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 今日は、江戸時代後期の天保6年に、幕末の志士・政治家井上馨の生まれた日ですが、新暦では1836年1月16日となります。
 井上馨(いのうえ かおる)は、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれましたが、幼名は勇吉(ゆうきち)と言いました。1851年(嘉永4)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学、1855年(安政2)には、長州藩士志道慎平の養嗣子(のち井上家に復帰)となります。
 1860年(万延元)に藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜りましたが、尊王攘夷運動に参加し、1862年(文久2)には、高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃しました。1863年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟り、1864年(元治元)には、下関砲撃事件を聞いて急遽帰国し、通訳として講和に参加します。
 1866年(慶応2)に高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加、薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器、外国船の購入などに携わりました。1868年(明治元)に新政府の成立に伴い、長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事するなどし、翌年には、大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力します。
 1871年(明治4)に大蔵大輔に就任したものの、1873年(明治6)に、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、辞職しました。1875年(明治8)の大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島事件の特命副全権弁理大臣を務め、1876年(明治9)に「日朝修好条規」の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張します。
 1878年(明治11)に帰国して、参議兼工部卿となり、翌年には外務卿に転じました。1882年(明治15)に壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、1883年(明治16)には、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張ります。
 1884年(明治17)の「華族令」で伯爵となり、翌年には、内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となりました。1887年(明治20)に本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任、翌年の黒田内閣で農商務大臣となりましたが、山県有朋内閣成立とともに辞職しています。
 1892年(明治25)の第2次伊藤内閣で内務大臣となったものの、1894年(明治27)には辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出しました。1898年(明治31)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣となり、地租増徴をねらったものの、失敗します。
 財界、特に三井との関係が深く、1900年(明治33)制定の「三井家憲」において三井家終身顧問としての地位を明記されるなど、「三井の番頭」とも言われました。1907年(明治40)には侯爵ともなりましたが、1915年(大正4)9月1日に、静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなっています。

〇井上馨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年(天保6年11月28日) 周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学する
・1855年(安政2年) 長州藩士志道慎平の養嗣子となる
・1860年(万延元年) 藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜る
・1862年(文久2年) 高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃する
・1863年(文久3年) 伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟る
・1864年(元治元年) 下関砲撃事件を聞いて帰国し、通訳として講和に参加する
・1865年(慶応元年) 攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れる
・1866年(慶応2年) 高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加する
・1868年(明治元年) 長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事する
・1869年(明治2年) 大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力する
・1869年(明治2年11月10日) 従五位となる
・1869年(明治2年12月13日) 従四位となる
・1870年(明治3年8月) 大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚する
・1871年(明治4年) 大蔵大輔に就任する
・1873年(明治6年)5月 予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、大蔵大輔を辞職する
・1875年(明治8年) 大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣を務める
・1876年(明治9年) 江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張する
・1878年(明治11年) 帰国して、参議兼工部卿(こうぶきょう)となる
・1879年(明治12年) 外務卿となる
・1879年(明治12年)2月10日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放する(明治十四年の政変)
・1882年(明治15年) 壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避する
・1883年(明治16年) 鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張る
・1884年(明治17年) 甲申(こうしん)政変後の特派全権大使となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」で伯爵となる
・1885年(明治18年) 内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる
・1885年(明治18年)4月6日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツを受章する
・1885年(明治18年)4月14日 ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロスを受章する
・1885年(明治18年)5月8日 ロシア帝国:白鷲大綬章を受章する
・1886年(明治19年)2月3日 波斯国:獅子太陽第一等勲章を受章する
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1887年(明治20年) 本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任する
・1888年(明治21年) 黒田内閣で農商務大臣となるが、山県有朋内閣成立とともに辞職する
・1888年(明治21年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1892年(明治25年)8月 第2次伊藤内閣で内務大臣となる
・1892年(明治25年)11月10日 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章を受章する
・1894年(明治27年)10月 内務大臣を辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出す
・1895年(明治28年)10月7日 旭日桐花大綬章を受章する
・1896年(明治29年)6月20日 正二位となる
・1898年(明治31年)1月 第3次伊藤内閣で大蔵大臣となる
・1899年(明治32年) 自ら有楽会を組織し、有力財界人との懇談の場を設ける
・1900年(明治33年) 制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記される
・1902年(明治35年)6月21日 大韓帝国:李花大綬章を受章する
・1903年(明治36年) 斬奸状を送られる危険な立場に置かれる
・1904年(明治37年) 日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集する
・1906年(明治39年)4月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 侯爵となり、貴族院議員章を受章する
・1908年(明治41年)3月 三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席する
・1911年(明治44年)5月10日 維新史料編纂会総裁に任命される
・1912年(明治45年) 辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助する
・1915年(大正4年)9月1日 静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなり、従一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細