ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年12月

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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、NHK紅白歌合戦が初の公開放送となり、この年から大晦日の放送となった日です。
 NHK紅白歌合戦(えぬえいちけいこうはくうたがっせん)は、1951年(昭和26)から毎年、日本放送協会(NHK)が放送してきた男女対抗形式の大型音楽特別番組でした。当初は、ラジオの正月特別番組として放送されたのですが、テレビの本放送開始に伴って1953年(昭和28)の第4回から大晦日(12月31日)に変更されています。
 その年に活躍した男女の人気歌手が白組(男性)と紅組(女性)に分かれて勝ち負けを競ってきました。会場は第1~3回まで東京放送会館第1スタジオでしたが、その後日本劇場、東京宝塚劇場等を経て、1973年(昭和48)の第24回からは東京・渋谷の NHKホールから生中継されています。
 たいへんな人気番組となって、テレビ視聴率は、1963年 (昭和38) の第14回に、ビデオリサーチ社による視聴率調査が始まって以来の最高視聴率81.4%を記録しました。その後も高く、関東地区のビデオリサーチ社調査では、過去の視聴率ベスト10を独占していているものの、2006年(平成18)には 30%台にまで低下しています。

〇視聴率とは?
 あるテレビの番組が、一定地域内のどれくらいの人または世帯で見られたかを示す割合のことで、世帯視聴率と個人視聴率がありますが、一般には前者を指してきました。尚、ラジオの場合は聴取率と言っています。
 調査方法としては、電話によるインタビュー、個人面接、日記による記録、特定の機械による方法などがありました。日本において歴史的には、1954年(昭和29)に「NHK放送文化研究所」が年に2回、訪問面接法による調査を開始したのが最初とされています。
 翌年には電通が年に4回、日記式のアンケートによる調査を始め(1963年1月まで)、1958年(昭和33)には社団法人中央調査社が日記式のアンケートによる調査を年に4回開始し、翌年には毎月に拡大しました。
 そして、1961年(昭和36)に外資系のニールセン社、翌年にはビデオ・リサーチ社が調査対象世帯に測定機を置く機械式調査を開始し、視聴率調査の主流となっていきます。
 ところが、2000年(平成12)にニールセン社が撤退し、現在では、ビデオリサーチ社が関西、名古屋、札幌、その他大都市地域でそれぞれ実施している機械式調査が中心となりました。その中で、NHKの放送世論調査所では年5回、日記式の全国個人視聴率調査をしてきています。
 2015年(平成27)から、関東地区においては、ビデオリサーチ社によるタイムシフト視聴率(録画して視聴するものも含めた視聴率)が提供されるようになりました。
 ちなみに、視聴率1%はほぼ100万人が視聴していることに相当するといわれ、商業放送では、広告料金の決定や広告効果測定に重要な要素となっています。しかし、行き過ぎた視聴率競争の結果、番組の質が低下しているとの批判も出されるようになりました。

☆過去のNHK紅白歌合戦視聴率ベスト10(関東地区・ビデオリサーチ社調査)

・第1位 81.4% 第14回NHK紅白歌合戦 1963年12月31日 
・第2位 80.6% 第23回NHK紅白歌合戦 1972年12月31日 
・第3位 80.4% 第13回NHK紅白歌合戦 1962年12月31日 
・第4位 78.1% 第35回NHK紅白歌合戦 1984年12月31日
・第4位 78.1% 第22回NHK紅白歌合戦 1971年12月31日 
・第4位 78.1% 第16回NHK紅白歌合戦 1965年12月31日 
・第7位 77.0% 第30回NHK紅白歌合戦 1979年12月31日 
・第7位 77.0% 第21回NHK紅白歌合戦 1970年12月31日 
・第7位 77.0% 第28回NHK紅白歌合戦 1977年12月31日
・第10位 76.9% 第19回NHK紅白歌合戦 1968年12月31日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)文人画家・儒学者富岡鉄斎の命日詳細
1945年(昭和20)GHQが「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)を指令する詳細
1946年(昭和21)俳人中塚一碧楼の命日詳細
1963年(昭和38)NHK紅白歌合戦でテレビの最高視聴率81.4%を記録する詳細
1994年(平成6)小説家・推理作家多岐川恭の命日詳細
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 今日は、南北朝時代の明徳2/元中8年に、武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)の山名氏清が明徳の乱の内野の合戦に敗れて、戦死した日ですが、新暦では1392年1月24日となります。
 山名氏清(やまな うじきよ)は、1344年(康永3/興国5)に、守護大名山名時氏の四男として生まれました。1371年(建徳2/応安4)に、父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承します。
 1376年(天授2/永和2)に、長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承し、不満を持ちますが、翌年には侍所頭人に任じられました。1378年(天授4/永和4)に、次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ、和泉守護にも任命されます。1382年(永徳2/弘和2)に、南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させ、1385年(至徳2/元中2)には、新たに設置された山城守護職に就任しました。
 1388年(元中5/嘉慶2)に、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利(平尾合戦)します。1389年(元中6/康応元)に、弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだものの、1390年(元中7/康応2)に、叔父満幸と共に、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討って但馬を分国に加えられ、丹波・和泉・山城・但馬の4ヶ国守護職となり、家督にも就きました。
 1391年(元中8/明徳2)に、次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、室町幕府側と対峙し、明徳の乱が始まります。しかし、1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日)に、京都の内野の合戦で大内義弘らの幕府軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死しました。
 これによって、山名氏の勢力は一挙に衰退することとなります。

〇山名氏清関係略年表(日付は旧暦です)

・1344年(康永3年/興国5年) 守護大名山名時氏の四男として生まれる
・1370年(建徳元年/応安3年) 父・山名時氏は長兄・師義に家督を譲る
・1371年(建徳2年/応安4年) 父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承する
・1376年(天授2年/永和2年) 長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承する
・1377年(天授3年/永和3年) 侍所頭人に任じられる
・1378年(天授4年/永和4年) 次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命される
・1382年(永徳2年/弘和2年閏1月) 南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1385年(至徳2年/元中2年12月) 新たに設置された山城守護職に就任する
・1388年(元中5年/嘉慶2年8月17日) 紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利する(平尾合戦)
・1389年(元中6年/康応元年) 弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継ぐ
・1390年(元中7年/康応2年3月) 氏清・満幸の叔父甥に命じて、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討たせ、氏清は但馬を分国に加えられて家督となる
・1391年(元中8年/明徳2年) 次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、明徳の乱が始まる
・1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日) 明徳の乱における京都の内野の合戦で大内義弘らの幕軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死する

☆明徳の乱(めいとくのらん)とは?

