ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年11月

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 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、木骨煉瓦造り3階建て約60室の初代帝国ホテルが完成し、竣工式が行われた日です。
 帝国ホテル(ていこくほてる)は、東京都千代田区内幸町にあるホテルで、日本を代表するホテルの一つとされてきました。1888年(明治21)に、井上馨の発議により、渋沢栄一と大倉喜八郎が有限責任東京ホテル会社を設立し、1890年(明治23)に木骨煉瓦造、3階建、客室数約60の帝国ホテルが落成し、11月20日に竣工式が行われます。
 1893年(明治26)に帝国ホテル株式会社に改称し、1907年(明治40)には、株式会社メトロポールホテルと合併し、株式会社帝国ホテルとなりました。1920年(大正9)にアメリカ合衆国の建築家フランク・ロイド・ライトの設計による新館(ライト館)の工事に着工したものの、1922年(大正11)に本館が火災により焼失、翌年に完成した新館(ライト館)が本館となります。
 1933年(昭和8)には、上高地帝国ホテルも開業しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に連合軍の将官およびGHQ高官用宿舎として接収されたものの、1952年(昭和27)に自由営業が再開されます。
 1953年(昭和28)に金井寛人が株式の多くを獲得して会長となり、1954年(昭和29)にライト館の裏手に客室数170の第一新館が完成、1958年(昭和33)には、その横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成しました。1964年(昭和39)にライト館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表され、1967年(昭和42)にライト館が閉鎖され、翌年には取り壊し、一部を明治村に移築保存することとなります。
 1970年(昭和45)に地上17階の新本館が完成しましたが、1977年(昭和52)の金井の死後、その全持ち株が国際興業に譲渡され、2007年(平成19)には、その大半が三井不動産に売却され、三井不動産が筆頭株主となりました。その間、1996年(平成8)に帝国ホテル大阪が開業、その後、2016年(平成27)には、地下1階-地上4階のインペリアルタワー(現帝国ホテルタワー)が完成しています。

〇帝国ホテル関係略年表

・1886年(明治19) 東京の官庁集中計画が練られた際に、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルの設計が組み込まれる
・1887年(明治20) 井上馨の発議により、渋沢栄一と大倉喜八郎が、有限責任東京ホテル会社を設立する
・1888年(明治21) 有限責任帝国ホテル会社とする
・1890年(明治23)11月3日 木骨煉瓦造、3階建、客室数約60の帝国ホテルが落成する
・1890年(明治23)11月20日 帝国ホテルの竣工式が行われる
・1893年(明治26) 「帝国ホテル株式会社」に改称する
・1907年(明治40) 「株式会社メトロポールホテル」と合併し「株式会社帝国ホテル」となる
・1909年(明治42) 渋沢 栄一が帝国ホテル取締役会長を辞任し、大倉喜八郎が取締役会長に就任する
・1910年(明治43) 宮内省御用に指定される
・1916年(大正5) 臨時株主総会で新ホテル建設を決議する
・1920年(大正9) アメリカ合衆国の建築家フランク・ロイド・ライトの設計による新館(ライト館)の工事に着工する
・1922年(大正11) 本館が火災により焼失する
・1923年(大正12)8月 フランク・ロイド・ライトによる新館(ライト館)が落成する
・1933年(昭和8)10月 上高地帝国ホテルが開業する
・1945年(昭和20)9月 連合軍の将官およびGHQ高官用宿舎として接収される
・1950年(昭和25)9月 政府登録ホテル第一号となる
・1952年(昭和27)4月 自由営業が再開される
・1953年(昭和28) 金井寛人が株式の多くを獲得して会長となる
・1954年(昭和29) ライト館の裏手(現在インペリアル・タワーが建っている敷地)に客室数170の第一新館が完成する
・1958年(昭和33) 第一新館の横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成する
・1964年(昭和39) ライト館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表される
・1967年(昭和42) ライト館が閉鎖される
・1968年(昭和43) ライト館の取りこわしのため、一部を明治村に移築保存する
・1970年(昭和45) 地上17階の新本館が完成する
・1977年(昭和52) 金井の死後、その全持ち株が小佐野賢治の国際興業に譲渡される
・1996年(平成8) 帝国ホテル大阪が開業する
・2004年(平成16) 国際興業がサーベラスに買収される
・2007年(平成19)10月 国際興業保有帝国ホテル株式の大半が三井不動産に売却され、三井不動産が筆頭株主となる
・2016年(平成27) 地下1階-地上4階のインペリアルタワー(現帝国ホテルタワー)が完成する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1858年(安政5)政治家尾崎行雄の誕生日(新暦12月24日)詳細
1942年(昭和17)日本文学報国会が企画・選定した「愛国百人一首」が情報局より発表される詳細
1945年(昭和20)GHQが「無線通信の統制に関する覚書」 (SCAPIN-321)を出す詳細
1959年(昭和34)国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択される(世界こどもの日)詳細
2005年(平成17)書家村上三島の命日詳細

