ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年11月

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、「職業安定法」が公布(施行は同年12月1日)された日です。
 「職業安定法」(しょくぎょうあんていほう)は、「日本国憲法」に規定された国民の労働する権利を保障するため、各人に能力に応じた適当な職業に就く機会を与えることによって就職や転職の円滑化を図ることを目的にした法律でした。公共職業安定所その他の職業紹介、職業指導、労働者の募集、労働者供給事業などについて規定しています。
 「雇用保険法」や「職業訓練法(現在の職業能力開発促進法)」とあいまって労働者の雇用保障の実現を目ざすものとなります。労働権(日本国憲法27条)や職業選択の自由(日本国憲法22条)を保障する観点から、求職者に適切な就労の機会を与えることを重視してきました。
 以下に、「職業安定法」(昭和22年法律第141号)の制定当初の条文を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「職業安定法」(昭和22年法律第141号) ※制定当初の条文

第一章 総則

 (法律の目的)

第一条 この法律は、公共に奉仕する公共職業安定所その他の職業安定機関が、関係行政庁又は関係団体の協力を得て、各人に、その有する能力に適当な職業に就く機会を与えることによつて、工業その他の産業に必要な労働力を充足し、以て職業の安定を図るとともに、経済の興隆に寄与することを目的とする。

 (職業選択の自由)

第二条 何人も、公共の福祉に反しない限り、職業を自由に選択することができる。

 (均等待遇)

第三条 何人も、人種、国籍、信条、性別、社会的身分、門地、従前の職業、労働組合の組合員であること等を理由として、職業紹介、職業補導等について、差別的取扱を受けることがない。但し、労働組合法の規定によつて、雇用主と労働組合との間に締結された労働協約に別段の定のある場合は、この限りでない。

 (政府の行う業務)

第四条 政府は、第一条の目的を達成するために、左の業務を行う。
 一 国民の労働力の需要供給の適正な調整を図ること及び国民の労働力を最も有効に発揮させるために必要な計画を樹立すること。
 二 政府以外の者の行う職業紹介、労働者の募集又は労働者供給事業を労働者及び公共の利益を増進するように、指導監督すること。
 三 求職者に対し、迅速に、その能力に適当な職業に就くことをあつ旋すること。
 四 求職者に対し、必要な職業指導又は職業補導を行うこと。
 五 労働力の需要供給に関する情報その他の資料を集め、又はこれを周知させること。
 六 個人、団体、学校又は関係行政庁の協力を得て、公共職業安定所の業務の運営の改善向上を図ること。
 七 失業保険法の規定によつて、給付を受けるべき者について、職業紹介、職業指導又は職業補導を行い、失業保険制度の健全な運用を図ること。

 (定義)

第五条 この法律で職業紹介とは、求人及び求職の申込を受け、求人者と求職者との間における雇用関係の成立をあつ旋することをいう。
 この法律で職業指導とは、職業に就こうとする者に対し、その者に適当な職業の選択を容易にさせ、及びその職業に対する適応性を大ならしめるために必要な実習、指示、助言その他の指導を行うことをいう。
 この法律で職業補導とは、特別の知識技能を要する職業に就こうとする者に対し、その職業に就くことを容易にさせるために必要な知識技能を授けることをいう。
 この法律で労働者の募集とは、労働者を雇用しようとする者が、自ら又は他人をして、労働者となろうとする者に対し、その被用者となることを勧誘することをいう。
 この法律で労働者供給とは、供給契約に基いて労働者を他人に使用させることをいう。

第二章 政府の行う職業紹介、職業指導及び職業補導

 第一節 通則

 (職業安定局及び職業安定事務所)

第六条 労働省職業安定局長は、労働大臣の指揮監督を受け、この法律の施行に関する事項について、職業安定事務所長及び都道府県知事を指揮監督するとともに、公共職業安定所の指揮監督に関する基準の制定、重要産業に対する労働者募集計画の樹立及び実施、失業対策の企画及び実施、労働力の需給供給を調整するための主要労働力需要供給圏の決定、職業指導及び職業補導に関する政策の樹立その他この法律の施行に関し必要な事務を掌り、所属の職員を指揮監督する。
 労働大臣は、必要があると認めるときは、職業安定事務所を設置し、二以上の都道府県にわたる業務の連絡に当らせ、又は公共職業安定所関係の事務に従事する都道府県の職員に対し、その技術に関する事務について、適当な指示若しくは助言をさせることができる。

 (都道府県知事の権限)

第七条 都道府県知事は、労働大臣の指揮監督を受け、この法律の施行に関し、公共職業安定所の業務の連絡統一に関する業務を掌り、所部の職員及び公共職業安定所長を指揮監督する。

 (公共職業安定所)

第八条 政府は、職業紹介、職業指導、職業補導、失業保険その他この法律の目的を達成するために必要な事項を行わせるために、無料で公共に奉仕する公共職業安定所を設置する。
 公共職業安定所は、労働大臣の管理に属する。
 公共職業安定所長は、都道府県知事の指揮監督を受けて、所務を掌理し、所属の職員を指揮監督する。
 公共職業安定所の位置、名称、管轄区域、事務取扱の範囲、職員の定員その他公共職業安定所について必要な事項は、労働大臣がこれを定める。

 (職員の任用その他の人事)

第九条 公共職業安定所その他の職業安定機関の行う業務を効果あらしめるために、国、都道府県又は公共職業安定所において、専らこの法律を施行する業務に従事する官吏その他の職員は、労働大臣の定める資格又は経験を有する者でなければならない。
 前項に規定する官吏その他の職員については、職業安定機関に通ずる一定の基準によつて、勤続年数の計算及び補職、給与その他の人事を行い、並びにその意に反して、職業安定機関以外の機関の職に転じさせることはないものとする。
 第一項に規定する国の官吏その他の職員は、労働大臣がこれを任命し、同項に規定する都道府県及び公共職業安定所の二級官である官吏は、都道府県知事の内申に基いて、労働大臣がこれを任命し、同項に規定する都道府県及び公共職業安定所の三級官である官吏その他の職員は、都道府県知事がこれを任命する。

 (連絡委員)

第十条 公共職業安定所の業務を補助させるために、連絡委員を置く。
 前項の連絡委員は、都道府県知事が、これを命ずる。
 前二項に定めるものの外、連絡委員について必要な事項は、命令でこれを定める。

 (市町村長の職務)

