ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年11月

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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、犬吠埼灯台が完成して、初点灯した日です。
 犬吠埼灯台(いぬぼうさきとうだい)は、千葉県銚子市のはずれ、犬吠埼の突端に立つ白亜の大型灯台で、周辺は、水郷筑波国定公園の一部となっていて、太平洋に臨む景勝地となってきました。また、世界灯台100選に選ばれた灯台 であり、「日本の灯台50選」にも選ばれている日本を代表する灯台で、歴史的文化財的価値が高いので、Aランクの保存灯台ともなっています。
 この灯台は、明治初期に、江戸条約によって建設された一群の洋式灯台(条約灯台ともいう)の中には入っていませんでしたが、それに続く重要な灯台として建設が決まりました。というのも、この付近一帯は、小島・岩礁が多く、昔から海の難所とされてきたからです。そして、1868年(慶応4)8月21日、幕府の軍艦美加保丸が、暴風雨に遭い、ここの黒生(くろはえ)岩礁に乗り上げて座礁沈没、乗組員13名が死亡するという事故も起きていました。
 そのような中で、イギリスから招いた灯台技師、R・H・ブラントンの設計、施工監督のもと、1872年(明治5年9月2日)に着工、1874年(明治7)11月15日に完成し、初点灯されました。建設当初より、白色塔形(円形)のレンガ造灯台ですが、このレンガは日本製で、19万3千枚もが積み上げられています。それでいて、148年もの風雪に耐え、レンガ製の建造物としては、尻屋埼灯台に次ぐ、日本第2位の灯塔高を誇ってきました。
 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)31.3mと高く、標高(平均海面~灯火)51.80m、光度110万カンデラ(実効光度)、光達距離は、19.5海里(約40km) で、日本に6ヶ所しかない第1等フレネル式レンズを使用した第1等灯台です。また過去には、霧信号所(エアサイレン)や無線方位信号所(中波標識局、レーマークビーコン)、ディファレンシャルGPS局も併設されていて、いろいろな役割も担ってきました。
 一般公開(大人300円、小人無料)されている参観灯台で、上まで登ることができますが、螺旋階段の数が九十九里海岸にちなんで、99段となっているのが面白いです。灯台上からは、太平洋を一望の下にすることが出来、地球を丸く感じることが出来るところです。
 また、灯台資料展示館も併設されていて、この灯台の歴史、機能・役割などを学べますし、初代犬吠埼灯台レンズ(フレネル式第1等8面閃光レンズ)をはじめ、貴重な資料が多数展示されています。尚、2020年(令和2年)12月23日に、灯台、旧霧笛舎、旧倉庫が国の重要文化財に指定されました。