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、MK鋼を発明した冶金学者三島徳七の亡くなった日です。
 三島徳七(みしま とくしち)は、1893年(明治26)2月24日に、兵庫県津名郡広石村下組(現在の洲本市五色町広石下)において、農業を営む父・喜住甚平の5男(7人兄弟の末っ子)として生まれました。広石尋常高等小学校、立教中学校を経て、1913年(大正2)に、旧制第一高等学校へ入学します。
 卒業後の1916年(大正5)に、東京帝国大学へ入学、1920年(大正9)に、工学部冶金学料を卒業し、同校助手を経て講師となり、同校講師の三島通良の養子となり、三島姓になりました。1921年(大正10)に東京帝国大学助教授となり、1928年(昭和3)には、学位論文「ニツケル」及「ニツケル」合金ノ焼鈍脆性」で、東京帝国大学より工学博士号を取得します。
 1931年(昭和6)に強力永久磁石を発明、1934年(昭和9)には、強磁性合金を発明して特許を取得し、「MK磁石(MK鋼:MK磁石鋼)」と名付けました。この実績により、1937年(昭和12)に紺綬褒章を受章、1938年(昭和13)には、帝国発明協会恩賜賞を受賞、東京帝国大学教授となります。
 1939年(昭和14)に科学審議会委員、自動車技術審議会委員、1940年(昭和15)に社団法人 発明協会理事、1941年(昭和16) 日本学術振興会小委員会委員長、1942年(昭和17)に勲三等瑞宝章を受章、科学技術審議会委員に選任されました。太平洋戦争後期は、1945年(昭和20)に「特殊鋼殊に MK磁石鋼の研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞、1947年(昭和22)に社団法人日本鉄鋼協会会長、1948年(昭和23)に日本学術会議会員、1949年(昭和24)に日本学士院会員、社団法人日本金属学会会長に選任されます。
 1950年(昭和25)に藍綬褒章、文化勲章を受章、翌年には、文化功労者ともなりました。1953年(昭和28)に東京大学を退官し、名誉教授、日本金属学会名誉会員となり、翌年には、社団法人日本鋳物協会会長に就任します。
 1957年(昭和32)にアメリカ金属学会アルバート・ソーバー功労賞、1962年(昭和37)にイタリア金属学会ルイジ・ロサーナ賞を受賞、1964年(昭和39)には、フランス金属学会名誉会員となるなど国際的にも評価されました。1967年(昭和42)に日本鉄鋼協会本多記念賞、1973年(昭和48)に第二回日本産業技術大賞を受賞したりしましたが、1975年(昭和50)11月19日に、東京において、82歳でなくなり、勲一等旭日大綬章を追贈されています。
 尚、1985年(昭和60)に、工業所有制度百周年記念行事委員会から日本の発明家10傑の1人に選ばれました。

〇三島徳七の主要な著作

・『高速度鋼とその熱処理』(1941年)
・『不銹鋼』(1947年)
・『金属材料及其熱処理』(1949年)
・息子の良績との共著『合金学』(1954年)
・『近代鋳造』(1970年)

