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 今日は、明治時代後期の1901年(明治34)に、俳人秋元不死男が生まれた日です。
 秋元不死男(あきもと ふじお)は、神奈川県横浜市中区元町において、漆器の輸出業を営む家に生まれましたが、名は不二雄(ふじお)と言いました。13歳の時に父が亡くなり、母親が和裁の賃仕事や夜店の行商をして家計を支えます。
 1916年(大正5)の16歳の時、横浜市第二日枝小学校高等科を卒業、横浜火災海上保険に入社、1919年(大正8)には正社員となりました。1920年(大正9)に同人誌「花路」、1927年(昭和2)に同人誌「青い花」を創刊し、詩や短編小説を書いています。
 1929年(昭和4)に島田青峰の弟・的浦が同じ会社に入社して同僚となり、翌年には、紹介されて島田青峰の俳誌「土上(どじょう)」の同人となりました。その誌上にA・B・Cのペンネームで「プロレタリア俳句の理解」を発表し、「読売新聞」文芸部長の千葉亀雄により評価され、その後実作と評論の両面で活躍し、東京三のペンネームで「土上」を代表する俳人となります。
 1934年(昭和9)に、新興俳句運動に加わり西東三鬼らと交流、新興俳句系の連絡機関「新俳話会」の幹事を務め、1940年(昭和15)には、第1句集『街』を刊行、三鬼らと俳誌「天香」を創刊しました。しかし、1941年(昭和16)に新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)で検挙されて職を失い、2年間獄中に繋がれ、保釈後も作句、執筆の自由を奪われます。
 太平洋戦争後、1946年(昭和21)に新俳句人連盟の創立に関わり、同連盟幹事に就任したものの、意見が対立し、翌年には、俳号を秋元不死男に改め、現代俳句協会設立発起人となりました。1948年(昭和23)に山口誓子の俳誌「天狼」の同人となり、翌年に俳誌「氷海」を創刊、1950年(昭和25)には、第2句集『瘤』を刊行します。
 1954年(昭和29)に、俳句は「もの」のもつ象徴力を生かす最短詩であるとする、俳句「もの」説を唱え反響をよび、1956年(昭和31)の横浜俳話会創立に際しては、発起人の1人として名前を連ねました。1961年(昭和36)に現代俳句協会を脱退、俳人協会設立に参加、1967年(昭和42)に第3句集『万座』を刊行し、翌年に第2回蛇笏賞を受賞します。
 1971年(昭和46)に横浜文化賞を受賞したものの、直腸癌の摘出手術を受けることとなりました。1976年(昭和51)の再入院後、翌年7月25日に、入院先において、76歳で亡くなり、遺句集として、第4句集『甘露集』が刊行されています。

<秋元不死男の代表的な句>

・「寒(さむ)や母(はは) 地にアセチレン 風に欷(な)き」
・「書けぬ日の 蟻蜂は尻 見せにくる」
・「子を殴(う)ちし ながき一瞬 天の蝉」
・「鳥わたる こきこきこきと 罐切れば」
・「へろへろと ワンタンすする クリスマス」
・「三月や モナリザを売る 石畳」
・「終戦日 妻子入れむと 風呂洗ふ」
・「明日ありや あり外套の ボロちぎる」
・「冬に負けじ 割りてはくらふ 獄の飯」
・「蛇消えて 唐招提寺裏 秋暗し」

〇秋元不死男の主要な著作

・評論『プロレタリア俳句の理解』(1930年)
・『現代俳句の出発』(1939年)
・第1句集『街』(1940年)
・第2句集『瘤』(1950年)
・『俳句入門』(1955年)
・第3句集『万座』(1967年)第2回蛇笏賞受賞
・『俳句への招き』(1976年)
・第4句集『甘露集』(1977年)

☆秋元不死男関係略年表

・1901年(明治34)11月3日 横浜市中区元町において、漆器の輸出業を営む家に生まれる
・1913年(大正2) 13歳の時、父が亡くなる
・1916年(大正5) 16歳の時、横浜市第二日枝小学校高等科を卒業、横浜火災海上保険に入社する
・1917年(大正6) 17歳の時、横浜火災海上保険の準社員となる
・1919年(大正8) 19歳の時、横浜火災海上保険の正社員に昇進する
・1920年(大正9) 同人誌「花路」を創刊する
・1927年(昭和2) 同人誌「青い花」を創刊する
・1929年(昭和4) 島田青峰の弟・的浦が横浜海上火災保険に入社して同僚となる
・1930年(昭和5) 島田青峰の俳誌「土上」の同人となり、A・B・Cのペンネームで「プロレタリア俳句の理解」を発表する
・1931年(昭和6) 清水阿喜(清水径子の姉)と結婚する
・1934年(昭和9) 新興俳句運動に加わり西東三鬼らと交流、新興俳句系の連絡機関「新俳話会」の幹事を務める
・1940年(昭和15) 第1句集『街』を刊行、三鬼らと俳誌「天香」を創刊する
・1941年(昭和16) 京大俳句事件で検挙され、横浜火災海上保険を辞める
・1943年(昭和18) 保釈される
・1946年(昭和21) 新俳句人連盟の創立に関わり、同連盟幹事に就任する
・1947年(昭和22) 俳号を秋元不死男に改め、現代俳句協会設立発起人となる
・1948年(昭和23) 山口誓子の俳誌「天狼」の同人となる
・1949年(昭和24) 俳誌「氷海」を創刊する
・1950年(昭和25) 第2句集『瘤』を刊行する
・1954年(昭和29) 俳句は「もの」のもつ象徴力を生かす最短詩であるとする、俳句「もの」説を唱え反響をよぶ
・1956年(昭和31) 横浜俳話会創立に際しては、発起人の1人として名前を連ねる
・1957年(昭和32) 東京都杉並区へ移住する
・1961年(昭和36) 現代俳句協会を脱退、俳人協会設立に参加する
・1967年(昭和42) 第3句集『万座』を刊行する
・1968年(昭和43) 第3句集『万座』で、第2回蛇笏賞を受賞、東京から再び横浜へ戻る
・1971年(昭和46) 横浜文化賞を受賞、直腸癌の摘出手術を受ける
・1976年(昭和51) 再入院する
・1977年(昭和52)7月25日 入院先において、76歳で亡くなり、遺句集として、第4句集『甘露集』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)俳人山口誓子の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「東亜新秩序の建設」(第二次近衛声明)を出す詳細
1945年(昭和20)新日本婦人同盟(会長:市川房枝)が結成される詳細
1946年(昭和21)「日本国憲法」が公布される詳細
1949年(昭和24)湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞が決定、日本人初のノーベル賞受賞となる詳細