 南北朝時代の1392年1月13日(元中8/明徳2年12月19日)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱です。
 山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放しました。しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになります。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。
 これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立します。 

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2年/永徳2年閏1月) 山名氏清が南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家・評論家斎藤緑雨の誕生日(新暦1868年1月24日)詳細
1881年(明治14)画家・歌人・随筆家小杉放庵の誕生日詳細
1927年(昭和2)上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日)詳細
1930年(昭和5)小説家開高健の誕生日詳細
1952年(昭和27)作曲家中山晋平の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の文政2年に、俳人小林一茶の俳諧俳文集『おらが春』が成立した日ですが、新暦では1820年2月13日となります。
 『おらが春』(おらがはる)は、俳人小林一茶の俳諧俳文集で、江戸時代後期の1819年(文政2年12月29日)に成立し、一茶没後25年たった1852年(嘉永5)に刊行されました。一茶が数え年57歳の元旦から歳末までの見聞・感想等を、長女さとの死を中心に発句を交えて記し、挿絵を加えたものたものです。
 21の章段からなり、発句を交えて日記風に記していて、一茶の晩年の円熟境を示す代表作とされてきました。信州の白井一之が山岸梅塵家伝来の真跡を譲られて、逸淵序と四山人・西馬の跋を添えで刊行しています。
 書名の『おらが春』は著者の命名ではなく、巻頭の一文中にある発句「めでたさも中くらゐなりおらが春」により刊行者が名づけたものでした。
 以下に、『おらが春』(抜粋)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小林一茶著『おらが春』(抜粋)

普甲寺上人の話

昔、たんごの国普甲寺(ふこうじ)といふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としの始(はじめ)は世間祝ひごとしてさゞめけば、我もせんとて、大卅日(おおみそか)の夜、ひとりつかふ小法師(こぼうし)に手紙したゝめ渡して、翌(あす)の暁にしかじかせよと、きといひをしへて、本堂へとまりにやりぬ。小法師は元日の旦(あした)、いまだ隅み隅みは小闇(おぐら)きに、初烏(はつがらす)の声とおなじく、がばと起おきて、教へのごとく表門(おもてもん)を丁々(ちようちよう)と敲(たた)けば、内より「いづこより」と問ふ時、「西方弥陀仏(さいほうみだぶつ)より年始の使僧(つかいそう)に候」と答ふるよりはやく、上人裸足にておどり出で、門の扉を左右へさつと開(ひら)きて、小法師を上坐に請(しよう)じて、きのふの手紙をとりてうやうやしくいただきて読(よみ)ていはく、「其その世界は衆苦充満に候間(そうろうあいだ)、はやく吾国に来たるべし。聖衆(しようじゆ)出いでむかひしてまち入候」と、よみ終りて、「おゝおゝ」と泣なかれけるとかや。此この上人、みづから工(たくみ)拵(こしら)へたる悲しみに、みづからなげきつゝ、初春の浄衣を絞(しぼ)りて、したゝる涙を見て祝ふとは、物に狂ふさまながら、俗人に対して無常を演のぶルを礼とすると聞きくからに、仏門においては、いはひの骨張こつちよう)なるべけれ。それとはいさゝか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界(きようがい)ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家(くずや)はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤(すす)はかず、雪の山路の曲まがり)形なりに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

 目出度めでたさもちう位也(くらいなり)おらが春 一茶

わが友魚淵といふ人の所に、天が下にたぐひなき牡丹咲きたりとて、いひつぎ、きゝ伝へて、界隈はさら也、よそ国の人も、足を労して、わざわざ見に来るもの、日々多かりき。おのれもけふ通がけに立より侍りけるに、五間ばかりに花園をしつらひ、雨覆ひの蔀など今様めかしてりゝしく、しろ・紅ゐ・紫、はなのさま透間もなく開き揃ひたり。其中に黒と黄なるは、いひしに違はず、目をおどろかす程めづらしく妙なるが、心をしづめてふたゝび花のありさまを思ふに、ばさばさとして、何となく見すぼらしく、外の花にたくらぶれば、今を盛りのたをやめの側に、むなしき屍を粧ひ立て、並べおきたるやうにて、さらさら色つやなし。是主人のわざくれに紙もて作りて、葉がくれにくゝりつけて、人を化すにぞありける。 されど腰かけ台の価をむさぼるためにもあらで、たゞ日々の群集(ぐんじゆ)に酒・茶つひやしてたのしむ主の心、おもひやられてしきりにをかしくなん。

 紙屑もぼたん顏ぞよ葉がくれに 一茶

此もの、諸越の仙人に飛行自在の術ををしへ、我朝天王寺には大たゝ(か)ひに、ゆゝしき武名を殘しき。それは昔々のことにして、今此治れる御代に隨ひ、ともに和らぎつゝ、夏の夕暮せどに莚を廣げて、「福よ福よ。」と呼べば、やがて隅の藪よりのさのさ這ひよりて、人と同じく凉む、其つら魂ひ一句いひたげにぞありける、さる物から長嘯子の蟲合に、歌の判者にゑ[え]らまれしは、汝が生涯のほまれなるべし。