第十一条 市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)は、公共職業安定所長の指示に従い、左の事務を行う。
 一 公共職業安定所に直接申し込むことのできない求人又は求職の申込について、これを公共職業安定所に取り次ぐこと。
 二 求人者又は求職者の身元等の調査に関し、公共職業安定所から照会があつた場合これを調査すること。
 三 公共職業安定所からの求人又は求職に関する通報について、これを周知させること。

 (職業安定委員会)

第十二条 公共職業安定所の業務その他この法律の施行に関する重要事項を審議させるために、中央職業安定委員会、都道府県職業安定委員会及び特別地区職業安定委員会を置く。
 労働大臣は、前項に規定する職業安定委員会の外、関係都道府県知事の申請に基いて必要があると認めるときは、都道府県内の一部を管轄区域とする地区職業安定委員会を置くことができる。
 中央職業安定委員会は、労働大臣の諮問に、特別地区職業安定委員会は、労働大臣又は関係都道府県知事の諮問に、都道府県及び地区職業安定委員会は、関係都道府県知事の諮問に応じて第一項に規定する事項を調査審議する外、必要に応じ、関係行政庁に建議することができる。
 公共職業安定所長は、関係がある特別地区職業安定委員会及び地区職業安定委員会に対し、意見を求めることができる。
 職業安定委員会は、労働者を代表する者、雇用主を代表する者及び公益を代表する者、各々同数でこれを組織する。
 職業安定委員会の委員のうち一名以上は、女子でなければならない。
 中央職業安定委員会の委員は、労働大臣がこれを命じ、都道府県職業安定委員会、特別地区職業安定委員会及び地区職業安定委員会の委員は、関係都道府県知事が推薦した者について、労働大臣がこれを命ずる。
 都道府県職業安定委員会、特別地区職業安定委員会及び地区職業安定委員会は、一箇月に一回以上、中央職業安定委員会は、三箇月に一回以上、これを招集しなければならない。
 職業安定委員会は、必要があると認めるときは、その業務に関する事項について、関係行政庁に、報告を求めることができる。
 職業安定委員会の委員には、旅費、日当及び宿泊料を支給するものとする。
 前項の旅費、日当及び宿泊料の金額は、両議院の労働委員会の合同審査会の議を経て、国会の議決を得なければならない。その金額を変更するときも同様とする。
 前各項に定めるものの外、職業安定委員会について必要な事項は、命令でこれを定める。

 (業務報告の様式)

第十三条 職業安定局長は、都道府県及び公共職業安定所が、この法律の規定によつてなす業務報告の様式を定めなければならない。
 都道府県及び公共職業安定所の業務報告は、前項の様式に従つて、これをしなければならない。

 (労働力の需給に関する調査)

第十四条 職業安定局長は、郡道府県及び公共職業安定所の労働力の需要供給に関する調査報告により、雇用及び失業の状況に関する資料を集め、その研究調査の結果を公表するとともに、研究調査の結果に基いて、労働力の需要供給の調整を図り、以て雇用量を増大することに努めなければならない。

 (職業調査及び産業に対する奉仕)

第十五条 職業安定局長は、労働者の募集、選考、配置転換等に関する問題の処理について、雇用主から指導を求められた場合においては、職業に関する調査の結果に基いて、その処理に必要な資料、方法及び基準を指示し、以て産業の進展に奉仕することに努めなければならない。
 職業安定局長は、公共職業安定所に共通して使用されるべき標準職業名を定め、職業解説及び職業分類表を作成しなければならない。

 第二節 職業紹介

 (求人の申込)

第十六条 公共職業安定所は、いかなる求人の申込も、これを受理しなければならない。但し、その申込の内容が法令に違反するとき、又はその申込の内容をなす賃金、労働時間その他の労働条件が、通常の労働条件と比べて、著しく不適当であると認めるときは、その申込を受理しないことができる。
 公共職業安定所は、必要があると認めるときは、求人者に対し、その求人数、労働条件その他求人の条件について、指導することができる。

 (求職の申込)

第十七条 公共職業安定所は、いかなる求職の申込についても、これを受理しなければならない。但し、その申込の内容が法令に違反するときは、その申込を受理しないことができる。
 公共職業安定所は、必要があると認めるときは、求職者に対し、その就職先、労働条件、就職地その他求職の条件について、指導することができる。
 公共職業安定所は、特殊な業務に対する求職者の適否を決定するため必要があると認めるときは、試問及び技能の検査を行うことができる。

 (労働条件等の明示)

第十八条 求人者は、求人の申込に当り、公共職業安定所に対し、公共職業安定所は、紹介に当り、求職者に対し、その従事すべき業務の内容及び賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。

 (紹介の原則)

第十九条 公共職業安定所は、求職者をその能力に適合する職業に紹介するように努めなければならない。
 公共職業安定所は、求職者に対し、できるだけその住所又は居所の変更を必要としない就職先に、これを紹介するよう努めなければならない。
 公共職業安定所が、その管轄区域内において、求人者の希望する求職者又は求人数を充足することができないときは、近接する公共職業安定所に連絡し、その公共職業安定所において、充足が困難なときは、他の公共職業安定所に連絡しなければならない。
 公共職業安定所間の連絡に関する手続について必要な事項は、命令でこれを定める。

 (労働争議に対する不介入)

第二十条 公共職業安定所は、労働争議に対する中立の立場を維持するため、同盟罷業又は作業所閉鎖の行われている事業所に、求職者を紹介してはならない。
 前項に規定する場合の外、労働委員会が公共職業安定所に対し、事業所において、同盟罷業又は作業所閉鎖に至る虞の多い争議が発生していること及び求職者を無制限に紹介することによつて、当該争議の解決が妨げられることを通報した場合においては、公共職業安定所は当該事業所に対し、求職者を紹介してはならない。但し、当該争議の発生前、通常使用されていた労働者の員数を維持するため必要な限度まで労働者を紹介する場合は、この限りでない。

 (施行規定)

第二十一条 職業紹介の手続その他職業紹介に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

  第三節 職業指導

 (職業指導の原則)

第二十二条 公共職業安定所は、身体に障害のある者、あらたに職業に就こうとする者その他職業に就くについて特別の指導を加えることを必要とする者に対し、職業指導を行わなければならない。

 (適性検査)

第二十三条 公共職業安定所は、必要があると認めるときは、職業指導を受ける者について、適性検査を行うことができる。

 (学校に対する協力)

第二十四条 公共職業安定所は、学校を卒業する者に対し学校の行う職業指導に、協力しなければならない。

 (施行規定)

第二十五条 職業指導の方法その他職業指導に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

 第四節 職業補導

 (職業補導の原則)