〇犬吠埼灯台関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1872年(明治5年9月2日) 犬吠埼灯台が着工される
・1874年(明治7年)11月15日 竣工し初点灯する
・1878年(明治11年)1月1日 気象観測業務を開始する
・1907年(明治40年)10月1日 船舶通報事務取扱を開始する
・1910年(明治43年)4月1日 霧信号所霧笛舎竣工し、霧笛号業務を開始する
・1923年(大正12年)5月27日 これまでの石油灯を電気灯火とし、燭光数を変更する
・1930年(昭和5年)2月25日 灯器改造工事のため等級、灯質、燭光数変更(仮灯に変更)する
・1930年(昭和5年)3月25日 灯器改造工事が完成し、灯質変更、光力増大の上点灯する
・1932年(昭和7年)12月15日 無線方位信号所業務を開始(無線標識)する
・1941年(昭和16年)3月11日 構内に犬吠埼電信局を設置する
・1945年(昭和20年)8月10日 7機の米軍戦闘機による攻撃を受け破損し、技術員1名が殉職する
・1945年(昭和20年)11月10日 修復して、再点灯する
・1951年(昭和26年)3月31日 戦災復旧工事が完了し、初点灯より使用していた初代レンズ(仏製1等八面閃光レンズ)が退役する
・1951年(昭和26年)9月1日 暴風標識信号所を設置する
・1953年(昭和28年)8月1日 航路標識事務所を設置する
・1956年(昭和31年)10月15日 光力を増大し、200万カンデラとなる
・1962年(昭和37年)9月1日 レーマークビーコン業務を開始する
・1973年(昭和48年)2月12日 灯塔を鉄筋にて補強工事を実施し完工する
・1987年(昭和62年)12月10日 灯塔をPC工法で耐震補強工事を実施し完工する
・2002年(平成14年)3月20日 灯台資料展示館開館し、明治村(愛知県)にて保存されていた初代レンズが戻る
・2006年(平成18年)8月2日 無線方位信号所(中波帯)が廃止される
・2008年(平成20年)3月31日 犬吠埼霧信号所廃止に伴い、最後の霧笛を鳴らすお別れ式典が挙行される
・2009年(平成21年)4月10日 無線方位信号所が廃止される
・2010年(平成22年)4月28日 灯台が国の登録有形文化財に登録される
・2012年(平成24年)12月19日 旧犬吠埼霧信号所霧笛舎が国の登録有形文化財に登録される
・2016年(平成28年)9月30日 灯台放送(船舶気象通報)及び灯台に併設する犬吠埼ディファレンシャルGPS局の気象通報が廃止される
・2019年(平成31年)3月1日 ディファレンシャルGPS局が廃止される
・2020年(令和2年)12月23日 灯台、旧霧笛舎、旧倉庫が国の重要文化財に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1653年(承応2)歌人・歌学者・俳人・貞門俳諧の祖松永貞徳の命日(新暦1654年1月3日)詳細
1867年(慶応3)京都で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される(新暦12月10日)詳細
1872年(明治5)「国立銀行条例」が制定される(新暦12月15日)詳細
1903年(明治36)平民社から週刊「平民新聞」が発刊される詳細
1914年(大正3) 東洋経済新報社説に石橋湛山の「青島は断じて領有すべからず」が掲載される詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、武者小路実篤らが宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に「新しき村」を建設した日です。
 新しき村(あたらしきむら)は、白樺派の文学者武者小路実篤らによって設立された生活共同体の村でした。自然主義から脱却し、理想主義文学を志した武者小路の現実的具体的な表現であり、各人が一定の義務労働を分担して衣食住が無料で得られる社会をめざしたものです。
 実篤自身も1926年(大正15)に一身上の都合で村外会員となるまで、ここに居住していました。全国から40余名が集まって生活したものの、1939年(昭和14)にダム工事により水田を失い、埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」を建設し、主力はここに移ります。
 1948年(昭和23)に、「東の村」は「財団法人新しき村」となり、水田や果樹園に加え養鶏が始まり、1958年(昭和33)には、ついに自活できるようになりました。1980年(昭和55)に、武者小路実篤の書画、書簡、著書等を収めた「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が毛呂山町に開館します。
 近年、高齢化と共に村内会員が減少し、2018年(平成30)には、村の存続を願う村外会員らが「日々新しき村の会」を発足させました。

〇新しき村関係略年表

・1918年(大正7)11月14日 宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)に武者小路実篤らの推進により創設される
・1926年(大正15) 武者小路実篤は一身上の都合で村外会員となる
・1939年(昭和14) ダム工事により水田を失い、埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」を開設する
・1948年(昭和23) 「東の村」は「財団法人新しき村」となり、水田や果樹園に加え養鶏が始まる
・1958年(昭和33) ついに自活できるようになる
・1980年(昭和55) 武者小路実篤の書画、書簡、著書等を収めた「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が開館する
・2018年(平成30)8月 村の存続を願う村外会員らが「日々新しき村の会」を発足させる
・2022年(令和4)5月 公益法人化を目指し認定のための申請を行なう