 ゆ[い]うぜんとして山を見る蛙哉 一茶

添へ乳

去年の夏、竹植うる日のころ、憂き節しげきうき世に生まれたる娘、おろかにしてものにさとかれとて、名をさとと呼ぶ。今年誕生日祝ふころほひよりて、てうちてうちあはは、おつむてんてん、かぶりかぶり振りながら、同じ子どもの風車といふものを持てるを、しきりに欲しがりてむづかれば、とみに取らせけるを、やがてむしやむしやしやぶつて捨て、つゆほどの執念なく、ただちにほかのものに心移りて、そこらにある茶碗を打ち破りつつ、それもただちに飽きて、障子の薄紙をめりめりむしるに、「よくした、よくした。」と保むれば、まことと思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち一点の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、あとなきわざをぎ見るやうに、なかなか心の皺を伸ばしぬ。また、人の来たりて、「わんわんはどこに。」と言へば犬に指さし、「かあかあは。」と問へば鳥に指さすさま、口もとより爪先まで、愛敬こぼれて愛らしく、言はば春の初草に胡蝶の戯るるよりもやさしくなんおぼえ侍る。このをさな、仏の守りし給ひけん、逮夜の夕暮れに、持仏堂に蝋燭照らして鈴打ち鳴らせば、どこにゐてもいそがはしく這ひ寄りて、早蕨の小さき手を合はせて「なんむなんむ。」と唱ふ声、しをらしく、ゆかしく、なつかしく、殊勝なり。それにつけても、おのれ頭にはいくらの霜をいただき、額にはしわしわの波の寄せ来る齢にて、弥陀頼むすべも知らで、うかうか月日を費やすこそ、二つ子の手前もはづかしけれと思ふも、その座(*)を退けば、はや地獄の種をまきて、膝にむらがる蠅を憎み、膳をめぐる蚊をそしりつつ、あまつさへ仏の戒めし酒を飲む。折から門に月さして、いと涼しく、外に童べの踊りの声のすれば、ただちに小椀投げ捨てて、片ゐざりにゐざり出て、声を上げ手まねして、うれしげなるを見るにつけつつ、いつしかかれをも振り分け髪の丈になして、踊らせて見たらんには、二十五菩薩の管弦よりも、はるかまさりて興あるわざならんと、わが身に積もる老いを忘れて、憂さをなん晴らしける。かく日すがら、雄鹿の角のつかの間も、手足を動かさずといふことなくて、遊び疲れるものから、朝は日のたけるまで眠る。そのうちばかり母は正月と思日、飯炊き、そこら掃きかたづけて、団扇ひらひら汗を冷まして、閨に泣き声のするを目の覚むる合図と定め、手かしこく抱き起こして、裏の畑に尿やりて、乳房あてがへば、すはすは吸ひながら、胸板のあたりを打ちたたきて、にこにこ笑ひ顔を作るに、母は長々胎内の苦しびも、日々襁褓の汚らしきも、ほとほと忘れて、衣の裏の玉を得たるやうに、なでさすりて、ひとしほ喜ぶありさまなりけらし。

 蚕のあと数へながらに添へ乳かな 一茶

露の世

楽しみ極りて愁ひ起るは、うき世のならひなれど、いまだたのしびも半(なかば)ならざる千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子を、寝耳に水のおし来るごとき、あらあらしき痘(いも)の神に見込みこま)れつゝ、今、水濃(すいのう)のさなかなれば、やをら咲ける初花(はつはな)の泥雨(でいう)にしほれたるに等しく、側(そば)に見る目さへ、くるしげにぞありける。是(これ)も二三日経たれば、痘(いも)はかせぐちにて、雪解(ゆきげ)の峡土(かいつち)のほろほろ落(おつ)るやうに、瘡蓋(かさぶた)といふもの取とれれば、祝ひはやして、さん俵法師(だらぼうし)といふを作りて、笹湯(ささゆ)浴(あび)せる真似かたして、神は送り出したれど、益々(ますます)よはりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終(つい)に六月廿一日の蕣(あさがお)の花と共に、此この世をしぼみぬ。母は死顔(しにがお)にすがりて、よゝよゝと泣(なく)もむべなるかな。この期(ご)に及んでは、行(ゆく)水のふたゝび帰らず、散(ちる)花の梢にもどらぬくひごとなどゝ、あきらめ顔しても、思ひ切(きり)がたきは恩愛のきづな也けり。

 露の世は露の世ながらさりながら 一茶

二十七日晴
坊守り、朝とく起て飯を焚ける折から、東隣の園右衛門といふ者の餅搗なれば、「例之通り来たるべし。冷てはあしかりなん。ほかほか湯けぶりの立うち賞翫せよ」といふからに、今や今やと待にまちて、飯は氷りのごとく冷へ(え)て、餅はつひに来ずなりぬ。

 我門へ来さうにしたり配餅 一茶

あなた任せ

他力信心他力信心と、一向に他力にちからを入いれ)て、頼み込み候輩(やから)は、つひに他力縄に縛(しばら)れて、自力地獄の炎の中へ、ぼたんとおち入いり)候。其(その)次に、かゝるきたなき土凡夫(どぼんぷ)を、うつくしき黄金(こがね)の膚になしてくだされと、阿弥陀仏に、おし誂(あつら)へに、誂(あつら)えばなしにしておいて、はや五体は仏染(じ)み成りたるやうに悪わる)すましなるも、自力の張本人たるべく候。問(とい)ていはく、いか様(よう)に心得たらんには、御流義に叶ひ侍りなん。答(こたえ)ていはく、別に小むづかしき子細は不存(ぞんぜず)候。たゞ自力他力、何のかのいふ芥(もくた)を、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生(ごしよう)の一大事は、其(その)身を如来の御前に投(なげ)出して、地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、あそばされくださりませと、御頼み申もうすばかり也。如斯(かくのごとく)決定(けつじよう)しての上には、「なむあみだ仏」といふ口の下より、欲の網をはるの野に、手長蜘(ぐも)の行ひして、人の目を霞(かす)め、世渡る雁のかりそめにも、我(わが)田へ水を引く盗み心を、ゆめゆめ持(もつ)べからず。しかる時は、あながち作り声して念仏申もうすに不及(およばず)。ねがはずとも仏は守り給ふべし。是則(これすなわち)、当流の安心(あんじん)とは申也。穴(あな)かしこ。

 ともかくもあなた任せのとしの暮 一茶

〇小林一茶(こばやし いっさ)とは?