第二十六条 職業補導は、労働力の需要供給の状況に応じて、必要な職業種目について行わなければならない。身体に障害のある者その他特別の職業補導を加えることを必要とする者については、その者の能力に適するよう補導の種目及び方法が選定されなければならない。
 職業補導には、共同作業施設及び共同作業特別施設における作業の訓練を含むものとする。

 (職業補導所の設置)

第二十七条 都道府県知事は、前条の職業補導を行うため、職業補導所を設置して、自らこれを経営し、又は公共団体その他の者に、その経営を委託することができる。
 労働大臣は、都道府県において職業補導事業を行うことが必要であると認める場合において、当該都道府県知事がその職業補導事業を行わないときその他特別の事情があるときは、職業補導所を設置して、自らこれを経営し、又は公共団体その他の者に、その経営を委託することができる。

 (補助金等)

第二十八条 政府は、都道府県知事が設置する職業補導施設の経営に要する費用について、その全部又は一部を補助することができる。
 政府は、職業補導所において職業補導を受ける者に対して、手当を支給することができる。

 (職業補導の基準の制定等)

第二十九条 労働大臣は、公共団体その他の者の行う職業補導事業に関し、職業補導所の規模、補導種目、補導内容及び補導期間に関し必要な基準を定め、教科書の編さん、設備又は資材の確保その他職業補導所の経営に関し必要な事項について、これを援助しなければならない。
 公共職業安定所は、前項の職業補導所において補導を受けるべき者の選考及びあつ旋を行わなければならない。

 (都道府県知事の行う援助)

第三十条 都道府県知事は、工場事業場等が、労働基準法に規定する技能者養成以外の作業の訓練計画を実施しようとするときは、これに対し、必要な技術につき、援助をしなければならない。

 (施行規定)

第三十一条 前五条に定めるものの外、職業補導事業に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

第三章 政府以外の者の行う職業紹介、労働者の募集及び労働者供給事業

 第一節 職業紹介

 (有料、営利職業紹介事業)

第三十二条 何人も、有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行つてはならない。但し、美術、音楽、演芸その他特別の技術を必要とする職業に従事する者の職業をあつ旋することを目的とする職業紹介事業について、労働大臣の許可を得て行う場合は、この限りでない。
 労働大臣が、前項の許可をなすには、予め中央職業安定委員会に諮問しなければならない。
 有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行う者は、労働大臣の許可を受けた金額を超える手数料その他の報償金を受けてはならない。
 第一項の許可の有効期間は、一年とする。
 第一項の許可の申請の手続その他有料で又は営利を目的として行う職業紹介事業に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

 (無料職業紹介事業)

第三十三条 無料の職業紹介事業を行わうとする者は、労働大臣の許可を受けなければならない。
 労働大臣が前項の許可をなすには、予め中央職業安定委員会に諮問しなければならない。但し、労働組合法による労働組合に対し許可となす場合には、この限りでない。
 第一項の許可の有効期間は、二年とする。
 第一項の許可の申請手続その他無料の職業紹介事業に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

 (帳簿書類の作成等) 

第三十四条 第十六条から第十八条まで、第十九条第一項及び第二十条の規定は、政府以外の者の行う職業紹介事業について、これを準用する。
 前二条の規定によつて職業紹介事業を行う者は、その業務に関して、命令で定める帳簿書類を作成し、その事務所に備えて置かなければならない。

 第二節 労働者の募集

 (文書による募集)

第三十五条 新聞紙、雑誌その他の刊行物に掲載する広告又は文書の掲出若しくは頒布による労働者の募集は、自由にこれを行うことができる。但し、通常通勤することができる地域以外の地域から、労働者を募集しようとする場合においては、募集を行う者は、募集の内容を、公共職業安定所長に通報しなければならない。

 (文書以外の方法による募集)

第三十六条 労働者を雇用しようとする者が、前条に規定する方法以外の方法で、自ら労働者を募集し、又はその被用者をして労働者を募集させようとするときは、労働大臣の許可を受けなければならない。但し、通常通勤をすることができる地域から、労働者を募集する場合は、この限りでない。

 (委託募集)

第三十七条 労働者を雇用しようとする者が、その被用者以外の者をして労働者の募集を行わせようとするときは、労働大臣の許可を受けなければならない。
 被用者以外の者をして労働者の募集を行わせようとする者が、その被用者以外の者に報償金を与えようとするときは、労働大臣の許可を受けなければならない。

 (募集の制限)

第三十八条 公共職業安定所長は、労働力の需要供給を調整するため必要があるときは、第三十五条の規定による募集に関し、募集地域又は募集時期について、文書による理由を附して制限することができる。
 労働大臣は、前二条の規定によつて労働者の募集を許可する場合においては、労働者の募集を行わうとする者に対し、募集地域、募集人員その他募集方法に関し必要な指示をなすことができる。

 (募集地域の原則)

第三十九条 労働者の募集を行わうとする者は、通常通勤することができる地域から、労働者を募集し、その地域から、労働者を募集することが困難なときは、その地域に近接する地域から、労働者を募集するように努めなければならない。

 (報償受領の禁止)

第四十条 募集を行う者又は第三十六条若しくは第三十七条第一項の規定によつて労働者の募集に従事する者は、募集に応じた労働者から、第三十二条第三項の手数料その他の報償金の外、その募集に関し、いかなる名義でも、財物又は利益を受けてはならない。

 (財物等の給与の禁止)

第四十一条 労働者の募集を行う者は、第三十六条又は第三十七条第一項の規定によつて労働者の募集に従事する者に対し、同条第二項の規定によつて労働大臣の許可を受けた報償金又は実費弁償その他被用者に支給する賃金若しくは給料及びこれらに準ずるものを除いては、財物又は利益を与えてはならない。

 (労働条件等の明示、労働争議に対する不介入)

第四十二条 第十八条及び第二十条の規定は、労働者の募集について、これを準用する。

 (施行規定)

第四十三条 労働者の募集に関する許可の申請手続その他労働者の募集に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

 第三節 労働者供給事業

 (労働者供給事業の禁止)

第四十四条 何人も、第四十五条に規定する場合を除くの外、労働者供給事業を行つてはならない。

 (労働者供給事業の許可)

第四十五条 労働組合法による労働組合が、労働大臣の許可を受けた場合は、無料の労働者供給事業を行うことができる。

 (労働条件等の明示、労働争議に対する不介入)

第四十六条 第十八条及び第二十条の規定は、前条の労働組合の行う労働者供給事業について、これを準用する。

 (施行規定)