☆武者小路実篤とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した小説家・劇作家です。1885年(明治18)5月12日、東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の武者小路子爵家の父・武者小路実世と母・秋子の第8子として生まれました。
 学習院を経て、1906年(明治39)に、東京帝国大学東大哲学科社会学専修に進学しましたが、1年で中退することとになります。その後、1910年(明治43)に志賀直哉、有島武郎、有島生馬、里見弴らと文学雑誌『白樺』を創刊し、1911年(明治44)には小説『お目出たき人』を刊行しました。
 1918年(大正7)には、人道主義の立場から「新しき村」を宮崎県につくることになります。それと前後して、小説『世間知らず』『幸福者』『友情』、戯曲『その妹』などを発表し、独特な口語文体で、個人や人間生命を賛美しました。
 白樺派の代表的作家として活躍し、詩や画業にも挑み、1937年(昭和12)には、帝国芸術院会員ともなります。しかし、太平洋戦争に協力したために、戦後公職追放されることになりました。
 その解除後、1951年(昭和26)に文化勲章を受章し、晩年は野菜の絵に文を添えた色紙を揮毫したりしています。そして、1976年(昭和51)4月9日に、東京都において、尿毒症によって90歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

735年(天平7)皇族政治家・『日本書紀』の編纂責任者舎人親王の命日(新暦12月2日)詳細
1951年(昭和26)天野貞祐文相の「教育勅語」に代わる国民道徳の基本としての「国民実践要領」の大綱が明らかになる詳細
1971年(昭和46)言語学者・民俗学者・アイヌ語研究者金田一京助の命日詳細
1973年(昭和48)関門橋(山口県下関市・福岡県北九州市門司区)が開通する詳細
1986年(昭和61)小説家・劇作家円地文子の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1966年(昭和41)に、大阪国際空港発松山空港行きの全日空533便(国産旅客機YS-11)が松山空港沖で墜落(全日空松山沖墜落事故)し、乗客・乗員50名全員が死亡した日です。
 全日空松山沖墜落事故(ぜんにっくうまつやまおきついらくじこ)は、大阪国際空港発松山空港行きの全日空533便(国産旅客機YS-11)が、松山空港への着陸に失敗したため、着陸復行しましたが、瀬戸内海沖合に墜落した航空機事故でした。これによって、新婚旅行の12組を含む乗客45名と乗員5名の計50名全員が死亡しています。
 この旅客機には、ボイスレコーダーとフライトレコーダーを搭載していなかったこともあり、事故調査委員会は墜落原因を特定することが出来なかったものの、調査報告書では、速度計の誤読あるいは故障等の推測原因を検討した上で、パイロットのミスを示唆していました。この事故により、同年2月4日に羽田沖墜落事故も起こしていた全日本空輸は、乗客からの信頼を喪失して経営困難に陥り、責任を取る形で、翌年に社長の岡崎嘉平太が辞任しています。また、当時の松山空港では、滑走路が1,200mしかないなど、地方空港の貧弱さが浮き彫りになり、この事故を契機に地方空港の滑走路の拡張・拡幅工事が進められたことにより、松山空港も現在では海面を埋め立てるなどして、滑走路が2,500mまで延長されました。

