ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年12月

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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、詩人石垣りんが亡くなった日です。
 石垣りん(いしがき りん)は、大正時代の1920年(大正9)2月21日に、東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれました。仲之町尋常小学校を経て、1934年(昭和9)に、赤坂高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職します。
 『少女画報』、『女子文苑』などに投稿するようになり、1938年(昭和13)には、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊しました。1940年(昭和15)に調査部へ異動となり、1945年(昭和20)には、太平洋戦争下の空襲で自宅が全焼し、家族が離散します。
 1946年(昭和21)に、職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せるようになり、1948年(昭和23)に同人詩誌『銀河系』に参加、1950年(昭和25)には、職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)しました。1951年(昭和26)にアンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録され、翌年も同詩集に4篇が収録されます。
 1954年(昭和29)に、職員組合執行部常任委員(任期半年)となりましたが、1958年(昭和33)には、椎間板ヘルニアにて手術及び入院し、翌年やっと退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養しながら、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を刊行しました。1965年(昭和40)に同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)、1968年(昭和43)には、第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行し、翌年に日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行し、翌年に第12回田村俊子賞を受賞しました。1973年(昭和48)に第1散文集『ユーモアの鎖国』を刊行、1975年(昭和50)に日本興業銀行を定年退職、1979年(昭和54)には、第3詩集『略歴』を刊行し、第4回地球賞を受賞します。
 その後も、1980年(昭和55)に第2散文集『焔に手をかざして』、1984年(昭和59)に第4詩集『やさしい言葉』、1989年(平成元)に第3散文集『夜の太鼓』を刊行しました。1999年(平成11)には、1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となり、2000年(平成12)には、絶版となっていた第1~第4詩集の再刊が始まります。
 社会と生活をみすえた詩風で注目されてきたものの、2004年(平成16)12月26日に、東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなっています。

〇石垣りんの主要な著作

・第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(1959年)
・第2詩集『表札など』(1968年)日本現代詩人会第19回H氏賞受賞
・『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(1971年)第12回田村俊子賞受賞
・第1散文集『ユーモアの鎖国』(1973年)
・第3詩集『略歴』(1979年)第4回地球賞受賞
・第2散文集『焔に手をかざして』(1980年)
・第4詩集『やさしい言葉』(1984年)
・第3散文集『夜の太鼓』(1989年)
・第5詩集『レモンとねずみ』(2008年)遺稿集