第四十七条 労働者供給事業に関する許可の申請手続その他労働者供給事業に関し必要な事項は、命令でこれを定める。

第四章 雑則

 (報告の請求)

第四十八条 行政庁は、必要があると認めるときは、労働者を雇用する者から、労働者の雇入又は離職の状況、賃金その他の労働条件等職業安定に関し必要な報告をさせることができる。

 (検査)

第四十九条 行政庁は、許可を受けて職業紹介事業、労働者の募集又は労働者供給事業を行う者に対し、事業又は業務に関する報告をさせ、当該官吏をして、その事業所又は事務所に臨検し、事業若しくは業務の状況又は帳簿書類その他の物件を検査させることができる。
 前項に規定する検査を行う場合において、当該官吏は、その身分を証明する証票を携帯しなければならない。

 (事業の停止又は許可の取消)

第五十条 労働大臣は、許可を受けて職業紹介事業、労働者の募集又は労働者供給事業を行う者が、法令若しくはこれに基く行政庁の処分に違反し、又はその事業若しくは業務が公益を害する虞があると認めるときは、その事業若しくは業務を停止し、又は許可を取り消すことができる。

 (秘密の厳守)

第五十一条 公共職業安定所の業務又は政府以外の者の行う職業紹介、労働者の募集若しくは労働者供給事業に関して、労働者、雇用主その他の者から知り得た労働者又は雇用主の個人的な情報は、すべて秘密とし、これを他に漏らしてはならない。但し、職業安定局長の指示に基いて公表する場合は、この限りでない。

 (職員の教養訓練)

第五十二条 政府は、その行う職業紹介、職業指導、職業補導その他この法律の施行に関する事務に従事する職員を教養し、及びその訓練を行うため、計画を樹立し、必要な施設を設けなければならない。

 (官庁間の連絡)

第五十三条 政府は、この法律に規定する職業紹介、職業指導、職業補導、労働力の需要供給に関する調査又は労働者の募集について、関係官庁の事務の調整を図り、及び国民の労働力を最も有効に発揮させる方法を協議するため必要があると認めるときは、連絡委員会を設置することができる。

 (雇入方法等の指導)

第五十四条 労働大臣は、労働者の雇入方法を改善し、及び労働力を事業に定着させることによつて生産の能率を向上させることについて、工場事業場等を指導することができる。

 (費用の支出)

第五十五条 政府は、公共職業安定所その他の職業安定機関がこの法律を施行するために必要な経費を支出しなければならない。
 労働大臣は、前項の規定によつて都道府県に配賦すべき同項の経費の配賦基準を定め、都道府県知事の申請により、その基準に基いて、これを配賦しなければならない。
 都道府県知事又は市町村長は、この法律の規定によつて行うその業務の改善向上を図るため、前項の規定によつて配賦を受けた国の経費の外必要な経費を支出することができる。

 (都道府県知事に対する監督)

第五十六条 労働大臣は、都道府県知事のした処分が、この法律若しくはこの法律の規定に基いて発する命令又はこれらに基いてなす処分に違反すると認めるときは、文書を以て、当該都道府県知事にその旨を通告し、且つ、その文書を受領した後三十日以内に当該違反の事項を是正すべきことを命令しなければならない。その文書には、当該都道府県知事の違反事項を明記しなければならない。

第五十七条 前条の命令を受けた都道府県知事が、同条に規定する期間内に当該違反事項を是正しないときは、労働大臣は、当該都道府県を管轄する高等裁判所に対し、当該都道府県知事に違反事項の是正を命ずべきことを請求することができる。
 労働大臣は、高等裁判所に対し、前項の規定による請求をしたときは、直ちに文書を以て、これを当該都府県知事に通告するとともに、高等裁判所に対し、その通告をした日時、場所及び方法を通知しなければならない。
 高等裁判所は、第一項の規定による請求を受けたときは、審理の期日に当事者を呼び出さなければならない。審理の期日は、第一項の規定による請求を受けた日から、二十日以内とする。
 高等裁判所は、労働大臣の請求が理由があると認めるときは、当該都道府県知事に対し、二十日以内に、当該違反事項を是正すべきことを命ずる旨の裁判をしなければならない。

第五十八条 都道府県知事が、前条第四項の裁判に従い違反の事項を是正しないときは、労働大臣は、同条第一項の高等裁判所に対し、その事実の確認の裁判を求めることができる。
 労働大臣は、前項の確認の裁判があつた後、必要があると認めるときは、この法律の規定により、当該都道府内に設置された公共職業安定所その他の職業安定機関を直接に指揮監督するとともに、所属の官吏をして、都道府県知事に代わつて、この法律の規定によりその行うべき職務を行わせることができる。
 前条第四項の裁判を受けた都道府県知事は、同条第一項の高等裁判所に対し、当該裁判に従い違反の事項を是正したことを証明して、前項の規定による労働大臣の権限を消滅させることを請求することができる。

第五十九条 前二条の規定による裁判に対しては、最高裁判所の定めるところにより、上訴することができる。
 前項の規定による上訴は、執行停止の効力を有しない。
 前二条に規定する最高裁判所の審理及び裁判の手続は、最高裁判所がこれを定める。

第六十条 前三条に規定する手続については、労働大臣は、必要があると認めるときは、司法大臣に協力及び援助を求めることができる。

 (権限の委任)

第六十一条 この法律に規定する労働大臣の権限は、命令の定めるところによつて、これを行政庁に委任することができる。

 (船員に対する適用除外)

第六十二条 この法律は、船員法第一条に規定する船員については、これを適用しない。

第五章 罰則

第六十三条 左の各号の一に該当する者は、これを一年以上十年以下の懲役又は二千円以上三万円以下の罰金に処する。
 一 暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者
 二 公衆衛生又は公衆道徳上有害な業務に就かせる目的で、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者

第六十四条 左の各号の一に該当する者は、これを一年以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
 一 第三十二条第一項本文の規定に違反した者又は同項但書の規定に違反して労働大臣の許可を受けず有料で若しくは営利を目的として職業紹介事業を行つた者
 二 第三十三条第一項の規定に違反した者
 三 第三十六条又は第三十七条第一項の規定に違反した者
 四 第四十四条の規定に違反した者
 五 第四十五条の規定に違反して主務大臣の許可を受けず、又は有料で労働者供給事業を行つた者

第六十五条 左の各号の一に該当する者は、これを六箇月以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する。
 一 第三十七条第二項の規定に違反した者
 二 第三十八条の規定による制限又は指示に従わなかつた者
 三 第四十条又は第四十一条の規定に違反した者
 四 虚偽の広告をなし、又は虚偽の条件を呈示して、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者又はこれらに従事した者
 五 労働条件が法令に違反する工場事業場等のために、職業紹介、労働者の募集若しくは労働者の供給を行つた者、又はこれに従事した者

