ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年10月

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 今日は、昭和時代中期の1964年(昭和39)に、関門連絡船の最後の便が就航し、この日限りで廃止された日です。
 関門連絡船(かんもんれんらくせん)は、山口県下関市の下関駅と福岡県北九州市門司区(1963年までは門司市)の門司港駅との間(関門航路)を運航していた鉄道連絡船でした。1901年(明治34)5月27日に、山陽鉄道が山陽本線全通により下関~門司間の航路の運航を開始したのに始まり、1906年(明治39)12月1日に、「鉄道国有法」の施行により山陽鉄道が国有化されたため、当航路も国有化されます。
 1911年(明治44)に鉄道車両航送を開始、貨物便については九州側の発着地を小森江に変更しました。1919年(大正8)に前後左右対称の自力で航行する鉄道車両渡船(第一関門丸、第二関門丸)が就航、1922年(大正11)に第三関門丸、第四関門丸、1926年(大正15)には、第五関門丸が就航します。
 1941年(昭和16)度には年間880万人(1日あたり約24,000人)の利用がありましたが、1942年(昭和17)7月1日に関門トンネルが開通(貨物輸送のみ)したことにより貨物輸送が廃止され、同年11月15日には、関門トンネルの旅客輸送が開始されたことにより郵便輸送を廃止し減便しました。1958年(昭和33)に関門国道トンネルが開通し、同時期に民間の関門汽船・関門海峡汽船の利便性が向上されたこともあり、輸送人員の急減が始まります。
 終に、1964年(昭和39)10月25日に航路廃止が告示され、10月31日に最後の便が就航し、この日限りで廃止されました。

〇関門連絡船関係略年表

・1901年(明治34)5月27日 山陽鉄道が山陽本線全通により下関~門司間の航路の運航を開始する
・1906年(明治39)12月1日 「鉄道国有法」の施行により山陽鉄道が国有化されたため、当航路も国有化される
・1911年(明治44)10月1日 鉄道車両航送を開始、貨物便については九州側の発着地を小森江に変更する
・1912年(明治45) この年度には年間84万人(1日あたり約2,300人)の利用がある
・1914年(大正3) 門司丸が就航する
・1919年(大正8)8月1日 前後左右対称の自力で航行する鉄道車両渡船(第一関門丸、第二関門丸)が就航する
・1920年(大正9) 長水丸・豊山丸が就航する
・1922年(大正11) 下関・小森江桟橋に可動橋を増設して鉄道車両渡船(第三関門丸、第四関門丸)が就航する
・1926年(大正15) 鉄道車両渡船の第五関門丸が就航したため、第一・第二関門丸は予備となる
・1938年(昭和13) 鉄道車両渡船は5隻とも常時使用されるようになる
・1941年(昭和16) この年度には年間880万人(1日あたり約24,000人)の利用がある
・1942年(昭和17)7月1日 関門トンネルが開通したことにより貨物輸送を廃止する
・1942年(昭和17)11月15日 関門トンネルで旅客輸送が開始されたことにより郵便輸送を廃止し減便する
・1947年(昭和22) この年度の輸送人員は年間403万人(1日平均約11,000人)となる
・1955年(昭和30) この年度の輸送人員は年間205万人となる
・1958年(昭和33) 関門国道トンネルが開通し、同時期に民間の関門汽船・関門海峡汽船の利便性が向上されたこともあり、輸送人員の急減が始まる
・1959年(昭和34) この年度の輸送人員は年間110万人に減少する
・1964年(昭和39)10月25日 航路廃止が告示される
・1964年(昭和39)10月31日 この日限りで廃止され、最後の便が就航する
・1964年(昭和39)11月1日 航路が廃止される

☆鉄道連絡船(てつどうれんらくせん)とは?