☆石垣りん関係略年表

・1920年(大正9)2月21日 東京・赤坂において、薪炭商を営む父・石垣仁と母・すみの長女(第1子)として生まれる
・1922年(大正12)9月1日 関東大震災で、母・すみが落ちてきた梁を背に受けたことが原因で体調を崩す
・1924年(大正13) 母・すみが亡くなる
・1925年(大正14) 仲之町尋常小学校附属幼稚園へ入園する
・1926年(大正15) 仲之町尋常小学校へ入学する
・1932年(昭和7) 赤坂高等小学校へ入学する
・1934年(昭和9) 高等小学校を卒業、日本興業銀行に事務見習いとして就職、『少女画報』『女子文苑』などに投稿する
・1938年(昭和13) 文書課事務員になる、女性だけの同人詩誌『断層』を創刊する
・1940年(昭和15) 調査部へ異動となる
・1945年(昭和20) 空襲で自宅が全焼し、家族が離散する
・1946年(昭和21) 職場の機関誌『行友会誌』『行友ニュース』『組合時評』等に詩や文章を載せる
・1948年(昭和23) 同人詩誌『銀河系』に参加する
・1950年(昭和25) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となり、メーデーに初参加、同人詩誌『時間』に参加(1年足らずで退会)する
・1951年(昭和26) アンソロジー『銀行員の詩集』に4篇収録される
・1952年(昭和27) アンソロジー『銀行員の詩集』に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」など4篇収録される
・1954年(昭和29) 職員組合執行部常任委員(任期半年)となる
・1958年(昭和33) 椎間板ヘルニアにて手術及び入院。化膿してさらに3回手術を受け、療養に1年ほどを要する
・1959年(昭和34) 退院し、銀行の鎌倉腰越寮にて療養、第1詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』(書肆ユリイカ)を刊行する
・1965年(昭和40) 同人詩誌『歴程』に参加(1988年まで所属)する
・1966年(昭和41) 経営研究部へ異動となる
・1968年(昭和43) 第2詩集『表札など』(思潮社)を刊行する
・1969年(昭和44) 『表札など』で、日本現代詩人会第19回H氏賞を受賞する
・1970年(昭和45) 大田区南雪谷のアパートに転居、一人暮らしを始める
・1971年(昭和46) 行友会事務室へ異動、『現代詩文庫46 石垣りん詩集』(思潮社)を刊行する
・1972年(昭和47) 『現代詩文庫46 石垣りん詩集』で、第12回田村俊子賞を受賞する
・1973年(昭和48) 第1散文集『ユーモアの鎖国』(北洋社)を刊行する
・1975年(昭和50) 日本興業銀行を定年退職する
・1979年(昭和54) 第3詩集『略歴』(花神社)を刊行、第4回地球賞を受賞する
・1980年(昭和55) 第2散文集『焔に手をかざして』(筑摩書房)を刊行する
・1984年(昭和59) 第4詩集『やさしい言葉』(花神社)を刊行する
・1989年(平成元) 第3散文集『夜の太鼓』(筑摩書房)を刊行する
・1999年(平成11) 1948年の作品「この世の中にある」が、NHK全国学校音楽コンクール課題曲の歌詞となる
・2000年(平成12) 絶版となっていた第1〜第4詩集の再刊(童話や)が始まる
・2004年(平成16)12月26日 東京都杉並区の病院において、84歳で亡くなる
・2008年(平成20) 遺稿から未完詩を集めた第5詩集『レモンとねずみ』(童話屋)が刊行される
・2009年(平成21) 静岡県南伊豆町立図書館内に「石垣りん文学記念室」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1265年(文永2)藤原為家らが第11勅撰和歌集である『続古今和歌集』を撰進する(新暦1266年2月2日)詳細
1841年(天保12)お雇い外国人であるイギリス人技師R・H・ブラントンの誕生日詳細
1887年(明治20)「保安条例」が公布・施行される詳細
1888年(明治21)小説家・劇作家・実業家菊池寛の誕生日詳細
1960年(昭和35)哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の命日詳細
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yanaiharatadao01
 今日は、昭和時代中期の1961年(昭和36)に、キリスト教伝道者・経済学者・教育家・東京大学総長矢内原忠雄の亡くなった日です。
 矢内原忠雄(やないはら ただお)は、明治時代後期の1893年(明治26)1月27日に、愛媛県越智郡富田村(現在の今治市)において、四代続いた家系の医者の子として生まれました。兵庫県立神戸中学校(現在の県立神戸高等学校)を経て、1910年(明治43)に、旧制第一高等学校に入学、翌年には、内村鑑三の聖書研究集会への入門を許されます。
 東京帝国大学経済学部へ進み、吉野作造の民本主義や新渡戸稲造の影響を受け、1917年(大正6)に卒業後、住友総本店に入社、住友別子鉱業所に勤務しました。1920年(大正9)に東京帝国大学経済学部助教授に就任し、植民政策の講座を担当、欧州へ留学し、翌年帰国します。
 1923年(大正12)に東京帝国大学経済学部教授に昇任、1926年(大正15)には、『植民及植民政策』を刊行しました。1932年(昭和7)に満州調査旅行中の劇的体験によりキリスト教伝道を決意し、月刊「通信」刊行を開始します。
 1936年(昭和11)に。岩波書店から『民族と国家』を発行(翌年発禁処分)、翌年の盧溝橋事件の直後、雑誌「中央公論」に発表した論文「国家の理想」の反軍・反戦思想が問題となり大学を辞職(矢内原事件)しました。1938年(昭和13)に雑誌「嘉信」を発行(1944年に廃刊)、1939年(昭和14)には、少数の青年に古典を講ずる「土曜学校」を開くようになり、キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けます。
 太平洋戦争後、1945年(昭和20)に、大内兵衛らとともに東京帝国大学に復帰、1946年(昭和21)に社会科学研究所長、1948年(昭和23)に経済学部長、1949年(昭和24)には、初代教養学部長となりました。1951年(昭和26)に東京大学総長(1957年まで)となり、翌年起きた東大ポポロ事件では、総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取ります。
 1958年(昭和33)に名誉教授となりましたが、福音と平和のために残りの生涯をささげ、1961年(昭和36)12月25日に、東京において、68歳で亡くなりました。