第六十六条 左の各号の一に該当する者は、これを五千円以下の罰金に処する。
 一 第三十四条第二項の帳簿書類を作成せず、若しくは備えて置かなかつた者又は虚偽の帳簿書類を作成した者
 二 第四十八条の規定に違反して、故なく報告をせず、又は虚偽の報告をした者
 三 第四十九条第一項の規定に違反して、故なく報告せず、若しくは虚偽の報告をし、又は検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者

第六十七条 この法律の違反行為をした者が、法人又は人の事業又は業務について、当該法人又は人のために行為をした代理人又は被用者である場合においては、行為者を罰する外、当該法人の代表者又は人が普通の注意を払えば、その違反行為を知ることができるべきときは、その法人の代表者又は人に対しても各本条の罰金刑を科する。
 法人又は人が違反の計画を知り、その防止に必要な措置を講じなかつた場合、違反行為を知り、その是正に必要な措置を講じなかつた場合又は違反を教唆した場合においては、当該法人の代表者又は人も行為者として、これを罰する。

附 則

 この法律は、昭和二十二年十二月一日から、これを施行する。
 この法律施行の際、現に行政庁の許可を受けて、職業紹介事業又は労働者供給事業を行う者は、この法律施行後三箇月を限り、引き続きその事業を行うことができる。
 職業紹介法は、これを廃止する。

(内務・大蔵・司法・文部・運輪・労働・内閣総理大臣署名)

   「衆議院ホームページ」より

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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設した日です。
 同志社大学(どうししゃだいがく)は、明治時代前期の1874年(明治7)に、新島襄がアメリカン・ボード第65年会(バーモント州ラットランド)に出席し、日本でのキリスト教主義大学設立の意志を表明、5千ドルの寄付を得て帰国、翌年に京都府顧問山本覚馬の協力を得て、11月29日に京都において、私塾の同志社英学校として創立されました。1877年(明治10)に同志社女学校、1890年(明治23)にハリス理化学校、1891年(明治24)に政法学校と開校されていき、1904年(明治37)には、「専門学校令」により、政法学校・ハリス理化学校を廃止・統合した同志社専門学校と同志社神学校として認可されます。
 1912年(明治45)に両校が合併して同志社大学と改称され、1920年(大正9)には、「大学令」による同志社大学となり、予科、法学部、文学部、大学院を設置されました。太平洋戦争後の1948年(昭和23)に、新制の同志社大学(神学部・文学部・法学部・経済学部の4学部)として開学され、翌年には、商学部と工学部の2学部が増設されます。
 1950年(昭和25)に大学院修士課程と短期大学部が設置(1954年に発展的に解消)され、1953年(昭和28)には、大学院博士課程(神・文・法・経の各学研究科)に発展しました。1986年(昭和61)に京田辺キャンパスが開設され、2004年(平成16)に政策学部、2005年(平成17)に文学部を改組して、社会学部、文化情報学部、2008年(平成20)に生命医科学部、スポーツ健康科学部、工学部が理工学部に改称、2009年(平成21)に心理学部、2011年(平成23)にグローバル・コミュニケーション学部、2012年(平成24)に脳科学研究科、2013年(平成25)にグローバル地域文化学部が開設されて発展していきます。
 2022年(令和4)現在では、神学部、文学部、社会学部、法学部、経済学部、商学部、政策学部、文化情報学部、理工学部、生命医科学部、スポーツ健康科学部、心理学部、グローバル・コミュニケーション学部,グローバル地域文化学部の14学部と、神学、文学、社会学、法学、経済学、商学、理工学、総合政策科学、文化情報学、司法、ビジネス、生命医科学、スポーツ健康科学、心理学、グローバル・スタディーズ、脳科学の16研究科からなる大学院を持ち、人文科学研究所,アメリカ研究所,理工学研究所などを付設する総合大学となりました。

〇同志社大学関係略年表

・1874年(明治7)10月 新島襄がアメリカン・ボード第65年会(バーモント州ラットランド)に出席し、日本でのキリスト教主義大学設立の意志を表明、5千ドルの寄付を得る
・1875年(明治8)11月29日 新島襄らによって、私塾の同志社英学校として創立される
・1876年(明治9)10月 女子塾が開設される
・1877年(明治10)4月 同志社分校女紅場を開設される
・1877年(明治10)9月 同志社女学校と改称される
・1883年(明治16)2月 「同志社社則」4ヵ条を制定し、社員を5名(新島、山本、横井時雄、松山高吉、中村栄助)とする
・1890年(明治23)9月 ハリス理化学校が開校される
・1891年(明治24)9月 政法学校が開校される
・1893年(明治26) 徽章を制定する(正三角形を3つ寄せたマークは、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの)
・1904年(明治37)4月 「専門学校令」により、政法学校・ハリス理化学校を廃止・統合した同志社専門学校と同志社神学校が認可される
・1912年(明治45)4月 同志社専門学校と同志社神学校を合併して同志社大学と改称される
・1920年(大正9) 「大学令」による同志社大学となり、予科、法学部、文学部、大学院を設置される
・1925年(大正14) 京都学連事件が起こる
・1937年(昭和12)2月 「同志社教育綱領」が発表される
・1948年(昭和23) 神学部・文学部・法学部・経済学部の4学部を開設して、新制の同志社大学が開学される
・1949年(昭和24) 商学部と工学部の2学部が増設される
・1950年(昭和25) 大学院修士課程と短期大学部が設置される
・1953年(昭和28)4月 大学院博士課程(神・文・法・経の各学研究科)が設置される
・1954年(昭和29) 短期大学部が発展的に解消される
・1958年(昭和33)3月 ロックフェラー財団の援助によりアメリカ研究所が開設される
・1975年(昭和50)11月29日 同志社創立100周年記念式を国立京都国際会館にて挙行される
・1986年(昭和61) 京田辺キャンパスが開設される
・2004年(平成16) 政策学部が開設する
・2005年(平成17) 文学部を改組して、社会学部、文化情報学部が増設される
・2008年(平成20) 生命医科学部、スポーツ健康科学部が新設され、工学部が理工学部に改称される
・2009年(平成21) 心理学部を設置される
・2011年(平成23) グローバル・コミュニケーション学部が設置される
・2012年(平成24) 脳科学研究科が新設される
・2013年(平成25) グローバル地域文化学部が開設される

☆新島 襄(にいじま じょう)とは?