 江戸時代後期に活躍した俳人です。1763年(宝暦13年5月5日)に、信濃国水内郡柏原村(現在の長野県水内郡信濃町)の中農であった父・農業弥五兵衛、妻・くにの長男として生まれましたが、本名は弥太郎といいました。
 3歳で母を失い、8歳のとき迎えた継母と折り合いが悪く、15歳の頃江戸へ出て奉公します。俳諧をたしなむようになり、25歳頃には、葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に俳句を学ぶようになりました。29歳で葛飾派の執筆になり、師の死後、1792年(寛政4)から6年間、西国に俳諧修行に出、1795年(寛政7)には、撰集『旅拾遺』を刊行します。
 1801年 (享和元) に父の没後、継母子と遺産を10年余り争い、1813年(文化 10)に帰郷し、遺産を2分することで解決しました。1814年(文化11)には、江戸俳壇を引退し信濃へ帰郷する一茶の江戸俳壇引退記念撰集として『三韓人』が刊行されます。
 52歳で初めて結婚し、門弟のところを回ったりしていますが、4人の子どもと妻に先立たれました。後妻ゆきとも3ヶ月で離婚し、3度目の妻やをを迎えたものの、その翌年は大火で家を焼くなど不遇が続きます。
 火災後は、土蔵暮らしをしていましたが、1828年(文政10年11月19日)に、三度目の中風に罹り、65歳で亡くなりました。不幸が続く中で、俗語・方言を交え、自嘲と反逆精神に基づく独自の作風を示し、発句はニ万句以上に及び、句文集『おらが春』は有名です。
 死後刊行されたものも多く、明治時代以降に注目され、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人とされるようになりました。郷里の柏原に一茶旧宅(国指定史跡)が残り、「一茶記念館」も建てられています。

<代表的な句>
・「わが星は 上総の空を うろつくか」
・「江戸じまぬ きのふしたはし 更衣(ころもがえ)」
・「我と来て 遊べや親の ない雀」
・「秋の風 乞食(こじき)は 我を見くらぶる」
・「是(これ)がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺」
・「今年から 丸まうけぞよ 娑婆遊(しゃばあそ)び」
・「花の影 寝まじ未来が 恐ろしき」
・「めでたさも 中くらいなり おらが春」
・「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
・「やれ打つな 蠅が手をすり 足をする」
・「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」

☆小林一茶の主要な作品

・紀行文『西国紀行』(1795年)
・撰集『旅拾遺』 (1795年)
・撰集『さらば笠』(1798年)
・俳諧俳文集『父の終焉日記』 (1801年)
・紀行文『草津道の記』(1809年)
・撰集『三韓人』 (1814年)
・句日記『七番日記』 (1810~18年)
・俳諧俳文集『おらが春』(1819年)
・自撰句集『浅黄空』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1923年(大正12)自由民権運動家・政治家河野広中の命日詳細
1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、「宗教法人令」(昭和20年勅令第719号)が公布・施行された日です。
 「宗教法人令」(しゅうきょうほうじんれい)は、太平洋戦争敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示に基づき、宗教法人の設立、規則変更、解散などを定めた、ポツダム勅令の一つ(昭和20年勅令第719号)です。
 1945年(昭和20)8月の太平洋戦争敗戦後、日本は占領下に置かれ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、同年10月4日に、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(民主化指令)により、「治安維持法」などと共に「宗教団体法」の廃止を命じました。続いて、同年12月15日には、「国家神道・神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督及ビ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)によって、軍国主義的ないし極端な国家主義的思想の根絶、信教自由の確立、政教分離の徹底で、神社神道の国家からの分離を指令しました。
 これに基づいて、日本政府は、同年12月28日に、勅令(ポツダム命令)をもって「宗教団体法」を廃止し、その代わりに、本勅令が出されて、即日施行されます。それまでの宗教法人認可制を認証制に改め、宗教法人の設立、規則変更、解散などを自由に行なえるようにしたものでした。
 この勅令は、「サンフランシスコ平和条約」の発効により廃止され、それに代わるものとして1951年(昭和26)4月3日に「宗教法人法」が公布・施行されています。
 以下に、当初の「宗教法人令」(昭和20年勅令第719号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「宗教法人令」(昭和20年勅令第719号)1945年(昭和20)12月28日公布・施行

第一条 神道教派、仏教宗派及基督教其ノ他ノ宗教ノ教団並ニ寺院及教会(修道会等ヲ含ム以下同ジ)ハ本令ニ依リ之ヲ法人ト為スコトヲ得
本令ニ於テ宗教法人トハ前項ノ規定ニ依ル法人ヲ、教派、宗派、教団、寺院及教会トハ各神道教派、仏教宗派及基督教其ノ他ノ宗教ノ教団並ニ寺院及教会ニシテ宗教法人タルモノヲ謂フ

第二条 教派、宗派又ハ教団ヲ設立セントスル者ハ教派、宗派又ハ教団ノ規則ヲ作ルコトヲ要ス
規則ニハ左ノ事項ヲ記載シ設立者之ニ署名スベシ
 一 目的
 二 名称
 三 事務所ノ所在地
 四 財産管理其ノ他ノ財務ニ関スル事項
 五 主管者、代務者其ノ他ノ機関ニ関スル事項
 六 所属寺院及教会ニ関スル事項
 七 公益事業ニ関スル事項
 八 規則ノ変更ニ関スル事項