〇矢内原忠雄の主要な著作

・『植民及植民政策』(1926年) 
・『満州問題』(1934年) 
・『南洋群島の研究』(1935年) 
・『民族と国家』(1936年)
・『帝国主義下の台湾』(1937年) 
・『嘉信』(1967年) 

☆矢内原忠雄関係略年表

・1893年(明治26)1月27日 愛媛県越智郡富田村(現在の今治市)において、四代続いた家系の医者の子として生まれる
・1910年(明治43) 旧制第一高等学校に入学する
・1911年(明治44) 内村鑑三の聖書研究集会への入門を許される
・1917年(大正6) 東京帝国大学経済学部を卒業し、住友総本店に入社、住友別子鉱業所に勤務する
・1920年(大正9) 東京帝国大学経済学部助教授に就任し、植民政策の講座を担当、欧州へ留学する
・1921年(大正10) 欧州留学から帰国する
・1923年(大正12) 東京帝国大学経済学部教授に昇任される
・1932年(昭和7) 満州調査旅行中の劇的体験によりキリスト教伝道を決意し、月刊「通信」刊行を開始する
・1936年(昭和11) 岩波書店から『民族と国家』を発行(翌年発禁処分)する
・1937年(昭和12) 盧溝橋事件の直後、雑誌「中央公論」に発表した論文「国家の理想」の反軍・反戦思想が問題となり大学を辞職する(矢内原事件)
・1938年(昭和13) 雑誌「嘉信」を発行する
・1939年(昭和14) 少数の青年に古典を講ずる「土曜学校」を開くようになる
・1941年(昭和16) 東京芝のフレンド教会での新渡戸稲造記念講演で、「新渡戸先生の宗教」という題で講演する
・1944年(昭和19) 雑誌「嘉信」の廃刊に至る
・1945年(昭和20) 大内兵衛らとともに東京帝国大学に復帰する
・1946年(昭和21) 東京大学社会科学研究所長となる
・1948年(昭和23) 東京大学経済学部長となる
・1949年(昭和24) 東京大学の初代教養学部長を務める
・1951年(昭和26) 東京大学総長となる
・1952年(昭和27) 東大ポポロ事件では、総長として大学の自治と学問の自由を守るために毅然とした態度を取る
・1957年(昭和32) 東京大学総長を辞める
・1958年(昭和33) 名誉教授の称号を授与される
・1960年(昭和35) 姫路野里教会で「生死の問題」と題して講演する
・1961年(昭和36)12月25日 東京において、68歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1986年(昭和61)医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の命日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
1997年(平成9)小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の命日詳細
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agawahiroyuki01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、小説家阿川弘之の生まれた日です。阿川弘之(あがわ ひろゆき)は、広島県広島市白島九軒町土手通り(現在の中区白島九軒町)において、実業家だった父・阿川甲一、母・キミの長男として生まれました。
 広島高等師範学校附属中学を経て、1937年(昭和12)に、広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属、同人誌「こをろ」に参加します。1940年(昭和15)に、東京帝大文学部国文科に入学しましたが、1942年(昭和17)には、繰り上げ卒業となり、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団、台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受けました。
 1943年(昭和18)に帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、少尉に任官、翌年には、中尉に進級、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事しています。敗戦後の1945年(昭和20)にポツダム大尉に進級、俘虜となり、翌年復員帰国後、上京して志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意、「世界」に掲げた短編『年年歳歳』によって文壇に進出しました。
 1950年(昭和25)に第一創作集『年年歳歳』を上梓、1952年(昭和27)には、長篇『春の城』で第4回読売文学賞を受賞します。1955年(昭和30)に「新潮」1~12月号に『雲の墓標』を連載、翌年、単行本化され、ロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在しました。
 1965年(昭和40)に『山本五十六』で、第13回新潮文学賞、1983年(昭和58)に第30回交通文化賞、1986年(昭和61)に『井上成美』(新潮社)で、第19回日本文学大賞、1979年(昭和54)に第35回日本芸術院賞・恩賜賞、1993年(平成5)には、文化功労者表彰を受けるなど数々の栄誉に輝きます。さらに、1994年(平成6)に評伝『志賀直哉』で、野間文芸賞、第48回毎日出版文化賞を受賞、1999年(平成11)には、文化勲章受章、第3回海洋文学大賞特別賞受賞、広島県名誉県民となりました。
 その後も、2002年(平成14)に『食味風々録』で、第53回読売文学賞受賞、2003年(平成15)に広島市名誉市民、2007年(平成19)には、第55回菊池寛賞を受賞したものの、2015年(平成27)8月3日に東京都内の病院において、94歳で亡くなっています。