 明治時代前期に活躍した教育者・キリスト教指導者です。江戸時代後期の1843年(天保14年1月14日)に、江戸神田の安中藩江戸屋敷で、安中藩士の父新島民治、母とみの長男として生まれましたが、幼名を七五三太(しめた)といいました。
 1856年(安政3)から蘭学を学び始め、1860年(万延元)には、軍艦操練所に入り、航海実習に従事します。欧米文明とその宗教に感銘して脱藩後、1864年(元治元)に、国禁を犯してアメリカ船で箱館から海外に密航しました。
 アメリカ合衆国に渡り、フィリップス・アカデミー英語科を経て、1870年(明治3)にアーモスト大学を卒業し、日本人としてはじめて学士号(理学士)を取得します。その後、アンドーバー神学校に入り、1872年(明治5)に訪米した岩倉遣外使節団の案内役として随行し、欧米の教育事情を視察しました。
 1874年(明治7)に神学校を卒業後、ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国します。1875年(明治8)に、京都府顧問山本覚馬らの協力を得て、同志社英学校を京都に創設しました。
 1877年(明治10)には、同志社女学校も設立すると共に、国内の伝道にも力を入れます。1884年(明治17)4月から翌年12月まで欧米を巡歴し、帰国後、仙台の東華学校や京都看病婦学校を開校、同志社病院の開院にも携わりました。
 しかし、1890年(明治23)1月23日に大学設立運動の途上、神奈川県大磯において、46歳で客死します。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保6年に、幕末の志士・政治家井上馨の生まれた日ですが、新暦では1836年1月16日となります。
 井上馨(いのうえ かおる)は、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれましたが、幼名は勇吉(ゆうきち)と言いました。1851年(嘉永4)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学、1855年(安政2)には、長州藩士志道慎平の養嗣子(のち井上家に復帰)となります。
 1860年(万延元)に藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜りましたが、尊王攘夷運動に参加し、1862年(文久2)には、高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃しました。1863年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟り、1864年(元治元)には、下関砲撃事件を聞いて急遽帰国し、通訳として講和に参加します。
 1866年(慶応2)に高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加、薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器、外国船の購入などに携わりました。1868年(明治元)に新政府の成立に伴い、長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事するなどし、翌年には、大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力します。
 1871年(明治4)に大蔵大輔に就任したものの、1873年(明治6)に、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、辞職しました。1875年(明治8)の大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島事件の特命副全権弁理大臣を務め、1876年(明治9)に「日朝修好条規」の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張します。
 1878年(明治11)に帰国して、参議兼工部卿となり、翌年には外務卿に転じました。1882年(明治15)に壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、1883年(明治16)には、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張ります。
 1884年(明治17)の「華族令」で伯爵となり、翌年には、内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となりました。1887年(明治20)に本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任、翌年の黒田内閣で農商務大臣となりましたが、山県有朋内閣成立とともに辞職しています。
 1892年(明治25)の第2次伊藤内閣で内務大臣となったものの、1894年(明治27)には辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出しました。1898年(明治31)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣となり、地租増徴をねらったものの、失敗します。
 財界、特に三井との関係が深く、1900年(明治33)制定の「三井家憲」において三井家終身顧問としての地位を明記されるなど、「三井の番頭」とも言われました。1907年(明治40)には侯爵ともなりましたが、1915年(大正4)9月1日に、静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなっています。

〇井上馨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年(天保6年11月28日) 周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学する
・1855年(安政2年) 長州藩士志道慎平の養嗣子となる
・1860年(万延元年) 藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜る
・1862年(文久2年) 高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃する
・1863年(文久3年) 伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟る
・1864年(元治元年) 下関砲撃事件を聞いて帰国し、通訳として講和に参加する
・1865年(慶応元年) 攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れる
・1866年(慶応2年) 高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加する
・1868年(明治元年) 長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事する
・1869年(明治2年) 大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力する
・1869年(明治2年11月10日) 従五位となる
・1869年(明治2年12月13日) 従四位となる
・1870年(明治3年8月) 大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚する
・1871年(明治4年) 大蔵大輔に就任する
・1873年(明治6年)5月 予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、大蔵大輔を辞職する
・1875年(明治8年) 大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣を務める
・1876年(明治9年) 江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張する
・1878年(明治11年) 帰国して、参議兼工部卿(こうぶきょう)となる
・1879年(明治12年) 外務卿となる
・1879年(明治12年)2月10日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放する(明治十四年の政変)
・1882年(明治15年) 壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避する
・1883年(明治16年) 鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張る
・1884年(明治17年) 甲申(こうしん)政変後の特派全権大使となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」で伯爵となる
・1885年(明治18年) 内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる
・1885年(明治18年)4月6日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツを受章する
・1885年(明治18年)4月14日 ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロスを受章する
・1885年(明治18年)5月8日 ロシア帝国:白鷲大綬章を受章する
・1886年(明治19年)2月3日 波斯国:獅子太陽第一等勲章を受章する
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1887年(明治20年) 本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任する
・1888年(明治21年) 黒田内閣で農商務大臣となるが、山県有朋内閣成立とともに辞職する
・1888年(明治21年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1892年(明治25年)8月 第2次伊藤内閣で内務大臣となる
・1892年(明治25年)11月10日 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章を受章する
・1894年(明治27年)10月 内務大臣を辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出す
・1895年(明治28年)10月7日 旭日桐花大綬章を受章する
・1896年(明治29年)6月20日 正二位となる
・1898年(明治31年)1月 第3次伊藤内閣で大蔵大臣となる
・1899年(明治32年) 自ら有楽会を組織し、有力財界人との懇談の場を設ける
・1900年(明治33年) 制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記される
・1902年(明治35年)6月21日 大韓帝国:李花大綬章を受章する
・1903年(明治36年) 斬奸状を送られる危険な立場に置かれる
・1904年(明治37年) 日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集する
・1906年(明治39年)4月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 侯爵となり、貴族院議員章を受章する
・1908年(明治41年)3月 三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席する
・1911年(明治44年)5月10日 維新史料編纂会総裁に任命される
・1912年(明治45年) 辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助する
・1915年(大正4年)9月1日 静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなり、従一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、長崎県の三菱石炭鉱業高島砿業所(高島炭鉱)が閉山した日です。
 高島炭鉱(たかしまたんこう)は、長崎県長崎市高島(旧西彼杵郡高島町)にあった海底炭田でした。始まりは、江戸時代の元禄~宝永年間(1688~1711年)に、平戸の領民五平太が野焼きの際に石炭を発見、たぬき掘りで採炭がされ、付近の塩田に供給したと伝えられています。
 幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、佐賀藩とトーマス・グラバーの共同経営によって、深さ43mの蒸気機関による洋式竪坑を掘削し、坑内にレールを敷設し炭車を使用した(北渓井坑)、日本最初の洋式採炭が行われました。1873年(明治6)の「日本坑法」公布に伴い 翌年1月に官営となり工部省が管理、同年12月には後藤象二郎へ払い下げられます。
 1881年(明治14)に政商岩崎弥太郎(三菱)に譲渡されましたが、「納屋制度」によって、経営者は坑夫を人身的隷属関係において支配し、納屋頭の坑夫への私的制裁は惨状を極めました。そのあまりに過酷な状況は、1888年(明治21)に雑誌『日本人』(6~14号)に、松岡好一の自らの体験に基づき、「高島炭鉱の惨状」の記事として掲載され、全国的に知られることとなります。
 また、労働者によるたびたびの暴動などの結果、高島炭鉱における「納屋制度」は1897年(明治30)に廃止されました。1899年(明治32)に蠣瀬(かきせ)立坑(深さ168m)が完成しましたが、1906年(明治39)には、ここでガス爆発によって死者307人の犠牲者を出します。
 その後、1907年(明治40)に二子斜坑、1965年(昭和40)には二子立坑(深さ966m)を完成、年々海底深くに坑道を掘削し、日本有数の海底炭田となりました。1966年(昭和41)には出炭量154万トン、従業員3,000人とピークに達し、高カロリーの弱粘結炭として、ガス・コークス用に鉄鋼業界へ、また一般炭として火力発電所用に供給されています。
 しかし、石炭から石油へのエネルギー転換や海外からの安い輸入炭に圧迫され、全国的に斜陽化が進んで、1986年(昭和61)11月27日に閉山へと至りました。その跡は、2014年(平成26)に国指定史跡となり、翌年には、竪坑跡が高島炭坑として世界遺産(文化遺産)の「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして登録されています。 
 