第三条 寺院又ハ教会ヲ設立セントスル者ハ寺院又ハ教会ノ規則ヲ作ルコトヲ要ス
規則ニハ左ノ事項ヲ記載シ設立者之ニ署名スベシ
 一 前条第二項第一号、第二号、第四号、第五号、第七号及第八号ニ掲グル事項
 二 所在地
 三 所属教派、宗派又ハ教団ノ名称
 四 檀徒、教徒又ハ信徒及其ノ総代ニ関スル事項
教派、宗派又ハ教団ニ属スル寺院又ハ教会ノ規則ハ所属教派、宗派又ハ教団ノ主管者ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス

第四条 教派、宗派及教団ハ主タル事務所ノ所在地ニ於テ、寺院及教会ハ其ノ所在地ニ於テ設立ノ登記ヲ為スニ因リテ成立ス
前項ノ設立ノ登記ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第五条 前条、第十条及第十五条ニ規定スルモノヲ除クノ外宗教法人ハ命令ノ定ムル所ニ依リ登記ヲ為スコトヲ要ス
前項ノ規定ニ依リ登記スベキ事項ハ登記ノ後ニ非ザレバ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得ズ

第六条 寺院又ハ教会ノ規則ヲ変更セントスルトキハ檀徒、教徒及信徒ノ総代ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス当該寺院又ハ教会ガ教派、宗派又ハ教団ニ属スルモノナルトキハ尚所属教派、宗派又ハ教団ノ主管者ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス

第七条 宗教法人成立シタルトキハ成立後二週間内ニ主管者ニ於テ規則並ニ主管者ノ氏名及住所ヲ教派、宗派及教団ニ在リテハ文部大臣ニ、寺院及教会ニ在リテハ地方長官ニ届出ヅベシ
前項ノ規定ニ依ル届出ニ係ル事項ニ変更ヲ生ジタルトキハ変更ヲ生ジタル後二週間内ニ主管者ニ於テ前項ノ例ニ準ジ之ヲ届出ヅベシ

第八条 宗教法人ニハ一人又ハ数人ノ主管者ヲ置クベシ
主管者ハ宗教法人ヲ主管シ之ヲ代表ス
主管者欠ケタルトキ、未成年ナルトキ又ハ久シキニ亙リ職務ヲ行フコト能ハザルトキハ代務者ヲ置キ其ノ職務ヲ行ハシムベシ

第九条 寺院及教会ニハ檀徒、教徒及信徒ノ総代(以下単ニ総代ト称ス)三人以上ヲ置クベシ
総代ハ寺院又ハ教会ノ経営ニ関シ主管者ヲ扶ク

第十条 寺院又ハ教会ハ命令ノ定ムル所ニ依リ宝物其ノ他不動産以外ノ重要ナル財産ニ付寺院又ハ教会ノ所在地ニ於テ寺院教会財産登記簿ニ登記ヲ為スコトヲ要ス

第十一条 寺院又ハ教会左ニ掲グル行為ヲ為サントスルトキハ総代ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス当該寺院又ハ教会ガ教派、宗派又ハ教団ニ属スルモノナルトキハ尚所属教派、宗派又ハ教団ノ主管者ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス
 一 不動産又ハ前条ノ規定ニ依リ登記ヲ為シタル財産ヲ処分シ又ハ担保ニ供スルコト
 二 借財又ハ保証ヲ為スコト
前項ニ規定スル事項ニ付総代ノ同意ヲ得ズ又ハ所属教派、宗派若ハ教団ノ主管者ノ承認ヲ受ケズシテ為シタル行為ハ之ヲ無効トス
前項ノ場合ニ於テ相手方ガ善意無過失ナルトキハ其ノ行為ヲ為シタル寺院又ハ教会ノ主管者ハ相手方ノ選択ニ従ヒ之ニ対シテ履行又ハ損害賠償ノ責ニ任ズ

第十二条 宗教法人ハ規則ノ定ムル所ニ依リ解散ヲ為スコトヲ得
寺院及教会ハ前項ノ解散ニ付総代ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス当該寺院又ハ教会ガ教派、宗派又ハ教団ニ属スルモノナルトキハ尚所属教派、宗派又ハ教団ノ主管者ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス

第十三条 宗教法人法令ニ違反シ若ハ公益ヲ害スベキ行為ヲ為シタルトキ又ハ寺院若ハ教会左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ裁判所ハ検事ノ請求ニ因リ又ハ職権ヲ以テ其ノ解散ヲ命ズルコトヲ得
 一 堂宇又ハ会堂ノ滅失後五年内ニ其ノ施設ヲ為サザルトキ
 二 主管者及代務者ヲ欠クコト三年以上ニ及ブトキ
前項ノ場合ニ於テ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十四条 解散シタル宗教法人ノ残余財産ノ処分ハ規則ノ定ムル所ニ依ル其ノ定ナキトキハ清算人ハ命令ノ定ムル所ニ依リ裁判所ノ許可ヲ受ケ他ノ宗教法人又ハ公益事業ノ為ニ之ヲ処分スルコトヲ得
前項ノ規定ニ依リ処分セラレザル財産ハ国庫ニ帰属ス

第十五条 宗教法人ニ於テ公衆礼拝ノ用ニ供スル建物又ハ其ノ敷地ニシテ命令ノ定ムル所ニ依リ登記ヲ為シタルモノハ不動産ノ先取特権、抵当権若ハ質権ノ実行ノ為ニスル場合又ハ破産ノ場合ヲ除クノ外其ノ登記後ニ原因ヲ生ジタル私法上ノ金銭債権ノ為ニ之ヲ差押フルコトヲ得ズ寺院教会財産登記簿ニ登記ヲ為シタル宝物ニ付亦同ジ