〇阿川弘之の主要な著作

・第一創作集『年年歳歳』(1950年)
・『春の城』(1952年)第4回読売文学賞受賞
・『魔の遺産』(1954年)
・『雲の墓標』(1956年)
・『夜の波音』(1957年)
・童話『きかんしゃやえもん』(1959年)
・『なかよし特急』(1960年)第7回サンケイ児童出版文化賞
・『坂の多い道』(1960年)
・『山本五十六』(1965年)第13回新潮文学賞受賞
・『暗い波濤』(1974年)
・『南蛮阿房列車』(1977年)
・『米内光政』(1978年)
・『井上成美』(1986年)第19回日本文学大賞受賞
・評伝『志賀直哉』(1994年)第47回野間文芸賞受賞、第48回毎日出版文化賞
・『食味風々録』(2002年)読売文学賞受賞

☆阿川弘之関係略年表

・1920年(大正9)12月24日 広島県広島市白島九軒町土手通り(現在の中区白島九軒町)において、実業家だった父・阿川甲一、母・キミの長男として生まれる
・1927年(昭和2) 広島市の偕行社立済美小学校に入学する
・1933年(昭和8) 広島高等師範学校附属中学に入学する
・1937年(昭和12) 広島高等学校文科乙類に入学し、文芸部に所属する
・1940年(昭和15) 東京帝大文学部国文科に入学する
・1942年(昭和17) 繰り上げ卒業となり、海軍予備学生を志願して佐世保海兵団に入団、台湾の高雄州東港海軍基地で基礎教育を受ける
・1943年(昭和18) 帰国。横須賀海軍通信学校で特務班要員の訓練を受け、少尉に任官する
・1944年(昭和19) 中尉に進級、支那方面艦隊司令部附となり、中国の漢口で通信諜報作業に従事する
・1945年(昭和20) 敗戦後、ポツダム大尉に進級、俘虜となる
・1946年(昭和21) 復員帰国後、上京して志賀直哉を訪ね、定職につかずに執筆に専念することを決意、「世界」に掲げた短編『年年歳歳』によって文壇に進出する
・1949年(昭和24) 結婚する
・1950年(昭和25) 第一創作集『年年歳歳』を上梓する
・1952年(昭和27) 長篇『春の城』(新潮社)で第4回読売文学賞を受賞する
・1955年(昭和30) 「新潮」1~12月号に『雲の墓標』を連載する
・1956年(昭和31) 『雲の墓標』を単行本化、ロックフェラー財団の留学生(フェロウ)としてアメリカに滞在する
・1957年(昭和32) 『夜の波音』(創元社)を刊行する
・1960年(昭和35) 『坂の多い道』(新潮社)を刊行する
・1965年(昭和40) 『山本五十六』(新潮社)で、第13回新潮文学賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『暗い波濤』(新潮社)を刊行する
・1983年(昭和58) 第30回交通文化賞を受賞する
・1986年(昭和61) 『井上成美』(新潮社)で、第19回日本文学大賞を受賞する
・1979年(昭和54) 第35回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞する
・1993年(平成5) 文化功労者表彰を受ける
・1994年(平成6) 評伝『志賀直哉』で、野間文芸賞、第48回毎日出版文化賞を受賞する
・1999年(平成11) 文化勲章受章、第3回海洋文学大賞特別賞受賞、広島県名誉県民となる
・2002年(平成14) 『食味風々録』で、第53回読売文学賞を受賞する
・2003年(平成15) 広島市名誉市民となる
・2007年(平成19) 第55回菊池寛賞を受賞する
・2015年(平成27)8月3日 東京都内の病院において、94歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)言語学者・国語学者橋本進吉の誕生日詳細
1902年(明治35)文芸評論家・思想家高山樗牛の命日詳細
1943年(昭和18)「徴兵適齢臨時特例」が公布・施行され、徴兵年齢が1歳引き下げられ19歳になる詳細
1953年(昭和28)日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する詳細
1975年(昭和50)国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される詳細
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hokutanyuubaritankoudai2syh
 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出した日です。
 この事故は、北海道炭礦汽船(北炭)が経営する北炭夕張炭鉱の第二斜坑北三番坑で起きた、ガス爆発事故で、死者216人、負傷者13人という大惨事でした。この炭鉱の北一番坑道で、で8ヶ月前の4月29日に大爆発を起こし、死者・行方不明者276人を出したばかりで、続けての大惨事となります。
 さらに、21日後の翌年1月13日にも、同じ第一鉱の本抗第一ポンプ座で大事故を引き起こし、死者53人を引き起こしました。その3回の大事故が同じ月曜日に起きたことから、“呪われし夕張炭鉱”とか“妖雲閉ざす夕張炭山”などと報道されています。
 9ヶ月の間に3回もの大事故を引き起こした原因としては、一番経済効率が高い無充填長壁式採炭法が取り入れられていて、その採炭方法に問題があったのではないかとされました。この北炭夕張炭鉱では、昭和時代になっても、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。