〇戦後の日本における重大航空機事故(死者30名以上)一覧

・1952年(昭和27)4月9日 日本航空301便(もく星号) 機種:マーチン2-0-2
 状況: 伊豆大島の三原山山頂付近に墜落。乗員乗客37人全員が死亡。
・1958年(昭和33)8月12日 全日本空輸25便 機種:ダグラスDC-3
 状況: エンジントラブルのため羽田空港に引き返そうとしたが、利島近海に墜落。乗員乗客33人全員が死亡。
・1966年(昭和41)2月4日 全日本空輸60便 機種:ボーイング727-81
 状況: 羽田空港着陸直前に東京湾に墜落(原因不明)。乗員乗客133人全員が死亡。
・1966年(昭和41)3月4日 カナダ太平洋航空402便 機種:ダグラスDC-8-43
 状況: 濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗し爆発炎上。乗員乗客72人中64人が死亡。
・1966年(昭和41)3月5日 英国海外航空 (BOAC) 911便 機種:ボーイング707-436
 状況: 富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解し墜落。乗員乗客124人全員が死亡。
・1966年(昭和41)11月13日 全日本空輸533便 機種:日本航空機製造YS-11-111
 状況: 松山空港への着陸に失敗したため、着陸復行したが瀬戸内海沖合に墜落。乗員乗客50人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月3日 東亜国内航空63便(ばんだい号) 機種:日本航空機製造YS-11A-217
 状況: 函館空港への着陸アプローチ中に山間部に墜落。乗員乗客68人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月30日 全日本空輸58便と航空自衛隊訓練機 機種:ボーイング727-281とノースアメリカンF-86Fセイバー
 状況: 岩手県雫石町上空で空中衝突。全日空機の乗員乗客162人全員が死亡。
・1985年(昭和60)8月12日 日本航空123便 機種:ボーイング747SR-46
 状況: 1978年6月の尻もち事故の際にボーイング社が修理ミスを起こしたために、飛行中に圧力隔壁が破壊され、操縦系統が破損し操縦不能に陥り迷走した後に墜落。乗員乗客524人中520人が死亡。
・1994年(平成6)4月26日 中華航空140便 機種:エアバスA300B4-622R
 状況:名古屋空港への着陸復行の際に操縦士と機体制御システムが相反したあげく、失速し墜落。乗員乗客271人中264人が死亡。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1752年(宝暦2)浮世絵師・宮川派の祖宮川長春の命日(新暦12月18日)詳細
1904年(明治37)週刊「平民新聞」第53号に、日本初の翻訳された『共産党宣言』(第三章を除く)が掲載される詳細
1940年(昭和15)第4回御前会議において「支那事変処理要綱」が決定される詳細
1973年(昭和48)詩人・作詞家・作家サトーハチローの命日詳細
1997年(平成9)北陸自動車道の新潟亀田~新潟空港が開通し、米原~新潟空港間が全通する詳細
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出航した日ですが、新暦では12月23日となります。
 岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳を副使として、欧米に派遣した使節団でした。総勢107名(使節46名、随員18名、留学生43名)で、1871年(明治4年11月12日)に横浜港を出港し、1873年(明治6年)9月13日に横浜港へ帰港するまで、約1年10ヶ月をかけて、米欧12ヶ国(アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア・ハンガリー、スイス)を歴訪しています。
 その目的は、①幕末条約締盟国への国書の捧呈、②条約改正予備交渉、③米欧各国の制度・文物の調査研究でした。しかし、アメリカでの条約改正交渉には失敗したものの、ヨーロッパの先進文明を摂取して帰国しています。
 尚、この使節団には、金子堅太郎、団琢磨、津田梅子らの留学生が随行し、各国に留学しました。

〇岩倉使節団の使節メンバー(46名)

<使節>
【特命全権大使】
・岩倉具視
【副使官】
・木戸孝允(桂小五郎)
・大久保利通
・伊藤博文
・山口尚芳
【一等書記官】
・田辺太一
・何礼之
・福地源一郎
【二等書記官】
・渡辺洪基
・小松済治
・林董三郎
・長野桂次郎 - 通詞
【三等書記官】
・川路寛堂
【四等書記官】
・安藤太郎
・池田政懋
・久米邦武
・中山信彬
・内海忠勝
・野村靖
・五辻安仲
【理事官】
・田中光顕
・東久世通禧
・山田顕義
・佐佐木高行
・田中不二麿
・肥田為良
【随行】
・村田新八
・由利公正
・原田一道
・長與專齋
・安場保和
・若山儀一
・阿部潜
・沖守固
・富田命保
・杉山一成
・吉雄永昌
・中島永元
・近藤鎮三
・今村和郎
・内村公平
・大島高任
・瓜生震
・岡内重俊
・中野健明
・平賀義質

☆岩倉使節団関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

<1871年>
・明治4年11月11日 裁判所にて晩餐会が行われ、各国在留公使、書記官が参会する
・明治4年11月12日 岩倉使節団が横浜港を出港する
・明治4年12月6日 アメリカのサンフランシスコの桟橋に到着する
・明治4年12月7日 グランド・ホテルに市長、海陸軍将士、各国公使が来訪する