☆高島炭坑の惨状(抄文 1888年(明治21)雑誌「日本人」六号 

高島炭礦[1]の惨状[2]

坑夫の就業時間は十二時間にして三千の坑夫を大別して昼の方夜の方となし、昼の方は午前四時に坑内に下り、午後四時に納屋[3]に帰り、夜の方は午後四時に坑内に下り翌日午前四時に納屋[3]に帰る。其坑夫が十二時間執る処の労働苦役は、先ず第一に坑内一里[4]二里の所に至り、背丈も伸びぬ炭層間を屈歩曲立[5]し、鶴嘴[6]、地雷[7]、火棒等を以て一塊二塊と採炭し、之を竹畚[8]に盛り、重量十五、六貫[9]乃至二十貫[9]なるを這へるが如く忍が如く一町[10]二町と担ひつつ蒸気軌道[11]に運ぶなり。
(中略)
過度[12]の労力に堪へずして休憩を請ひ、或は納屋頭[13]、人操[14]の意に逆ふ者ある時は、見懲[15]と称、其坑夫を後手に縛し梁上[16]に釣り揚げ、足と地と咫尺[17]するに於て打撃を加へ、他の衆坑夫をして之を観視[18]せしむ。

  雑誌「日本人」六号より

【注釈】

[1]高島炭礦:たかしまたんこう=長崎県の長崎港西南の高島にある炭鉱。
[2]惨状:さんじょう=見るにたえない、ひどく痛々しいありさま。
[3]納屋:なや=鉱山や土木・建築工事の現場付近に設けられた労働者の合宿所。飯場。鉱員宿舎。
[4]一里:いちり=尺貫法の距離の単位で、3.927km。
[5]屈歩曲立:くっぽきょくりつ=かがんで立つこと。
[6]鶴嘴:つるはし=堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。鶴の嘴状に両先端を尖らせ、木の柄を着けたもの。
[7]地雷:じらい=地中または地表直下に埋設し、爆発するように装置した爆薬。
[8]竹畚:ふご=竹を割って編んだかご。竹のもっこ。
[9]貫:かん=尺貫法の目方の単位で、一貫は3.75kg。
[10]一町:いっちょう=尺貫法の距離の単位で、約109m。
[11]蒸気軌道:じょうききどう=蒸気機関車を走らせるために敷設した構造物からなる道。
[12]過度:かど=度を過ごすこと。程度が過ぎること。
[13]納屋頭:なやがしら=炭鉱などで行なわれた前近代的な労務管理方式(納屋制度)の請負業者。
[14]人操:ひとくり=人夫頭。労働者の頭。
[15]見懲:みごらし=ある人をこらしめて、他の人のいましめとすること。みせしめ。
[16]梁上:りょうじょう=建物の梁(はり)の上。
[17]咫尺:しせき=尺度の短いこと。近い距離。
[18]観視:かんし=見せること。