☆三島徳七関係略年表

・1893年(明治26)2月24日 兵庫県津名郡広石村下組(現在の洲本市五色町広石下)において、農業を営む父・喜住甚平の5男(7人兄弟の末っ子)として生まれる
・1907年(明治40) 広石尋常高等小学校を卒業する
・1911年(明治44) 立教中学校への編入試験の末、同校に入学する
・1913年(大正2) 立教中学を卒業し、第一高等学校へ入学する
・1916年(大正5) 第一高等学校卒業し、東京帝国大学へ入学する
・1920年(大正9) 東京帝国大学工学部冶金学料を卒業、同校助手を経て講師となり、同校講師の三島通良の養子となる
・1921年(大正10) 東京帝国大学助教授となる
・1928年(昭和3) 学位論文「ニツケル」及「ニツケル」合金ノ焼鈍脆性」で、東京帝国大学より工学博士号を得る
・1931年(昭和6) 強力永久磁石を発明する
・1932年(昭和7) 服部報公賞を受賞する
・1933年(昭和8) 日本鉄鋼協会香村賞を受賞する
・1934年(昭和9) 強磁性合金を発明して特許を取得し、「MK磁石(MK鋼:MK磁石鋼)」と名付ける
・1937年(昭和12) 紺綬褒章を受章する
・1938年(昭和13) 帝国発明協会恩賜賞を受賞、東京帝国大学教授となる(~1953年)
・1939年(昭和14) 科学審議会委員、自動車技術審議会委員に選任される
・1940年(昭和15) 社団法人 発明協会理事に選任される(~1966年)
・1941年(昭和16) 日本学術振興会小委員会委員長に選任される
・1942年(昭和17) 勲三等瑞宝章を受章、科学技術審議会委員に選任される(~1948年)
・1943年(昭和18) 造幣局研究顧問に選任される
・1944年(昭和19) 戦時研究員に選任される
・1945年(昭和20) 「特殊鋼殊に MK磁石鋼の研究」により帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1947年(昭和22) 社団法人日本鉄鋼協会会長に選任される
・1948年(昭和23) 日本学術会議会員となる
・1949年(昭和24) 日本学士院会員、社団法人日本金属学会会長に選任される
・1950年(昭和25) 藍綬褒章、文化勲章を受章、千葉工業大学理事に就任する
・1951年(昭和26) 文化功労者となり、アメリカでの第一回世界冶金学会議に日本代表として出席する
・1953年(昭和28) 東京大学を退官し、名誉教授、日本金属学会名誉会員となり、フランスでの国際鋳物学会に日本代表として出席する
・1954年(昭和29) 社団法人日本鋳物協会会長、航空技術審議会委員となる
・1955年(昭和30) 日本鉄鋼協会製鉄功労賞を受賞する
・1956年(昭和31) 日本電子力研究所参与、日本原子力委員会参与に選任される(~1975年)
・1957年(昭和32) アメリカ金属学会アルバート・ソーバー功労賞を受賞する
・1958年(昭和33) 日本鉄鋼協会表彰を受賞、工業技術協議会委員、産業合理化審議会委員となる
・1959年(昭和34) 科学技術庁参与、金属材料研究連絡委員会会長となる
・1960年(昭和35) 日本熱処理技術協会会長となる
・1961年(昭和36) 新技術開発事業団開発審議会会長となり、日本金属学会賞を受賞、日本鉄鋼協会名誉会長となる
・1962年(昭和37) イタリア金属学会ルイジ・ロサーナ賞を受賞する
・1964年(昭和39) 発明奨励審議会会長、中小企業近代化審議会専門委員英国鉄鋼協会名誉会員、フランス金属学会名誉会員となる
・1966年(昭和41) 勲一等瑞宝章を受章する
・1967年(昭和42) 日本鉄鋼協会本多記念賞を受賞する
・1973年(昭和48) 第二回日本産業技術大賞を受賞する
・1974年(昭和49) 社団法人発明協会より感謝状を受ける
・1975年(昭和50)11月19日 東京において、82歳でなくなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1985年(昭和60) 工業所有制度百周年記念行事委員会から日本の発明家10傑の1人に選ばれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)京阪電気鉄道株式会社が設立される詳細
1947年(昭和22)「農業協同組合法」が公布される詳細
1956年(昭和31)米原~京都の電化により東海道本線の全線電化が完成する詳細
東京駅~博多駅間の夜行特急あさかぜが運行開始される詳細
1993年(平成5)「環境基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、平成時代の2001年(平成13)に、JR東日本の東京近郊区間でICカード式自動出改札システム「Suica」の使用が開始された日です。
 「Suica」(すいか)は、JR東日本が発行する、定期券やプリペイド式の電子マネーの機能をもつ非接触型ICカード(ICチップが埋め込まれたカード型の乗車券)で、交通系ICカードの一つとされてきました。内蔵のICチップが改札機と電波で情報をやり取りするため、現金をチャージした分だけ、改札で読み取り機にかざすだけで通過でき、JR東日本の駅構内や周辺の商店、自動販売機で、買い物にも使用でき、クレジットカード機能がついたものもあります。
 また、2006年(平成18)には、NTTドコモ、au、ソフトバンクモバイルと提携して、携帯電話でSuicaの機能が利用できる「モバイルSuica」のサービスも開始しました。さらに、2013年(平成25)3月23日から、非接触型ICカード方式を採用している電子マネー機能付き乗車カードの内、札幌圏のKitaca(キタカ)、関東のPASMO(パスモ)、関西・岡山・広島圏のICOCA(イコカ)、関西のPiTaPa(ピタパ)(ショッピングは相互利用対象外)、名古屋圏のmanaca(マナカ)、名古屋・東海圏のTOICA(トイカ)、九州圏のSUGOCA(スゴカ)、九州北部のnimoca(ニモカ)、福岡市のはやかけんの10団体が発行する9種類のカードについて、乗車カード機能及び電子マネー機能を(一部例外を除き)相互に利用可能とした、交通系ICカード全国相互利用サービスが始まっています。
 この名称は、「スイスイ行けるICカード」の意であり、かつ「super urban intelligent card」の略語で、JR東日本の登録商標とされてきました。

