理事(中之郷アパートメントを設計)となり、1925年(大正14)に東京帝国大学安田講堂(岸田日出刀と共同)、1930年(昭和5)に上海自然科学研究所、1933年(昭和8)には、旧制第一高等学校本館を設計します。
 1935年(昭和10)に日本建築学会会長、1942年(昭和17)に東京帝国大学工学部長、1943年(昭和18)には、東京帝国大学第14代総長ともなりました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に総長を辞め、1951年(昭和26)には、東京帝国大学名誉教授、文化財保護委員会委員長となります。
 1956年(昭和31)に藍綬褒章受章、1957年(昭和32)に日本学士院会員、1972年(昭和47)には文化勲章受章と数々の栄誉に輝きました。日本の鉄筋コンクリート・鉄骨構造学の基礎を築き、「日本の建築構造学の父」とも言われましたが、1972年(昭和47)12月14日に、東京において、87歳で亡くなっています。

<主要な著作>

・『都市計画の施設に就て~都市と公園』(1924年)
・『鉄筋コンクリートの理論と実際』(1925年)
・『建築構造汎論』(1949年)
・『木造都市と防火都市』(1951年)

〇内田祥三の代表的な建築作品

・所沢飛行船格納庫 (1912年) 
・旧東京海上ビル (1913年) 
・中之郷アパート(1924年)
・東京帝国大学安田講堂(1925年)岸田日出刀と共同設計
・上海自然科学研究所 (1930年) 
・旧制第一高等学校本館 (1933年) 

☆内田祥三関係略年表

・1885年(明治18)2月23日 東京・深川において生まれる
・1889年(明治22) 4歳の時に父を亡くす
・1901年(明治34) 旧制開成中学を卒業し、旧制第一高等学校に入学する
・1904年(明治37) 東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に三菱ビジネス街で建築実習。
・1907年(明治40) 東京帝国大学工科大学建築学科卒業、三菱合資地所部(現三菱地所)に入社し、13号館などオフィスビル等の建設に従事する
・1910年(明治43) 東京帝国大学大学院に進み、佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究する
・1911年(明治44) 東京帝国大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師となる
・1912年(明治45) 所沢飛行船格納庫を設計する
・1916年(大正5) 東京帝国大学助教授となる
・1918年(大正7) 論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与される
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部教授となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導する
・1924年(大正13) 財団法人同潤会理事(中之郷アパートメントを設計)となる
・1925年(大正14) 東京帝国大学安田講堂を岸田日出刀と共同設計する
・1930年(昭和5) 上海自然科学研究所を設計する
・1933年(昭和8) 旧制第一高等学校本館を設計する
・1935年(昭和10) 日本建築学会会長となる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部長となる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学第14代総長となる
・1945年(昭和20)12月 東京帝国大学第14代総長を辞める
・1951年(昭和26) 東京帝国大学名誉教授、文化財保護委員会委員長となる
・1956年(昭和31) 藍綬褒章を受章する
・1957年(昭和32) 日本学士院会員となる
・1972年(昭和47) 文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)12月14日 東京において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)江戸時代の文人画家谷文晁の命日(新暦1841年1月6日)詳細
1949年(昭和24)小説家・翻訳家森田草平の命日詳細
1955年(昭和30)洋画家安井曾太郎の命日詳細
1960年(昭和35)国連教育科学文化機関(ユネスコ)第11回総会で、「教育差別禁止条約」が採択される詳細
第15回国連総会で、アジア・アフリカ43ヶ国の提案による「植民地独立付与宣言」が採択される詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保12年に、江戸幕府が天保の改革の一つとして、「株仲間解散令」を発布した日ですが、新暦では1842年1月24日となります。
 株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)は、天保の改革の一つとして、株仲間・問屋・組合の解散を命じた幕府法令でした。天保の改革の中心人物であった老中水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものです。
 翌年3月2日には、全国の商人・職人に対して、あらゆる業種の株仲間の解散を命じるものに拡大し、素人直売買など自由な取引が奨励されました。その結果、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができずに失敗します。そこで、1851年(嘉永4)3月9日には、「株仲間再興令」が出されることとなりました。
 以下に、「株仲間解散令」を注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「株仲間解散令」 天保12年12月13日(1842年1月24日)発布

仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋[4]共江申渡書。
             菱垣迴船[5]積問屋[6]、十組問屋[4]共
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納[7]致来たり候処、問屋共不正の趣[8]に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後[9]仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も素人直売買[10]勝手次第[11]たるべく候。且又諸家国産類[12]其外惣而は江戸表江相迴し候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第[11]に候間其の旨存じすべし。
(中略)

 天保十二年丑十二月十三日

   『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]仲間株札:なかまかぶふだ=株仲間構成員の鑑札。
[2]問屋仲間:とんやなかま=問屋の同業組合で、営業の独占権を持っていた。
[3]組合:くみあい=営業の独占権を持つ同業組合。
[4]十組問屋:とくみとんや=江戸の荷受問屋の株仲間で、1694年(元禄7)に大坂から江戸へ下る荷物を扱う問屋仲間として発足する。
[5]菱垣迴船:ひがきかいせん=江戸~大阪間の定期的廻船。
[6]積問屋:づみとんや=発送元と発送する商品が固定化されている事業問屋。
[7]冥加上納:みょうがじょうのう=株仲間が特権的に営業を独占する代わりに幕府に収めさせた税金、
[8]不正の趣:ふせいのおもむき=当時、不当に値をつり上げて儲けていたことを指す。
[9]向後:きょうご=今後、事後。
[10]素人直売買:しろうとじきばいばい=仲間に入っていない一般商人・在郷商人の直接取引のこと。
[11]勝手次第:かってしだい=自分の思いどおりにすること。勝手きままに振る舞ってよいこと。自由に行ってよいこと。
[12]諸家国産類:しょかこくさんるい=諸藩の国産品。

<現代語訳>

株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えることを禁止する旨、十組問屋たちへ申し渡す書。
             菱垣迴船積問屋、十組問屋たち
 その方たちは、これまで毎年金1万200両の冥加金を上納してきたが、問屋たちに不正行為があるとの風評が立っているので、今後は上納しなくてもよい。よって今後は株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えてはならない。
 
一、右のことについては、これまで右の船(菱垣廻船)に積載してきた諸商品はもちろん、すべてどの国より持ってきた、どのような商品においても、一般商人・在郷商人の直接取引を自由に行ってもよい。また、諸藩の国産品その他すべて江戸へ運送してきた品々も、問屋だけでなく、それぞれ出入りの商人が引き受けて、売りさばいても、これまた自由に行ってよいこととするから、そのことを申し渡せ。
(中略)

 天保12年丑12月13日(1842年1月24日)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1921年(大正10)ワシントン軍縮会議において、「四カ国条約」(日・英・米・仏)を結び、日英同盟を解消する詳細
1924年(大正13)東京で市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟会を発足する詳細
1969年(昭和44)小説家・演出家獅子文六の命日詳細
1980年(昭和55)国際的な版画家長谷川潔の命日詳細
2006年(平成18)第61回国連総会本会議で「障害者権利条約」が採択される詳細
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 今日は、戦国時代の1568年(永禄11)に、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まった日ですが、新暦では12月30日となります。
 薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)は、戦国時代の1568年(永禄11年12月)から翌年にかけてて、駿河国薩埵峠(現在の静岡県静岡市清水区)で、武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で行われた合戦でした。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いで、織田信長に今川義元が敗れて討ち取られると、今川氏当主の地位は嫡男の今川氏真が継ぎますが、勢力が衰退していきます。その中で、甲斐国の武田信玄は、それまでの同盟関係を破棄し、1568年(永禄11年12月)に、駿河国へ攻め込みました。これに対して今川氏真は、これを迎え討つべく、庵原安房守を大将とする1万5千の軍勢を薩埵峠に向かわせましたが、12日より峠の東側で始まった戦いでは、今川方に内通者が出るなどして、薩埵峠を突破されます。そして、翌13日には駿府の今川館も陥落し、氏真は重臣の朝比奈泰朝の拠る遠江国掛川城へと落ち延びることとなりました。今川氏と同盟関係にあった北条氏康は、嫡男である北条氏政に命じて4万5千の兵を駿河へ向かわせ、翌年の1月18日から薩埵峠を挟んで、武田軍と対峙することとなりました。にらみ合いは3ヶ月に及びましたが、4月には、武田軍は穴山信君を江尻城に残して甲斐国に撤退、その後北条軍も幾つかの城を傘下に収めた後、相模国に兵を撤退させて、戦いは終わっています。