<現代語訳> 

高島炭坑のひどく痛々しいありさま

炭坑夫の就業時間は12時間であって、3,000人の炭坑夫を大別して昼の部と夜の部とし、昼の部は午前4時に坑内に下り、午後4時に炭坑夫宿舎に帰り、夜の部は午後4時に坑内に下り、翌日午前4時に炭坑夫宿舎に帰る。その炭坑夫が12時間就業するところの労働苦役は、まず第一に炭坑内の一里(約4km)二里(約8km)の所に至って、背の高さもない石炭層の間をかがんで立って、つるはし、地雷、火棒などを用いて、一塊二塊と採炭し、これを竹のもっこに盛り、重量十五、六貫(約60kg)ないし二十貫(約75kg)となるものをはうようにゆっくりと一町(約109m)二町(約218m)と担いで、蒸気機関車の走る軌道まで運ぶのである。
(中略)
限度を超えた労力に耐え切れないで休憩を求め、あるいは請負業者、人夫頭の意に逆らう者がある時は、みせしめと称して、その炭坑夫を後手に縛って建物の梁の上に釣り揚げ、足が地面に近い所において打撃を加え、他の大勢の炭坑夫にこれを見させる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1829年(文政12)歌舞伎作者鶴屋南北(四代目)の亡くなった日ですが、新暦では12月22日詳細
1886年(明治19)洋画家藤田嗣治の誕生日詳細
1890年(明治23)小説家・翻訳家・仏文学者・児童文学者豊島与志雄の誕生日詳細
1942年(昭和17)戦時標語である「国民決意の標語」懸賞募集の入選と佳作が紙面上に発表される詳細
1943年(昭和18)カイロ会談で協議の上、米・英・中国3ヶ国政府首脳によりカイロ宣言が調印される詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年〈明治15〉に、洋画家・小説家・随筆家有島生馬の生まれた日です。
 有島生馬(ありしま いくま〉は、神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれましたが、本名は壬生馬(みぶま)と言いました。麹町小学校を経て、1895年(明治28)に学習院に転入学し、中学科に進み、文学書に親しみ、志賀直哉らと交流します。
 1900年(明治33)に肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養しましたが、翌年には、東京外国語学校伊太利語科に入学しました。1904年(明治37)に卒業し、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓します。
 1905年(明治38)からヨーロッパに留学、イタリアでデュランに師事、ローマ美術学校に学び、ついでパリでラファエル・コランに師事しました。1910年(明治43)に帰国、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「羅馬にて」、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表して西洋美術の紹介につとめ、特にセザンヌの紹介者として大きな影響を画壇に与えます。
 1911年(明治44)に「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選、1913年(大正2)には、最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬としました。1914年(大正3)に同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品、1915年(大正4)には、『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表します。
 1920年(大正9)にエミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版、翌年に与謝野晶子、石井柏亭らによって文化学院が創立されると、講師として教壇に立ちました。1928年(昭和3)に夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与され、1935年(昭和10)には、松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長にも就任します。
 1936年(昭和11)に安井、石井、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らと一水会を結成、1937年(昭和12)には、「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となりました。1945年(昭和20)に空襲が激しくなり、長野県に疎開したものの、太平洋戦争後は、1956年(昭和31)に神奈川県立近代美術館、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展を開催、1958年(昭和33)には、社団法人日展が創立され常任理事となります。
 1964年(昭和39)に文化功労者に選ばれ、1965年(昭和40)には、勲三等旭日中綬賞を受賞しましたが、1974年(昭和49)9月15日に、神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなりました。尚、兄は小説家の有島武郎、弟は里見弴です。

〇有島生馬の主要な作品

<文学>
・小説『蝙蝠(こうもり)の如(ごと)く』(1910~1911年)
・小説『ボーヂェの森』(1911年)
・『南欧の日』(1916年)
・『暴君へ』(1917年)
・小説『嘘(うそ)の果(はて)』(1919年)
・随筆集『美術の秋』(1920年)
・エミール・ベルナールの翻訳『回想のセザンヌ』(1920年)
・『死ぬほど』(1920年)
・随想集『片方の心』(1924年)

<美術>
・『パイプを吸う男』(1908年)
・『ケーベル博士像』(1910年)
・『鬼』(1914年)東京都美術館蔵
・『蚊帳』(1917年)
・『熊谷守一(くまがいもりかず)肖像』
・『大震記念』
・『微笑』

☆有島生馬関係略年表

・1882年(明治15)11月26日 神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれる
・1888年(明治21) 横浜師範学校附属老松小学校に入学する
・1891年(明治24) 父が国債局長となり東京に移転、麹町小学校に転校する
・1893年(明治26)5月 父が退官し、鎌倉に転居する
・1894年(明治27)11月 東京に転居する
・1895年(明治28) 学習院に転入学し、中学科に進む
・1897年(明治30) この頃から文学書に親しみ、徳富蘇峰、徳富蘆花の著作、島崎藤村の詩などを愛読する
・1900年(明治33) 肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養する
・1901年(明治34) 東京外国語学校伊太利語科に入学する
・1903年(明治36) 友人らと妙義山から小諸に旅行し、島崎藤村を訪ねる
・1904年(明治37) 東京外国語学校伊太利語科を卒業、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓する
・1905年(明治38) ドイツ船ゲネラル・ローン号に乗船して横浜を出帆しイタリアへ向かい、アカデミー・ド・フランスに入学、カロリュス・デュランの指導を受け、国立ローマ美術学校に移る
・1906年(明治39) イタリア各地を旅行、アメリカ留学中の長兄武郎をナポリで迎え、イタリアからドイツ、オランダ、ベルギーを旅行し、パリへ入る
・1907年(明治40) イギリスへ旅行、武郎と別れ再びパリへ帰り、グラン・ショミエールに通い、ラファエル・コラン、プリネーなどの指導を受ける
・1908年(明治41) アンジャベンについて半年ほど彫刻を学ぶ
・1909年(明治42) 南フランスやイタリアを旅行、パリでは藤島武二、荻原守衛、高村光太郎、らと交友する
・1910年(明治43) マルセイユを発して帰国、麹町に住み、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表、原田信子と結婚、「ケーベル博士像」を制作する
・1911年(明治44) 長女暁子生まれ、北海道に旅行、「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選する
・1912年(明治45) 白樺社主催により文展で落選した作品による落選展覧会を赤坂三会堂において開催する
・1913年(大正2) 洛陽社より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬とする
・1914年(大正3) 同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品する
・1915年(大正4) 『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表、朝鮮、満州、天津、北京を旅行、第2回二科展「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」を出品する
・1916年(大正5) 第二短篇小説集『南欧の日』が出版されたが、風俗壤乱のかどで発売禁止となり、部分的に、改変して出版、第3回二科展「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品、父・武が亡くなる
・1917年(大正6) 熱海で「山極医学博士像」を描く、小説「父の死」(新潮)、第4回二科展「蚊帳」「釣」「カナリヤ」「金魚」出品、第三短篇集『暴君へ』を出版する
・1918年(大正7) 第四『短篇集』を出版する
・1920年(大正9) エミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版する
・1921年(大正10) 画家西村伊作や歌人与謝野晶子、画家石井柏亭らによって文化学院が創立され、講師として教壇に立つ
・1928年(昭和3) 夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与される
・1935年(昭和10) 松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長に就任する
・1936年(昭和11) 二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らを加えて一水会を結成する
・1937年(昭和12) 「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となり、一水会第1回展を開催する
・1945年(昭和20) 空襲が激しくなり、長野県に疎開する
・1956年(昭和31) 神奈川県立近代美術館において回顧展、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展開催される
・1958年(昭和33) 社団法人日展創立され常任理事となる
・1964年(昭和39) ローマの日本文化会館長、呉茂一の招きで渡欧、文化功労者に選ばれる
・1965年(昭和40) 勲三等旭日中綬賞を受賞する
・1974年(昭和49)9月15日 神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなり 24日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で、一水会、二科会の合同葬として葬儀が行われる
・1982年(昭和57) 有島生馬の鎌倉の家が、長野市信州新町上条に移築され、「有島生馬記念館」として開館される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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