〇交通系ICカードとは?

 IC(集積回路)チップが埋め込まれたカード型の乗車券で、自動改札機などの読取り部分に近づけるだけで電車やバスなどの公共交通機関の運賃を自動精算できるものです。2001年(平成13)11月18日に、ソニーの ICカード技術 FeliCaを採用したJR東日本の「Suica」が誕生したのが最初で、使い勝手のよさから急速に普及し、導入する交通事業者が急増しました。
 定期券としての利用も可能で、クレジットカード機能を加えて自動入金できるものや電子マネーカードの機能もあり、駅構内の売店のほか、加盟しているコンビニエンスストアや飲食店、自動販売機などの決済にも利用できるようになっています。2013年(平成25)3月23日より、北海道圏のJR北海道「Kitaca」、首都圏のJR東日本「Suica」・PASMO協議会「PASMO」、名古屋圏のJR東海「TOICA」・名古屋市交通局と名古屋鉄道「manaca」、近畿圏のJR西日本「ICOCA」・スルッとKANSAI協議会「PiTaPa」、九州圏のJR九州「SUGOCA」・西日本鉄道「nimoca」・福岡市交通局「はやかけん」の全国10カードが相互利用サービスを開始しましたが、首都圏の「Suica」と「PASMO」、九州圏の「SUGOCA」と「はやかけん」以外は、原則的にエリアをまたいでの利用ができないままとされてきました。また、「PiTaPa」を除く、9種類のカードは電子マネーとしても相互利用が可能となり、全国20万店以上の加盟店で決済に利用できます。

