
石垣りん(いしがき りん)は、大正時代の1920年(大正9)2月21日に、東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれました。仲之町尋常小学校を経て、1934年(昭和9)に、赤坂高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職します。
『少女画報』、『女子文苑』などに投稿するようになり、1938年(昭和13)には、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊しました。1940年(昭和15)に調査部へ異動となり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で自宅が全焼し、家族が離散します。
1946年(昭和21)に、職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せるようになり、1948年(昭和23)に同人詩誌『銀河系』に参加、1950年(昭和25)には、職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)しました。1951年(昭和26)にアンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録され、翌年も同詩集に4篇が収録されます。
1954年(昭和29)に、職員組合執行部常任委員(任期半年)となりましたが、1958年(昭和33)には、椎間板ヘルニアにて手術及び入院し、翌年やっと退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養しながら、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を刊行しました。1965年(昭和40)に同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)、1968年(昭和43)には、第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行し、翌年に日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞します。
1971年(昭和46)に行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行し、翌年に第12回田村俊子賞を受賞しました。1973年(昭和48)に第1散文集『ユーモアの鎖国』を刊行、1975年(昭和50)に日本興業銀行を定年退職、1979年(昭和54)には、第3詩集『略歴』を刊行し、第4回地球賞を受賞します。
その後も、1980年(昭和55)に第2散文集『焔に手をかざして』、1984年(昭和59)に第4詩集『やさしい言葉』、1989年(平成元)に第3散文集『夜の太鼓』を刊行しました。1999年(平成11)には、1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となり、2000年(平成12)には、絶版となっていた第1~第4詩集の再刊が始まります。
社会と生活をみすえた詩風で注目されてきたものの、2004年(平成16)12月26日に、東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなっています。
『少女画報』、『女子文苑』などに投稿するようになり、1938年(昭和13)には、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊しました。1940年(昭和15)に調査部へ異動となり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で自宅が全焼し、家族が離散します。
1946年(昭和21)に、職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せるようになり、1948年(昭和23)に同人詩誌『銀河系』に参加、1950年(昭和25)には、職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)しました。1951年(昭和26)にアンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録され、翌年も同詩集に4篇が収録されます。
1954年(昭和29)に、職員組合執行部常任委員(任期半年)となりましたが、1958年(昭和33)には、椎間板ヘルニアにて手術及び入院し、翌年やっと退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養しながら、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を刊行しました。1965年(昭和40)に同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)、1968年(昭和43)には、第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行し、翌年に日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞します。
1971年(昭和46)に行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行し、翌年に第12回田村俊子賞を受賞しました。1973年(昭和48)に第1散文集『ユーモアの鎖国』を刊行、1975年(昭和50)に日本興業銀行を定年退職、1979年(昭和54)には、第3詩集『略歴』を刊行し、第4回地球賞を受賞します。
その後も、1980年(昭和55)に第2散文集『焔に手をかざして』、1984年(昭和59)に第4詩集『やさしい言葉』、1989年(平成元)に第3散文集『夜の太鼓』を刊行しました。1999年(平成11)には、1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となり、2000年(平成12)には、絶版となっていた第1~第4詩集の再刊が始まります。
社会と生活をみすえた詩風で注目されてきたものの、2004年(平成16)12月26日に、東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなっています。
〇石垣りんの主要な著作
・第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年)
・第2詩集『表札など』(1968年)日本現代詩人会第19回H氏賞受賞
・『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(1971年)第12回田村俊子賞受賞
・第1散文集『ユーモアの鎖国』(1973年)
・第3詩集『略歴』(1979年)第4回地球賞受賞
・第2散文集『焔に手をかざして』(1980年)
・第4詩集『やさしい言葉』(1984年)
・第3散文集『夜の太鼓』(1989年)
・第5詩集『レモンとねずみ』(2008年)遺稿集
☆石垣りん関係略年表
・1920年(大正9)2月21日 東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれる
・1922年(大正12)9月1日 関東大震災で、母・すみが落ちてきた梁を背に受けたことが原因で体調を崩す
・1924年(大正13) 母・すみが亡くなる
・1925年(大正14) 仲之町尋常小学校附属幼稚園へ入園する
・1926年(大正15) 仲之町尋常小学校へ入学する
・1932年(昭和7) 赤坂高等小学校へ入学する
・1934年(昭和9) 高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職、『少女画報』『女子文苑』などに投稿する
・1938年(昭和13) 文書課事務員になる、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊する
・1940年(昭和15) 調査部へ異動となる
・1945年(昭和20) 空襲で自宅が全焼し、家族が離散する
・1946年(昭和21) 職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せる
・1948年(昭和23) 同人詩誌『銀河系』に参加する
・1950年(昭和25) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)する
・1951年(昭和26) アンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録される
・1952年(昭和27) アンソロジー『銀行員の詩集』に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」など4篇収録される
・1954年(昭和29) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となる
・1958年(昭和33) 椎間板ヘルニアにて手術及び入院。化膿してさらに3回手術を受け、療養に1年ほどを要する
・1959年(昭和34) 退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(書肆ユリイカ)を刊行する
・1965年(昭和40) 同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)する
・1966年(昭和41) 経営研究部へ異動となる
・1968年(昭和43) 第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行する
・1969年(昭和44) 『表札など』で、日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞する
・1970年(昭和45) 大田区南雪谷のアパートに転居、一人暮らしを始める
・1971年(昭和46) 行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行する
・1972年(昭和47) 『現代詩文庫46 石垣りん詩集』で、第12回田村俊子賞を受賞する
・1973年(昭和48) 第1散文集『ユーモアの鎖国』(北洋社)を刊行する
・1975年(昭和50) 日本興業銀行を定年退職する
・1979年(昭和54) 第3詩集『略歴』(花神社)を刊行、第4回地球賞を受賞する
・1980年(昭和55) 第2散文集『焔に手をかざして』(筑摩書房)を刊行する
・1984年(昭和59) 第4詩集『やさしい言葉』(花神社)を刊行する
・1989年(平成元) 第3散文集『夜の太鼓』(筑摩書房)を刊行する
・1999年(平成11) 1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となる
・2000年(平成12) 絶版となっていた第1〜第4詩集の再刊(童話や)が始まる
・2004年(平成16)12月26日 東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなる
・2008年(平成20) 遺稿から未完詩を集めた第5詩集『レモンとねずみ』(童話屋)が刊行される
・2009年(平成21) 静岡県南伊豆町立図書館内に「石垣りん文学記念室」が開設される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1265年(文永2) | 藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日) | 詳細 |
1841年(天保12) | お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日 | 詳細 |
1887年(明治20) | 「保安条例」が公布・施行される | 詳細 |
1888年(明治21) | 小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日 | 詳細 |
1960年(昭和35) | 哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日 | 詳細 |