〇北炭夕張炭鉱(ほくたんゆうばりたんこう)とは?

 北海道夕張市北西部にあった北海道炭礦汽船(北炭)が経営する炭鉱でした。1874年(明治7)お雇い外国人のベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ人地質学者)が、夕張川上流に石炭層の存在を推定し、1888年(明治21)に坂市太郎がシホロカベツ川上流で石炭の大露頭を発見します。
 翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。
 1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月29日に第二斜坑ほかの爆発事故(死者267人)を起こして以後、1920年(大正9)6月14日の北上坑(死者・行方不明者209人)、1938年(昭和13)10月6日の天龍坑(死者161人)など、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
 1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。
 炭鉱の跡は、現在では「石炭博物館」という文化施設となり、見学することが可能となっています。石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介し、採炭現場の動態展示など石炭産業関連としては世界でも有数の博物館となりました。 

☆北炭夕張炭鉱の主要な爆発事故

・1912年(明治45)4月29日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者267人
・1912年(大正元)12月23日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者216人
・1913年(大正2)1月13日 北炭夕張炭鉱(第一鉱)にて爆発事故で死者53人
・1920年(大正9)6月14日 北炭夕張炭鉱(北上坑)にて爆発事故で死者209人
・1938年(昭和13)10月6日 北炭夕張炭鉱(天竜坑)にて爆発事故で死者161人
・1960年(昭和35)2月1日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者42人
・1965年(昭和40) 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者62人
・1981年(昭和56)10月16日 夕張新鉱でのガス突出・爆発事故で死者93人

☆日本の主な炭鉱事故

・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年1月13日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者53人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1916年 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者376人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天龍坑(北海道)爆発事故[死者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1941年(昭和16)に、東条英機内閣によって、「逓信緊急政策要綱」が閣議決定された日です。
 「逓信緊急政策要綱」(ていしんきんきゅうせいさくようこう)は、1941年(昭和16)12月8日に、太平洋戦争が開戦となる中で、逓信部門の戦時体制強化を図るための閣議決定でした。その内容は、①国民生活戦時体制の強化と戦争目的完遂に対する国力の集中的発揚を目的として通信に関する国民の利用態様を必要最低限度に切下げること、②交通、通信、電力等逓信事業について、全国家経済活動に基礎条件として常に先行的強化拡充をはかること、③大東亜共栄圏内の逓信政策の確立を図ること、④これらに関わって、行政機構の整備調整を進めること、から成っています。
 これによって、通信、電力、運輸(海上・陸上)は軍需利用を最優先として、国民の利用を抑制しつつ、拡充強化が進められることとなりました。
 以下に、「逓信緊急政策要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「逓信緊急政策要綱」1941年(昭和16)12月22日閣議決定

