今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場した日です。
歌舞伎座(かぶきざ)は、演劇改良の実現を目的として東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に設立され、近代的な歌舞伎専用の劇場となりました。1889年(明治22)11月21日に、ジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、演劇改良運動の流れを受けて開設されます。
外観は洋風、内部は日本風3階建ての檜造り、定員1,824名、舞台間口13間(約23.63m)、奥行16間(約28.96m)、回り舞台直径9間(約16.29m)と 7間(約12.67m)の蛇の目回し、本花道5尺(約1.52m)の機構を持ち、規模・設備共に、日本一の偉容を誇りました。しかし、経営に失敗し、何人かの人手に渡ったあと、1913年(大正2)に、松竹の大谷竹次郎が経営を握り、翌年には、松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行のすべてを担当するようになります。
ところが、1921年(大正10)に漏電により焼失、再建途上の1923年(大正12)に、建物躯体が完成したところで関東大震災に遭って被害を受け、工事は中断、翌年に再建工事を再開し、竣工しました。これによって、良朝の上品な美しさと桃山様式を併せたデザインの新劇場になり、舞台間口(大尽通り)10間5尺(約19.69m)、桟敷のほかはすべて椅子席の4階建てとなります。
さらに、太平洋戦争下の1945年(昭和20)5月の空襲で焼失し、外郭だけが残りました。1949年(昭和24)に、大谷竹次郎により新たに「株式会社歌舞伎座」が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行ない、翌年に竣工します。
その後、2008年(平成20)に老朽化による建て替えが正式に発表され、2010年(平成22)に閉場式が行われて建物は解体、2013年(平成25)に、オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了しました。新しい外観・内装などは、それまでの伝統的な意匠を踏襲し、座席数1,808、舞台間口15間余(約27.573m)、奥行11間余(約20.60m)、高さ3間半(約6.363m)、回り舞台直径10間(約18.18m)、花道10間(約18.18m)となります。
外観は洋風、内部は日本風3階建ての檜造り、定員1,824名、舞台間口13間(約23.63m)、奥行16間(約28.96m)、回り舞台直径9間(約16.29m)と 7間(約12.67m)の蛇の目回し、本花道5尺(約1.52m)の機構を持ち、規模・設備共に、日本一の偉容を誇りました。しかし、経営に失敗し、何人かの人手に渡ったあと、1913年(大正2)に、松竹の大谷竹次郎が経営を握り、翌年には、松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行のすべてを担当するようになります。
ところが、1921年(大正10)に漏電により焼失、再建途上の1923年(大正12)に、建物躯体が完成したところで関東大震災に遭って被害を受け、工事は中断、翌年に再建工事を再開し、竣工しました。これによって、良朝の上品な美しさと桃山様式を併せたデザインの新劇場になり、舞台間口(大尽通り)10間5尺(約19.69m)、桟敷のほかはすべて椅子席の4階建てとなります。
さらに、太平洋戦争下の1945年(昭和20)5月の空襲で焼失し、外郭だけが残りました。1949年(昭和24)に、大谷竹次郎により新たに「株式会社歌舞伎座」が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行ない、翌年に竣工します。
その後、2008年(平成20)に老朽化による建て替えが正式に発表され、2010年(平成22)に閉場式が行われて建物は解体、2013年(平成25)に、オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了しました。新しい外観・内装などは、それまでの伝統的な意匠を踏襲し、座席数1,808、舞台間口15間余(約27.573m)、奥行11間余(約20.60m)、高さ3間半(約6.363m)、回り舞台直径10間(約18.18m)、花道10間(約18.18m)となります。
〇歌舞伎座関係略年表
・1889年(明治22)11月21日 ジャーナリストの福地源一郎(福地桜痴)と金融業者の千葉勝五郎の共同経営で、東京市京橋区木挽町に開設される
・1890年(明治23) 福地源一郎は経営に失敗し、自身は座付作者にとどまり、経営は12世守田勘弥に移る
・1896年(明治29)3月 歌舞伎座株式会社として株式組織化、皆川四郎が社長、井上竹次郎が副社長に就任する
・1907年(明治40) 大河内輝剛が社長を務めていた春に、内外を修繕改築する
・1911年(明治44) 開場した帝国劇場に対抗するため劇場の純和風化改修工事を行って再開する
・1913年(大正2) 田村成義が病気のためやむなく手を引き、松竹の大谷竹次郎が経営を握る
・1914年(大正3) 松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行のすべてを担当するようになる
・1921年(大正10)10月 漏電により焼失する
・1923年(大正12)9月 再建途上で、建物躯体が完成したところで関東大震災に遭い、積み上げてあった内装用の桧材が全焼、工事は中断する
・1924年(大正13) 再建工事を再開、竣工する
・1925年(大正14)1月 鉄筋コンクリート4階建ての桃山風として新築された大劇場で開場式が行われる
・1931年(昭和6) 歌舞伎座株式会社は明治座、新富座、松竹と合併し、松竹興行株式会社になる
・1945年(昭和20)5月 東京大空襲で全焼、大屋根も焼け落ちる
・1949年(昭和24) 大谷竹次郎により新たに「株式会社歌舞伎座」が設立され、松竹から建物を譲り受けて復興工事を行なう
・1950年(昭和25)12月 復興工事が竣工する
・1951年(昭和26)1月 歌舞伎などの演劇興行を再開する
・1993年(平成5) 松竹会長(当時)永山武臣の方針により「歌舞伎の本拠地」として原則通年で歌舞伎を興行することとなる
・2002年(平成14)2月 「国土の歴史的景観に寄与している」として、登録有形文化財となる
・2005年(平成17) 建て替えの検討に入る
・2008年(平成20)10月 建て替えが正式に発表される
・2009年(平成21)8月26日 松竹と歌舞伎座により、建て替えの具体的な計画が発表される
・2010年(平成22)4月30日 建て替えのため閉場式が行われ、登録有形文化財の登録抹消となる
・2013年(平成25)2月26日 オフィスビルと併設された歌舞伎座の建て替えが完了する
・2013年(平成25)3月27日・28日 2日に渡って開場式が行われる