
「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう)は、戦国武将の毛利元就が、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に書いた書状で、「十四箇条の遺訓」とも呼ばれてきました。これは、大内氏を打倒した後もなお、その旧領国周防国で頻発する反毛利氏の一揆を鎮圧するため、再度周防国へ出兵し、富田(現在の山口県周南市)の勝栄寺で書いたもので、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した14箇条で、後世に「三本の矢の教え」の逸話の元になったとされています。
この時点では、まだ毛利氏の統治は不安定で、内外に課題が山積していて、この危機的な状況を三人の子供にはっきりと認識させ、兄弟結束して毛利家維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書とされてきました。この書状は現存していて、これを含む「毛利家文書」(1,593点)として、1973年(昭和48)に国の重要文化財に指定され、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。
以下に、「三子教訓状(14箇条の遺訓)」の現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。
この時点では、まだ毛利氏の統治は不安定で、内外に課題が山積していて、この危機的な状況を三人の子供にはっきりと認識させ、兄弟結束して毛利家維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書とされてきました。この書状は現存していて、これを含む「毛利家文書」(1,593点)として、1973年(昭和48)に国の重要文化財に指定され、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。
以下に、「三子教訓状(14箇条の遺訓)」の現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「三子教訓状(14箇条の遺訓)」(現代語訳) 1557年(弘治3年11月25日)
第一条
何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。
第二条
元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。
第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。
第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。
第五条
この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。
第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。
第七条
亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。
第八条
五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。
第九条
今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。
第十条
私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。
第十一条
私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。
第十二条
十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。
第十三条
私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。
第十四条
これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたいめでたい。
「ウィキペデイア」より