<1872年>
・明治4年12月22日 グランド・ホテルを出発する
・明治5年1月18日 シカゴ駅に到着する
・明治5年1月21日 ワシントンに到着する
・明治5年1月25日 ホワイトハウスにてアメリカ大統領グラントに謁見する
・明治5年7月3日 郵船オリンパス号にて出港し、アメリカからイギリスへ向かう
・明治5年7月13日 アイルランドのクイーンズ・タウンに寄港する
・明治5年8月17日 イギリスのリヴァプールに到着する
・明治5年11月4日 ロンドンのウィンザー城でヴィクトリア女王と謁見する
・明治5年11月16日 イギリスのドーバーを出港し、フランスのカレーに到着、汽車でパリへ行く
・明治5年11月26日 フランスの大統領官邸(エリゼ宮殿)にて大統領ルイ・アドルフ・ティエールと謁見する

<1873年(明治6年)>
・2月17日 ベルギーのブリュッセルに到着する
・2月18日 ベルギー国王レオボルド2世に謁見する
・2月24日 オランダのバーグに到着する
・2月25日 オランダ国王ウィレム3世に謁見する
・3月9日 ドイツのベルリンに到着する
・3月11日 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見する
・3月15日 ドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加する
・3月30日 ロシアのペテルブルグに到着する
・4月3日 ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見する
・4月18日 デンマークのコペンハーゲンに到着する
・4月19日 デンマーク国王クリスチャン9世、ルイーズ王妃に謁見する
・4月24日 スゥエーデンのストックホルムに到着する
・4月25日 スゥエーデン国王オスカル2世に謁見する
・5月11日 イタリアのローマに到着する
・5月13日 イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に謁見する
・6月3日 オーストリア・ハンガリーのウィーンに到着する
・6月8日 オーストリア・ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ、皇后に謁見する
・6月19日 スイスのチューリッヒに到着する
・6月21日 スイスの連邦院にて大統領に謁見する
・7月20日 マルセイユを郵船アウア号で出港し、帰国の途に就く
・7月27日 スエズ運河を通る
・8月1日 アデン港に寄港する
・8月9日 ゴール港に寄港する
・8月22日 ベトナムのサイゴンに寄港する
・8月27日 香港に寄港する
・9月2日 上海に寄港する
・9月13日 岩倉使節団が横浜港に帰国する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、下中弥三郎・植村環・茅誠司・上代たの・平塚らいてう・前田多門・湯川秀樹によって、世界平和アピール七人委員会が結成された日です。
 世界平和アピール七人委員会(せかいへいわあぴーるしちにんいいんかい)は、知識人による平和問題に関する意識表明の会でした。1955年(昭和30)11月11日に、世界連邦建設同盟理事長で平凡社社長の下中弥三郎の提唱によって結成されましたが、最初のメンバーは、下中弥三郎、植村環、茅誠司、上代たの、平塚らいてう、前田多門、湯川秀樹で、当日に「国連第十回総会にむけてのアピール」を発表します。
 その後、メンバーの死去などによる委員の交代で、川端康成、朝永振一郎、井上靖、平山郁夫、井上ひさし、小柴昌俊などが名を連ねたものの、1996年(平成8)から活動を停止し、8年後の2004年(平成16)に再開しました。メンバーの条件は、実際の政治にタッチしていない人(政治家でないこと)、自由人で民主主義陣営の人、世界的に平和運動を行い得る人のの3つとされています。
 現在の委員は、武者小路公秀、大石芳野、小沼通二、池内了、池辺晋一郎、髙村薫、島薗進の7名となりました。近年は、ホームページ上で「今月のことば」を発表、年に数回アッピールを出したり、講演会を開催するなどしています。
 以下に、結成時の「国連第十回総会にむけてのアピール」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇最近出したアピール