第一 逓信部門ノ戦時体制強化ニ関スル方策

国民生活戦時体制ノ強化及戦争目的完遂ニ対スル国力ノ集中的発揚ヲ目的トシ交通、通信、電力、ニ関スル国民ノ利用態様ヲ必要最低限度ニ切下グルト共ニ之ヲ確保シ他面現存施設設備ヲ再編成シ生産力拡充上其ノ最高能率ノ発揚ヲ期スル為左記方策ヲ実施スルコトトシ所要法制ノ整備発動等諸般ノ措置ヲ講ズルモノトス。
(1)通信需要ノ徹底的規正及通信取扱制度ノ戦時編成
国民生活戦時化ニ即応シ既ニ実施シ来レル通信利用規正方策ヲ徹底シ不急不用通信ハ之ヲ停止セシムルコトトシ之カ為郵便、電信、電話、ノ通信制限ヲ実施スル等諸般ノ措置ヲ断行スルト共ニ通信業務ノ戦争経済ノ活発ナル進展ニ遺憾ナカラシムルコトトス。
(2)電気通信施設ノ統合整理
電気通信施設ハ其ノ大本ヲ国営ト為シアルモ特殊目的ニ専用セラルル各種施設ハ官民ヲ通ジ尚少カラズ。之ガ建設、保守及活用各般ニ亘リ資材労力ノ効率的使用又ハ通信能率ノ最高度発揚ノ為ニハ之ヲ逓信官署ニ統合整理スルヲ要スルモノナル処今日迄末ダ実行シ得ザル次第ナルガ此際至急之ガ実現ヲ図ルコトトス。
(3)電力利用ノ戦時再編成
電力需給関係ノ実情ニ鑑ミ既ニ電力調整令ニ基ク電力消費規正ヲ実施シアル処之ガ一般的強化ヲ図ルト共ニ電力消費ノ大宗タ(一行判読不能)興強行スルノ要緊切ナルモノアリ、尚電力ノ積極的合理的使用ニ依ル国民経済生産性ノ高揚特ニ農村電化、鉄道電化ノ促進ハ食糧、労力、燃料各対策ニモ重大ナル関連アリト認メラルルヲ以テ至急電力経済戦時編成ノ完成ヲ図ルコトトス。
(4)海上輸送物資ノ出荷統制
大東亜戦争ノ発展ニ対応シ今後愈々其ノ緊迫度ヲ加重スベキ海上輸送力ノ強化ハ海運国家管理ノ実施ニヨリ其ノ高能率ヲ確保セントスルモ之ニ対応スル強力ナル出荷統制ノ実行ハ切実ニ要請セラルル処ニシテ其ノ実施ナクンバ戦争遂行上極メテ憂慮スベキ事態ヲ招来スルコト明ナリ。
即チ全生産活動ノ計画的指導ニヨリ、完全強力ナル海上輸送物(一行判読不能)トス。
(5)海陸輸送連繋強化
今後愈々加重スベキ海上輸送力ノ逼迫或ハ戦時下港湾施設ニ対スル危険及被害発生等ノ事態ニ備ヘ海上輸送距離ノ短縮ヲ図リ海上輸送力ノ増強ヲ期スベク海上輸送物資ノ陸上輸送転嫁ノ方策ハ更ニ一層強化スルコトヲ要シ全面的出荷統制ノ実施ト照応シ海陸輸送連繋強化ヲ組織的計画的ニ実現スルコトトス。
(6)コンヴォイ制実施ニ要スル施設促進
コンヴォイ制実施ニヨル輸送能率ノ低下ヲ最少限度ニ防止シ且最モ安全ナル運航ヲ確保センガ為ニ港湾施設、荷役施設、港湾労働力ノ統制強化等諸般ノ措置ヲ講ズルコトトス。
(7)年金ノ最高制限額引上
国民生活ノ確保ト生産力拡充並ニ国債消化資金ノ蓄積ハ戦時下愈々其ノ重要度ヲ加ヘツツアル処両事業ノ使命達成上現在最高制限額ノ引上ハ緊急ノ要アルヲ以テ関係庁ト協力シ速ニ之ガ実施ヲ図ルコトトス。
(8)郵便小切手貯金法ノ制定
近時現金取引ノ旺盛トナレルニ伴ヒ民間ニ退蔵セラルル資金漸次増加シ種々ノ弊害ヲ醸成シツツアル実況ニ鑑ミ郵便小切手制度ヲ創始シ国民ヲシテ日常主要ナル取引ハ現金ニ代ヘ郵便小切手ヲ以テ決済セシメ以テ退蔵資金ヲ吸収スルト共ニ通貨ノ膨張ヲ抑制シ戦時財政政策ノ遂行ニ資スル為郵便小切手貯金法(仮称)ヲ制定セントス。
(9)郵便貯金切手及割増金付郵便貯金切手制度ノ創始
現下国内ニ横溢スル浮動購買力ノ急速ナル吸収ヲ図ルノ要アリト認メラルルヲ以テ郵便貯金制度ニ附帯スル施設トシテ郵便貯金切手制度及割増金付郵便貯金制度ヲ実施スルコトトス。