第十六条 宗教法人ニハ命令ノ定ムル所ニ依リ所得税及法人税ヲ課セズ
寺院ノ境内地及教会ノ構内地ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依リ地祖ヲ免除ス但シ有料借地ナルトキハ此ノ限ニ在ラズ
都道府県、市町村其ノ他ノ公共団体ハ宗教法人ノ所得ニ対シ地方税ヲ課スルコトヲ得ズ

第十七条 民法第四十三条、第四十四条、第五十条、第五十一条第一項、第五十二条第二項、第五十四条、第五十七条及第七十三条乃至第八十三条並ニ民法施行法第二十四条、第二十六条及第二十七条ノ規定ハ宗教法人ニ、民法第四十一条及第四十二条ノ規定ハ寺院及教会ニ付之ヲ準用ス但シ民法第五十七条ノ規定ノ準用ニ依ル特別代理人ノ選任ハ規則ノ定ムル所ニ依ル

第十八条 宗教法人ノ主管者、代務者又ハ清算人左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ二百円以下ノ過料ニ処ス
 一 第五条又ハ前条ニ於テ準用スル民法第七十七条ノ規定ニ依ル登記ヲ為サザルトキ
 二 第十四条第一項ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケズ又ハ裁判所ニ対シ不実ノ申立ヲ為シ若ハ事実ヲ隠蔽シタルトキ
 三 前条ニ於テ準用スル民法第五十一条第一項ノ規定ニ違反シ又ハ財産目録ニ虚偽ノ記載ヲ為シタルトキ
 四 前条ニ於テ準用スル民法第八十二条ノ規定ニ依ル裁判所ノ検査ヲ妨ゲタルトキ
 五 前条ニ於テ準用スル民法第八十一条ノ規定ニ依ル破産宣告ノ請求ヲ為サザルトキ
 六 前条ニ於テ準用スル民法第七十九条又ハ第八十一条ノ規定ニ依ル公告ヲ為サズ又ハ不正ノ公告ヲ為シタルトキ

附 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
本令施行ノ際現ニ存スル法人タル教派、宗派及教団並ニ寺院及教会ハ之ヲ宗教法人ト看做シ其ノ教規、宗制、教団規則、寺院規則、教会規則、管長、教団統理者、住職、教会主管者、代務者及総代並ニ寺院財産台帳及教会財産台帳ハ之ヲ各本令ニ依ル規則、主管者、代務者及総代並ニ寺院教会財産登記簿ト看做ス
前項ニ掲グル教派、宗派及教団並ニ寺院及教会ニ付宗教団体法ニ依リ登記ヲ為シタル事項、同項ニ掲グル寺院及教会ノ所有スル財産ニ付同法ニ依リ登録ヲ為シタル事項並ニ同項ニ掲グル寺院及教会ノ所有スル建物又ハ其ノ敷地ニ付同法ニ依リ登記ヲ為シタル事項ハ之ヲ各本令施行ノ日ニ於テ本令ニ依ル登記ヲ為シタルモノト看做ス
第十五条ニ掲グル財産ニシテ宗教団体法ニ依リ登記又ハ登録ヲ為シタルモノニ関スル同条ノ規定ノ適用ニ付テハ同条中其ノ登記後トアルハ宗教団体法ニ依ル登記又ハ登録後トス
所得税法第百十一条及法人税法第四十一条並ニ所得税法施行規則第一条第二項及法人税法施行規則第五条第二項ヲ削ル
登録税法第二条第一項第二号及第三条ノ二、電気瓦斯税法第四条第二号並ニ広告税法第四条第二号中「法人タル宗教団体」ヲ「宗教法人」ニ改ム
登録税法第十九条第二号ノ二、地方税法第十二条第一項第一号及家屋税法第三条第二号並ニ登録税法施行規則第五条ノ七、物品税法施行規則第二十六条第三号及特別行為税法施行規則第八条第二号中「寺院」ヲ「法人タル寺院」ニ、「教会」ヲ「法人タル教会」ニ改ム

  「法令全書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)平清盛が平重衡に命じて、南都焼討(東大寺・興福寺等を焼き払う)を行う(新暦1181年1月15日)詳細
1682年(天和2)江戸で天和の大火(お七火事)が起こり、死者3,500名余を出したとされる(新暦1683年1月25日)詳細
1877年(明治10)日本画家・歌人平福百穂の誕生日詳細
1981年(昭和56)小説家・推理作家横溝正史の命日詳細
1986年(昭和61)山陰本線余部鉄橋で列車転落事故が起きる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、文京公会堂で第1回日本レコード大賞が開催された日です。
 「日本レコード大賞」(にほんれこーどたいしょう)は、社団法人日本作曲家協会と日本レコード大賞制定委員会が主催し、TBSが後援する、1年間の優秀レコードに与える音楽賞でした。1958年(昭和33)に設けられた米国のグラミー賞を受けて、その翌年に作曲家の古賀政男と服部良一、音楽評論家の平井賢が創設したもので、第1回は水原弘の歌う「黒い花びら」(作詞永六輔、作曲中村八大)が受賞します。
 現在では、日本レコード大賞の他に、最優秀歌唱賞、優秀作品賞、最優秀新人賞、作詩賞、作曲賞、編曲賞、優秀アルバム賞、企画賞、特別功労賞などが設けられるようになりました。授賞式の様子は、1969年(昭和44)の第11回から、東京放送(TBS)の番組『輝く!日本レコード大賞』で全国に生中継されるようになりました。
 しかし、受賞を辞退したり、大賞の受賞者が授賞式に出席しないなどの事態もあって権威が低下してきています。