<2019年(平成31・令和元)>
・2月26日「朝鮮半島・アジア・全世界の平和と安定を求め、第2回米朝会談に期待する」
・4月26日「日米地位協定の根本的改定を沖縄県とともに求める」
・7月1日「不誠実な外交・内政との決別を―参議院選挙を前にして―」
・11月30日「ローマ教皇の長崎・広島でのメッセージに賛同する」
・12月12日「自衛隊の海外派遣を常態化してはいけない」

<2020年(令和2)>
・1月6日「米国によるイラン革命防衛隊司令官殺害を非難し、すべての関係者がこの危機を悪化させないよう求める」
・2月10日「米国原子力潜水艦への低出力核弾頭の初めての実戦配備に反対する」
・4月13日「ウイルス禍とのグローバルな闘いを通じて平和を」
・8月1日「核兵器と戦争の廃絶に向けて今こそ行動を ―広島・長崎被爆75周年―」
・10月7日「日本学術会議会員の任命拒否は許容できない」

<2021年(令和3)>
・1月20日「核兵器禁止条約批准50か国達成を祝す」
・2月8日「ミャンマーのクーデタ―に抗議し、原状回復・民主化促進を求める」
・4月20日「今夏の東京オリンピック・パラリンピックは開催すべきでない」
・6月8日「人権尊重を! 出入国管理政策の抜本的改革を求める」
・8月28日「人命尊重のコロナ政策最優先への根本的転換を」を発表
・10月18日「『民主主義の危機』を克服するために」
・12月27日「2022年を日本政府が核兵器廃絶に踏み出す年に!」

<2022年(令和4)>
・2月28日「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻即時中止を求める」
・5月2日「今こそ核戦争回避に向けて結束した行動を」
・6月24日「平和国家として歩む――軍事力増強とは異なる道を――」
・8月3日「搾取・収奪常習を問われる集団に寄生する政治家の即退場を求める」

☆「国連第十回総会にむけてのアピール」世界平和アピール七人委員会 1955年11月11日

 1946年11月3日、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を希求して、戦争を放棄した。それは平和を愛する諸国民の公正と、正義に信頼したからである。しかるに世界は、依然として戦争の脅威にさらされ、原子力戦争は破滅を予想させつつある。
 本年になってAA会議、四国巨頭会議を契機として冷たい対立は一層雪どけの春をおもわせているにもかかわらず日本は再軍備が迫りつつある。
 われわれはここに、あくまでも日本の平和憲法を擁護するとともに、世界の諸国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、皮膚の色にかかわりなく人類各員の基本人権を尊重し、人類協同の平和のうちに生存する権利を有することを確認し、国家の存在するかぎり戦争の脅威を避け得ない現実にかんがみ、戦争を絶滅し真の恒久平和を実現するためには今日の国家単位の国連を、世界連邦にまで発展せしめるほかないことを確信し原爆の被害者として世界人類の平和を希う日本民族の悲願を表明して、茲に、現に開催中の国連第十回総会に対し次の三項の早期実現を勧告する。

一、未加盟国を残りなく国連に加盟させること

(註)未加盟国のうちスイスを除く他の二十数カ国はすべて加盟を望んでいる。平和機構の世界性を願うわれらはこの際未加盟国全部の加盟を求める。
一、1956年9月に国連憲章再審議会議を開き、それを世界憲章起草会議とすること

(註)世界憲章の内容については、世界連邦世界運動及び世界連邦国会委員会にて研究された素案を討議題とすればよい。
一、1957年に国連総会と併行して第1回世界人民会議を招集すること

(註)世界人民会議に於ては、次の諸問題が議せられるべきであろう。
   Ⅰ 軍備を如何に撤廃すべきか
   Ⅱ 資源と人口を如何に調節すべきか
   Ⅲ 経済交流を如何に自由にすべきか
   Ⅳ 人類平等、人権尊重を如何に実行すべきか
   Ⅴ 世界諸国民の出入国管理等如何にあるべきか
右方式により平和を護持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に排除し得る世界社会の建設を要望する。
右勧告する。

 1955年11月11日

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1477年(文明9)大内軍が京から撤収し、応仁の乱が終結する(新暦12月16日)詳細
1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
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