☆主要な戦国合戦一覧(1493年~1573年)

・1525年(大永5) 岩槻城の戦い[武蔵国 - 埼玉県岩槻市] ○北条軍×●上杉軍 
・1532年(天文元) 山科本願寺の戦い[山城国 - 京都府京都市] ○柳本軍×●山科本願寺軍 
・1542年(天文11) 第1次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○織田軍×●今川軍 
・1546年(天文15) 河越城の戦い[武蔵国 - 埼玉県川越市] ○北条軍×●上杉軍 
・1548年(天文17) 第2次小豆坂の戦い[三河国 - 愛知県岡崎市] ○今川・松平軍×●織田軍 
・1548年(天文17) 上田原の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1548年(天文17) 塩尻峠の闘い[信濃国 - 長野県岡谷市・塩尻市] ○武田軍×●小笠原軍 
・1550年(天文19) 砥石城の戦い[信濃国 - 長野県上田市] ○村上軍×●武田軍 
・1551年(天文20) 坂戸城の戦い[越後国 - 新潟県南魚沼市] ○長尾景虎×●長尾政景 
・1555年(天文24) 厳島の戦い[安芸国 - 広島県廿日市市] ○毛利軍×●陶軍 
・1560年(永禄3) 桶狭間の戦い[尾張国 - 愛知県名古屋市・豊明市] ○織田軍×●今川軍 
・1560-61年(永禄3-4) 小田原城の戦い[相模国、上野国、武蔵国] △北条軍×△上杉・長尾軍 
・1561年(永禄4) 第4次川中島の戦い[信濃国 - 長野県長野市] △武田軍×△上杉軍 
・1563年(永禄6) 三河一向一揆[三河国 - 愛知県] ○徳川軍×●三河一向一揆 
・1563-64年(永禄6-7) 第2次国府台合戦[下総国 - 千葉県市川市] ○北条軍×●里見軍 
・1565年(永禄8) 永禄の変[山城国 - 京都府] ○三好・松永軍×●足利義輝軍 
・1567年(永禄10) 稲葉山城の戦い[美濃国 - 岐阜県岐阜市] ○織田軍×●斎藤軍 
・1568年(永禄11) 薩埵峠の戦い[駿河国 - 静岡県静岡市] ○武田軍×●今川・北条軍 
・1569年(永禄12) 三増峠の戦い[相模国 - 神奈川県愛甲郡愛川町] ○武田軍×●北条軍 
・1570-74年(元亀元-天正2) 長島一向一揆[伊勢国- 三重県桑名市] ○織田軍×●長島一向一揆 
・1570-80年(元亀元-天正8) 石山合戦[摂津国 - 大阪府大阪市] ○織田軍×●石山本願寺軍 
・1570年(元亀元) 金ヶ崎の戦い[越前国 - 福井県敦賀市] ○朝倉軍×●織田軍 
・1570年(元亀元) 姉川の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井・朝倉軍 
・1571年(元亀2) 比叡山焼き討ち[山城国・近江国 - 京都府京都市・滋賀県大津市] ○織田軍×●比叡山延暦寺 
・1572年(元亀3) 三方ヶ原の戦い[遠江国 - 静岡県浜松市] ○武田軍×●徳川・織田軍 
・1573年(天正元) 槇島城の戦い[山城国 - 京都府京都市・宇治市] ○織田軍×●足利義昭軍 
・1573年(天正元) 一乗谷城の戦い[越前国 - 福井県福井市] ○織田軍×●朝倉軍 
・1573年(天正元) 小谷城の戦い[近江国 - 滋賀県長浜市] ○織田軍×●浅井軍 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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