〇レコード大賞受賞曲一覧

・第1回(1959年)黒い花びら[東京芝浦電気]歌手水原弘、作詞永六輔、作曲中村八大、編曲中村八大
・第2回(1960年)誰よりも君を愛す[日本ビクター]歌手松尾和子と和田弘とマヒナスターズ、作詞川内康範、作曲吉田正、編曲和田弘
・第3回(1961年)君恋し[日本ビクター]歌手フランク永井、作詞時雨音羽、作曲佐々紅華、編曲寺岡真三
・第4回(1962年)いつでも夢を[日本ビクター]歌手橋幸夫・吉永小百合、作詞佐伯孝夫、作曲吉田正(2)、編曲吉田正
・第5回(1963年)こんにちは赤ちゃん[キングレコード]歌手梓みちよ、作詞永六輔(2)、作曲中村八大(2)、編曲中村八大(2)
・第6回(1964年)愛と死をみつめて[日本コロムビア]歌手青山和子、作詞大矢弘子、作曲土田啓四郎、編曲土田啓四郎
・第7回(1965年)柔[日本コロムビア]歌手美空ひばり、作詞関沢新一、作曲古賀政男、編曲佐伯亮
・第8回(1966年)霧氷[日本ビクター]歌手橋幸夫(2)、作詞宮川哲夫、作曲利根一郎、編曲一ノ瀬義孝
・第9回(1967年)ブルー・シャトウ[日本コロムビア]歌手ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、作詞橋本淳、作曲井上忠夫、編曲森岡賢一郎
・第10回(1968年)天使の誘惑[東芝音楽工業]歌手黛ジュン、作詞なかにし礼、作曲鈴木邦彦、編曲鈴木邦彦
・第11回(1969年)いいじゃないの幸せならば[日本ビクター]歌手佐良直美、作詞岩谷時子、作曲いずみたく、編曲いずみたく
・第12回(1970年)今日でお別れ[日本グラモフォン]歌手菅原洋一、作詞なかにし礼(2)、作曲宇井あきら、編曲森岡賢一郎(2)
・第13回(1971年)また逢う日まで[日本フォノグラム]歌手尾崎紀世彦、作詞阿久悠、作曲筒美京平、編曲筒美京平
・第14回(1972年)喝采[日本コロムビア]歌手ちあきなおみ、作詞吉田旺、作曲中村泰士、編曲高田弘
・第15回(1973年)夜空[徳間音楽工業]歌手五木ひろし、作詞山口洋子、作曲平尾昌晃、編曲竜崎孝路
・第16回(1974年)襟裳岬[ビクター音楽産業]歌手森進一、作詞岡本おさみ、作曲吉田拓郎、編曲馬飼野俊一
・第17回(1975年)シクラメンのかほり[キングレコード]歌手布施明、作詞小椋佳、作曲小椋佳、編曲萩田光雄
・第18回(1976年)北の宿から[日本コロムビア]歌手都はるみ、作詞阿久悠(2)、作曲小林亜星、編曲竹村次郎
・第19回(1977年)勝手にしやがれ[ポリドール]歌手沢田研二、作詞阿久悠(3)、作曲大野克夫、編曲船山基紀
・第20回(1978年)UFO[ビクター音楽産業]歌手ピンク・レディー、作詞阿久悠(4)、作曲都倉俊一、編曲都倉俊一
・第21回(1979年)魅せられて[CBSソニー]歌手ジュディ・オング、作詞阿木燿子、作曲筒美京平(2)、編曲筒美京平(2)
・第22回(1980年)雨の慕情[テイチク]歌手八代亜紀、作詞阿久悠(5)、作曲浜圭介 竜崎孝路 (2)
・第23回(1981年)ルビーの指環[東芝EMI]歌手寺尾聰、作詞松本隆、作曲寺尾聰、編曲井上鑑
・第24回(1982年)北酒場[日本コロムビア]歌手細川たかし、作詞なかにし礼(3)、作曲中村泰士(2)、編曲馬飼野俊一(2)
・第25回(1983年)矢切の渡し[日本コロムビア]歌手細川たかし(2)、作詞石本美由起、作曲船村徹、編曲薗広昭
・第26回(1984年)長良川艶歌[徳間ジャパン]歌手五木ひろし(2)、作詞石本美由起(2)、作曲岡千秋、編曲斎藤恒夫
・第27回(1985年)ミ・アモーレ〔Meu amor é…〕[ワーナーパイオニア]歌手中森明菜、作詞康珍化、作曲松岡直也、編曲松岡直也
・第28回(1986年)DESIRE -情熱-[ワーナーパイオニア]歌手中森明菜(2)、作詞阿木燿子(2)、作曲鈴木キサブロー、編曲椎名和夫
・第29回(1987年)愚か者[CBSソニー]歌手近藤真彦、作詞伊達歩、作曲井上堯之、編曲戸塚修
・第30回(1988年)パラダイス銀河[ポニーキャニオン]歌手光GENJI、作詞飛鳥涼、作曲飛鳥涼、編曲佐藤準
・第31回(1989年)淋しい熱帯魚[ポリスター]歌手Wink、作詞及川眠子、作曲尾関昌也、編曲船山基紀(2)
・第32回(1990年)<演>恋唄綴り[ポリスター]歌手堀内孝雄、作詞荒木とよひさ、作曲堀内孝雄、編曲川村栄二
          <ポ おどるポンポコリン[BMGビクター]歌手B.B.クィーンズ、作詞さくらももこ、作曲織田哲郎、編曲織田哲郎
・第33回(1991年)<演>北の大地[日本クラウン]歌手北島三郎、作詞星野哲郎、作曲船村徹(2)、編曲南郷達也
          <ポ>愛は勝つ[ポリドール]歌手KAN、作詞KAN、作曲KAN KAN、編曲小林信吾
・第34回(1992年)<演>白い海峡[キングレコード]歌手大月みやこ、作詞池田充男、作曲伊藤雪彦、編曲池多孝春
          <ポ>君がいるだけで[ソニー]歌手米米CLUB、作詞米米CLUB、作曲米米CLUB、編曲米米CLUB 中村哲
・第35回(1993年)無言坂[ポリドール]歌手香西かおり、作詞市川睦月、作曲玉置浩二、編曲川村栄二
・第36回(1994年)innocent world[トイズファクトリー]歌手Mr.Children、作詞桜井和寿、作曲桜井和寿、編曲小林武史 Mr.Children