第二 逓信部門ノ拡充強化ニ関スル方策

交通、通信、電力等逓信事業ハ全国家経済活動ノ基礎条件トシテ常ニ先行的強化拡充ヲ必要トスルモノナル処計画経済ノ実現徹底未ダ尚充分ナラザルガ為ニ稍モスレバ反テ諸生産活動ニ後進シ、国家総力発揚上種々遺憾アリシコトヲ覆ヒ得ザル次第ナルガ、生産力拡充及生産活動最高効率ノ確保ヲ以テ戦時経済完遂ノ鍵鑰トスル将来ニ於テ万難ヲ排シ之ガ拡充強化ヲ期シ左記方策ヲ実施スルコトトシ各種国家経済計画等ニ於テ其ノ実現ニ必要ナル諸般ノ措置ヲ講ズルモノトス。
(1)電力設備ノ拡充強化
電力設備ハ之ガ建設ニ極メテ長大ナル年月ヲ必要トスルガ為ニ国民経済活動ノ昂揚期殊ニ戦時経済下ニ於テ極端ナル電力不足ヲ惹起セル事例少ナカラズ。科学工業、電気冶金工業等重化学工業ノ飛躍的活動ヲ予期セラルル今次戦争遂行上電力設備ノ拡充強化ニ特ニ配意ヲ為スト共ニ電力設備ノ効率ヲ増進スル為電力機器及電気用品ノ全般ニ亘リ之ガ規格ヲ急速ニ制定実施シ以テ之等機器及用品ノ製造配給使用ノ合理化ヲ期スルコトトス。
(2)通信施設拡充改良ノ促進
電信、電話需要ハ戦争経済進展ト併行シ飛躍的増加ヲ見ルコト明ナル処既ニ現有能力ヲ以テシテハ戦時体制下各種活動ニ相当支障ヲ来シアル次第ナルヲ以テ特ニ防衛通信、官用通信、生産活動等ニ即応スル通信施設ノ整備拡充ニ遺憾ナカラシムルコトトス。
尚郵便逓送機関ノ整備ハ燃料政策ニ照応シ焦眉ノ急務ナルヲ以テ、逓送事業ノ統合、各種逓送施設ノ整備確立等適切ナル処置ヲ講ジ、仍テ基礎的通信ノ安定ヲ期スルコトトス。
(3)船腹ノ急速拡充
戦時急造船トシテ戦時規格ヲ設定シ、急速ナル船腹ノ増強ヲ図ルト共ニ燃料政策ノ実情ニ鑑ミ之等船舶ハ総テ石炭ヲ使用スルモノトシテ其ノ焚炭装置ニモ極力石炭経済化ヲ図ルコトトス、尚船舶不足激化、燃料油ノ不足ニ対処シ国内石炭輸送ノ確保ヲ図ルタメ機帆船ノ活用ヲ図ルト共ニ石炭ヲ燃料トスル艀船曳船航路ヲ新造スルコトトス。
(4)航空工業ノ助長強化
航空機ノ大量確保並之ガ消耗ニ対スル補充ヲ急速且容易ナラシムル為航空機部分品ノ製造事業ニ対シテモ必要ナル保護統制ヲ加フルト共ニ滑空機製造事業ニ対スル助長ヲ強化スル如ク航空機製造事業法ヲ改正シ之ニ基キ適切妥当ナル保護統制ヲ加ヘ以テ航空機製造ノ量的質的発展ヲ図ルモノトス。
(5)特殊技能者養成施設ノ拡充強化
電気通信士、電気通信施設建設保守要員、航空機乗員、及海員等特殊技能者ノ養成ハ、軍要員ノ充足、大東亜共栄圏建設工作ノ発展ニ対処シ、飛躍的増強ヲ必要トスルヲ以テ之ガ養成施設ノ拡充ヲ図リ官民養成機関ノ整備強化ニ付特段ノ措置ヲ講ズルコトトス。
尚国民航空ノ振興ニ関シ青少年ヲ対象トスル飛行機及滑空機操縦及技術ノ訓練実施等所要ノ施設機構ヲ整備拡充スルコトトス。