☆交通系ICカード一覧

・Kitaca(JR北海道)
・Suica(JR東日本ほか)
・PASMO(首都圏民鉄・バス)
・TOICA(JR東海ほか)
・manaca(中京圏民鉄・バス)
・ICOCA(JR西日本・JR四国ほか)
・PiTaPa(近畿圏民鉄・バスほか)
・SUGOCA(JR九州ほか)
・nimoca(九州民鉄・バスほか)
・はやかけん(福岡市地下鉄)
・SAPICA(札幌地区各社)
・icsca(仙台地区各社)
・odeca(JR東日本BRT区間)
・りゅーと(新潟交通)
・PASPY(広島県内各社)
・IruCa(高松琴平電気鉄道ほか)
・エヌタスTカード(長崎自動車グループ)
・くまモンのICカード(熊本県内各社)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1937年(昭和12)「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行される詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
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 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元した日ですが、新暦では12月24日となります。
 養老改元(ようろうかいげん)は、第44代とされる元正天皇(女帝)が、717年(霊亀3年9月)に美濃国(現在の岐阜県)に行幸した折りに、当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山(養老山)の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施しましたが、その時に訪れた美泉に感銘を受け、同年11月17日に詔を出し、元号を「霊亀」から「養老」へ改元したことでした。行幸時に、美泉を観られ、水を飲み体を洗った者が若返ったと知り、「老いを養う」こんなめでたい美泉はないと言われたとされます。
 この美泉は、養老の滝か、あるいは養老神社境内の菊水泉であったと伝えられてきました。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明です。
 以下に、このことを記した『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇元正天皇(げんしょうてんのう)とは?

 第44代とされる天皇です。飛鳥時代の680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、養老への改元、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。 

<代表的な歌>
・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)
 
☆『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条「美濃国の醴泉によって養老と改元する」 

<原文>

癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天賜。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。

<読み下し文>

癸丑[1]。天皇[2]、軒に臨みて[3]、詔して曰はく、「朕、今年九月を以って、美濃国不破[4]行宮[5]に到る。留連[6]すること数日なり。因りて当耆郡[7]多度山[8]の美泉[9]を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し、亦、痛き処を洗ひしに、除き愈えずといふこと無し。朕が躬[10]に在りては、甚だその験有りき。又、就きて[11]飮み浴る者、或は白髪黒に反り、、或は頽髪[12]更に生ひ、或は闇き目明らかになるが如し。自余[13]の痼疾[14]、咸く皆平愈[15]せり。昔聞かく、後漢の光武[16]の時に、醴泉[17]出でたり。これを飮みし者は、痼疾[14]皆愈えたり、と聞く。符瑞書[18]に曰はく、醴泉[17]は美泉[9]なり。以って老を養ふべし。盖し水の精なり。といふ。寔に惟みるに、美泉[9]は即ち大瑞[19]に合へり。朕、庸虚[20]なりと雖も、何ぞ天の賜ひ物に違はむ。天下に大赦[21]して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし。」と。・・ 

【注釈】

[1]癸丑:みずのとうし・きちゅう=干支の組み合わせの50番目で、この場合は11月17日を指す。
[2]天皇:てんのう=この場合は、第44代とされる元正天皇(女帝)を指す。
[3]軒に臨みて:のきにのぞみて=宮殿の軒先まで出る。
[4]美濃国不破:みのこくふわ=現在の岐阜県不破郡のこと。
[5]行宮:あんぐう=天皇の行幸時などに、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のこと。
[6]留連:りゅうれん=たちさりかねて、とどまる。
[7]当耆郡:たぎのこおり・だぎぐん=多芸郡。美濃国(現在の岐阜県美濃地方)にあった郡。
[8]多度山:たどさん=養老山のことか。
[9]美泉:びせん=醴泉(れいせん)。あまい味のある泉。美味な泉。
[10]躬:きゅう=み。からだ。
[11]就きて:つきて=これに関連して。このことに関して。
[12]頽髪:たいはつ=衰えた髪の毛。禿げ髪。
[13]自余:じよ=このほか。その他。
[14]痼疾:こしつ=長くなおらない病気。持病。
[15]平愈:へいゆ=病気がなおること。平復。全快。全治。
[16]後漢の光武:ごかんのこうぶ=後漢王朝を創始した初代皇帝の光武帝(在位25~57年)のこと。
[17]醴泉:れいせん=あまい味のある泉。美味な泉。中国で、太平の世にわき出たという。甘泉。
[18]符瑞書:ふずいしょ=瑞兆に関して書かれた書物
[19]大瑞:だいずい=非常にめでたいことのあるというしるし。
[20]庸虚:ようきょ=凡愚。平凡でおろかなこと。とりたてて利口とはいえないこと。
[21]大赦:たいしゃ=国家に吉凶のあったとき、天皇が八虐以下の故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗の罪を許したこと。