・第37回(1995年)Overnight Sensation〜時代はあなたに委ねてる〜[エイベックス]歌手trf、作詞小室哲哉、作曲小室哲哉、編曲小室哲哉 久保こーじ
・第38回(1996年)Don't wanna cry[エイベックス]歌手安室奈美恵 小室哲哉(2)、作詞前田たかひろ、作曲小室哲哉(2)、編曲小室哲哉(2)
・第39回(1997年)CAN YOU CELEBRATE?[エイベックス]歌手安室奈美恵(2)、作詞小室哲哉(3)、作曲小室哲哉(3)、編曲小室哲哉(3)
・第40回(1998年)wanna Be A Dreammaker[エイベックス]歌手globe、作詞MARC 小室哲哉(4)、作曲小室哲哉(4)、編曲小室哲哉(4)
・第41回(1999年)Winter,again[アンリミテッド]歌手GLAY、作詞TAKURO、作曲TAKURO、編曲MASAHIDE・SAKUMA・GLAY
・第42回(2000年)TSUNAMI[ビクターEnt]歌手サザンオールスターズ、作詞桑田佳祐、作曲桑田佳祐、編曲サザンオールスターズ 弦編曲:島健
・第43回(2001年)Dearest[エイベックス]歌手浜崎あゆみ、作詞浜崎あゆみ、作曲CREA+D・A・I、編曲Naoto Suzuki
・第44回(2002年)Voyage[エイベックス]歌手浜崎あゆみ(2)、作詞浜崎あゆみ(2)、作曲CREA+D・A・I(2)、編曲島健(2)
・第45回(2003年)No way to say[エイベックス]歌手浜崎あゆみ(3)、作詞浜崎あゆみ(3)、作曲BOUNCEBACK、編曲HΛL
・第46回(2004年)Sign[トイズファクトリー]歌手Mr.Children(2)、作詞桜井和寿(2)、作曲桜井和寿(2)、編曲小林武史(2)・Mr.Children(2)
・第47回(2005年)Butterfly[エイベックス]歌手倖田來未、作詞倖田來未、作曲渡辺未来、編曲渡辺未来
・第48回(2006年)一剣[コロムビアMEnt]歌手氷川きよし、作詞松井由利夫、作曲水森英夫、編曲佐伯亮(2)
・第49回(2007年)蕾[ワーナー]歌手コブクロ、作詞小渕健太郎、作曲小渕健太郎、編曲コブクロ
・第50回(2008年)Ti Amo[エイベックス]歌手EXILE、作詞松尾潔、作曲Jin Nakamura・松尾潔、編曲Jin Nakamura
・第51回(2009年)Someday[エイベックス]歌手EXILE(2)、作詞ATSUSHI、作曲miwa furuse、編曲h-wonder
・第52回(2010年)I Wish For You[エイベックス]歌手EXILE(3)、作詞michico、作曲T. Kura? michico、編曲T. Kura
・第53回(2011年)フライングゲット[キングレコード]歌手AKB48、作詞秋元康、作曲すみだしんや、編曲生田真心
・第54回(2012年)真夏のSounds good ![キングレコード]歌手AKB48(2)、作詞秋元康(2)、作曲井上ヨシマサ、編曲井上ヨシマサ
・第55回(2013年)EXILE PRIDE〜こんな世界を愛するため〜[エイベックス]歌手EXILE(4)、作詞ATSUSHI(2)、作曲Sean “PHEKOO” POCHI
・第56回(2014年)R.Y.U.S.E.I.[エイベックス]歌手三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE、作詞STY<STY・Maozon、編曲STY・Maozon
・第57回(2015年)Unfair World[エイベックス]歌手三代目 J Soul Brothers from EXILE TRIBE(2)、作詞小竹正人、作曲Mitsu.J、編曲Mitsu.J
・第58回(2016年)あなたの好きなところ[ソニー]歌手西野カナ、作詞西野カナ、作曲Carlos K. Yo-Hey、編曲Carlos K.
・第59回(2017年)インフルエンサー[ソニー]歌手乃木坂46、作詞秋元康(3)、作曲すみだしんや(2)、編曲APAZZI
・第60回(2018年)シンクロニシティ[ソニー]歌手乃木坂46(2)、作詞秋元康(4)、作曲シライシ紗トリ、編曲シライシ紗トリ
・第61回(2019年)パプリカ[ソニー]歌手Foorin、作詞米津玄師、作曲米津玄師、編曲米津玄師
・第62回(2020年)炎[ソニー]歌手LiSA、作詩梶浦由記・LiSA、作曲梶浦由記、編曲梶浦由記
・第63回(2021年)CITRUS[エイベックス]歌手Da-iCE、作詞工藤大輝・花村想太、作曲Kaz Kuwamura・中山翔吾、編曲中山翔吾・TomoLow

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

966年(康保3)三蹟の一人とされる能書家・歌人小野道風の命日(新暦967年2月9日)詳細
1278年(弘安元)藤原為氏が『続拾遺和歌集』(二十一代集の12番目)を撰上する(新暦1279年2月9日)詳細
1960年(昭和35)池田隼人内閣で「国民所得倍増計画」が閣議決定される詳細
1980年(昭和55)経済学者山田盛太郎の命日詳細
1987年(昭和62)小説家・児童文学者椋鳩十の命日詳細

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