第三 共栄圏逓信政策確立ニ関スル方策

広大ナル地域ニ亘ル大東亜共栄圏内諸邦ノ結帯トシテ相互間ニ存スル長大ナル時空間ノ短縮ヲ期スル交通、通信政策ハ敵性諸国家ノ既存勢力ト抗争シ着々実行シ来リタル所、今次大東亜戦争激発ニ際シ之ガ飛躍的展開ヲ敢行シ、新秩序建設ノ基礎工作ヲ急速完成スルコトヲ要スルヲ以テ之ガ為左記方策ヲ急速実施スルコトトシ所要外交、経済諸般ノ措置ヲ講ズルモノトス。
(1)交通、通信、電力ニ関スル敵性資本及技術ノ国家管理
我国ニ於ケル敵性資本及技術ノ国家管理ヲ急速ニ実施シ、科学技術ノ日本的転換及企業ノ日本的性格ノ確立ヲ図リ、将来ニ於テ外国技術及資本ニヨル経営、支配ヲ完全ニ此際脱却スベキ緊(一行判読不能)
(2)米、英勢力ノ徹底的駆逐
大東亜ニ存スル米、英交通通信、電力資本施設ノ完全ナル制圧及戦争遂行中敵ノ企図スベキ一切ノ交通通信工作ノ破粋ニ遺憾ナキヲ期スルト共ニ、共栄圏内諸邦ノ交通、通信電力事業ノ米英的要素ヲ絶滅シ我国ノ資本及技術ニヨル新建設ヲ確保スルガ為所要工作ヲ急速実施スルコトトス。
(3)共栄圏通信連合ノ結成
旧世界秩序ヲ基礎トシ成立シアル郵便電信ニ関スル万国条約等ノミニテハ大東亜共栄圏ノ建設及世界新秩序ノ確立上支障少カラザルヲ以テ共栄圏内諸邦相互間ニ於テ急速新事態ニ即応スベキ通信制度組織ヲ確立スルノ要アリ仍テ大東亜通信連合ヲ結成シ、之ガ急速ナル具体化ヲ図ルコトトス。
(4)通信連絡網及交通路網ノ整備
大東亜ヲ支配シアリタル米英交通通信勢力ノ駆逐ニ照応シ共栄圏内ニ於ケル交通通信網ノ急速ナル整備ハ戦争遂行及建設開発工作上絶対必要ナルヲ以テ、戦局ノ発展ニ追随シ適切ナル整備建設ニ遺憾ナカラシムルコトトス。
(5)共栄圏急速建設ニ必要ナル各種研究調査ノ実施
官民調査研究機関等ヲ動員シ、科学技術ノ集約的活用ヲ図ルコトトシ、速カニ具体的目標ノ定立及所要資材資金ノ供給確保ニ努メ、要スレバ現地調査ノ実施等活発ナル措置ヲ講ズルコトトス。

第四 行政機構ノ整備調整ニ関スル方策

高度国防国家体制建設ニ当リ其ノ中核タル行政機構ノ整備調整ハ極メテ緊切ニシテ之ガ全面的実施ヲ促進スベキ要アリト認メラルルヲ以テ戦争遂行ニ障害ヲ与フルコトナキ万途ヲ以テ着々実施スルコトトシ差向左ノ方策ニ付具体的措置ヲ講ズルモノトス。
(1)内外地行政ノ総合強化
多年ノ懸案事項ナル処戦時下之ガ機構的統合ニ付テハ相当困難アリトスルモ交通通信ニ関スル行政ハ敏速ナル一体的運行ヲ要スルコト極メテ大ナルヲ以テ、内外地交通通信行政ノ総合性ヲ強化確保スル為必要ナル運用上ノ措置ヲ講ズルコトトス。
(2)行政監察制度ノ確立
(文字判読不能)図ルト共ニ内閣ニ総合的行政監察官庁ヲ創設シ政府全般ニ亘ル統一的監察事務ヲ実施セシムルコトトス。
尚現行官吏服務規律ノ再検討等官吏道ノ積極的本源的確立錬成ニ付所要ノ措置ヲ講ズルコトトス。
(3)官庁下級職員ノ厚生対策
官庁下級職員ハ最低生活ニ甘ンジツツモ尚生活費ノ欠損ヲ見ルモノ極メテ多ク之ガ生活確保ニ付急速対策ヲ講ズルコトトシ併セテ時局下重要ナル行政ノ実務ニ従事シツツアル之等下級職員ノ錬成保健等諸般ノ厚生施設ノ整備拡充ヲ急速実施スルコトトス。

   「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1891年(明治22)第2回帝国議会で、樺山資紀の蛮勇演説が行われる詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
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