<現代語訳>

11月17日。(元正)天皇は、宮殿の軒先まで出て、詔して言った、「私は、今年9月に、美濃国不破の行宮に至り。立ち去りかねて留まること数日となった。その時に、多芸郡の多度山(養老山)の美味な泉を見て、自ら手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようだった。また、痛い部分を洗うと、痛みが除かれないことはなかった。私の体にとっては、とてもその効能が有った。また、このことに関して、飲んだり浴びたりして治る者、あるいは、白髪が黒くなり、、あるいは、禿げ髪にさらに生えたり、あるいは、見えない眼がみえるよになるといった如くで、その他の長くなおらない病気も、ことごとく皆治ったいう。昔に聞くと、後漢の光武帝の時代に、醴泉が涌きだしたという。これを飮んだ者は、長くなおらない病気も皆治ったという。瑞兆に関して書かれた書物に言うことには、「醴泉は美味な泉である。これによって、老を養うことができる。まさしく水の精霊であろう。」とある。ほんとうに考えてみると、美味な泉はすなわち非常にめでたいことのあるというしるしに違いない。私は、凡愚であると言っても、どうして天の恵みを無視することが出来ようか。国中に大赦を行って、霊亀三年を改めて、養老元年とする。」と。・・ 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「愛国国債」が発行され、郵便局窓口で売り出された日です。
 愛国国債(あいこくこくさい)は、戦時・事変等の際、国民の愛国心に訴え、勧誘して募集に応じさせる公債のことでした。1937年(昭和12)10月12日 に、政府主導のもとに、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。精神運動に力が注がれた国民精神総動員運動も、日中戦争の長期化にともない、愛国国債購入運動、貯蓄報国運動、一戸一品廃物献納運動といった戦時経済への協力運動へとしだいに変化していきました。
 愛国国債購入運動については、ポスターが貼られ、「愛国国債の歌」まで作られ、キャンペーンが行われ、11月16日の「愛国国債」売出し初日には、各地の郵便局に希望者が殺到したと言われています。「胸に愛国 手に国債」「国債は 総力戦の 従軍証」など七五調の戦意高揚スローガンを掲げ、愛国国債の割り当ても隣組の仕事とされ、銃後の庶民にも積極的に購入するよう指導されました。
 そして、これらの公債発行によって、1944(昭和19)年度末において国の債務残高は国内所得の260 %を超える水準にまで至ります。その結果、1945年(昭和20)年の敗戦とその後の急激なインフレーションの進行はその価値を限りなく「紙くず同然」にまで低下させ、多くの国民は経済的な損失を蒙りました。

〇国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。
 翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。
 1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1638年(寛永14)第111代の天皇とされる後西天皇の誕生日(新暦1638年1月1日)詳細
1868年(明治元)詩人・評論家北村透谷の誕生日(新暦12月29日)詳細
1946年(昭和21)「当用漢字表」と「現代かなづかい」が内閣告示される詳細
1962年(昭和37)日本を代表する刑法学者・京都大学総長瀧川幸辰の命日詳細
1972年(昭和47)第17回ユネスコ総会(於:パリ)において「世界遺産条約」が採択される詳細

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