 鉄道を敷設することができない海洋や湖沼などの水上の部分に、鉄道の一線区に相当するものとしての航路を開き、両岸の鉄道線を連絡する船舶のことです。日本では、明治時代前期の1884年(明治17)に福井県の金ヶ崎(敦賀港)~滋賀県長浜まで全通した鉄道路線と、兵庫県神戸~滋賀県大津間の鉄道路線とを琵琶湖の湖上経由(太湖汽船会社の第一・第二太湖丸による)で結んだのが最初でした。
 しかし、この航路は、1989年(明治22)に、東海道線と長浜~米原間の鉄道の開通によって、陸路で結ばれたために役割を終えます。その後、1901年(明治34)に本州と九州を結ぶ関門連絡船(下関駅~門司駅)、1908年(明治39)に本州と北海道を結ぶ青函連絡船(青森駅~函館桟橋駅・函館駅)、1910年(明治41)に本州と四国を結ぶ宇高連絡船(宇野駅~高松桟橋駅・高松駅)などが開設されましたが、いずれも海底トンネルや海峡橋の建設により鉄道路線として結ばれるなどにより、廃止されました。
 尚、本州と宮島を結ぶ宮島航路は、JR西日本宮島フェリーの航路(鉄道連絡船)として現存していますが、当初から鉄道線を挟んだ輸送を担うものではありません。 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1903年(明治36)土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉の命日詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
1943年(昭和18)「軍需会社法」が公布される詳細
1967年(昭和42)医学者佐々木隆興の命日詳細
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kyouikuchyokugo01
 今日は、明治時代中頃の1890年(明治23)に、「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布された日です。
 教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇の名によって発布された教育の根本方針を示した勅語で、「教育勅語」とも呼ばれてきました。勅語文案の起草者は井上毅で、元田永孚が成文化に協力し、家族国家観に基づく忠君愛国主義と儒教的道徳を内容とします。古来天皇は徳をもって統治し続けてきたと述べ、国民の守るべき徳目を掲げた上で、「一旦緩急あるときは義勇公に奉ずる」のが本分であることを強調していました。
 政府は、勅語の謄本を全国の学校に交付し、天皇と皇后の写真の拝礼と勅語奉読を中心ととする学校儀式を案出、強制します。また、修身をはじめ各教科の内容編成は、勅語の趣旨に基づいて行われることになり、国体観念を国民に植えつけ、天皇制の精神的支柱とします。
 太平洋戦争後、1947年(昭和22)の「学校教育法」制定に伴い、翌年6月には、国会において失効宣言が採択されました。
 以下に、「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」 1890年(明治23)10月30日発布

<原文>

朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

<教育に関する勅語の全文通釈> 文部省図書局 1940年(昭和15)

朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇(はじ)めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎの)御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

   「ウィキペディア」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1850年(嘉永5)医師・蘭学者高野長英の命日詳細
1874年(明治7)評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の誕生日詳細
1903年(明治36)小説家尾崎紅葉の命日(紅葉忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」を出す詳細
1999年(平成11)上信越自動車道の中郷IC~上越JCT間が開通、藤岡JCTから長野県長野市を経て上越JCT間が全通する詳細
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dainihonshi01
 今日は、江戸時代中期の1720年(享保5)に、水戸藩が『大日本史』250巻(享保本)を幕府へ献上した日ですが、新暦では11月28日となります。
 『大日本史』(だいにほんし)は、水戸藩第2代藩主徳川光圀の下に着手された日本の歴史書でした。光圀の世子時代の1657年(明暦3)に史局(後の彰考館)を開設して、国史の編纂事業に着手、1720年(享保5年10月29日)に、論賛を付載した本紀(73巻)と列伝(170巻)が幕府に献上(享保本『大日本史』250巻)されます。
 その後も、修史事業は継続され、1810年(文化7)には、旧稿本の修訂の成った成稿本が朝廷に献上されました。それから紀伝の他にも、志、表の編纂も行われましたが、廃藩置県後は、水戸徳川家へ受け継がれ、1906年(明治39)に、本紀・列伝・志・表の四部と目録合計402巻(徳川家蔵版、231冊、和本)が完成して一切の業務を終了します。活字本は、1911年(明治44)~1918年(大正7)にかけて、吉川弘文館からが刊行されました。
 神武天皇~後小松天皇までの百代の治世を漢文で叙述した紀伝体の史書で、本紀(帝王)73巻、列伝170巻、志126巻、表28巻、目録5巻の計402巻から成っています。史観は朱子学による大義名分論をとり、①神功皇后を本紀ではなく皇后列伝に入れ、②大友皇子の即位を認め、③南朝を正統とするなど、従来の史書と記述が異なることが特色とされ、幕末の尊王論に影響を与えました。史料収集、史籍校訂、考証にもすぐれ、水戸学という学風を生んだとされます。

〇『大日本史の構成』

【本紀】
巻之一 本紀第一 - 神武天皇 綏靖天皇 安寧天皇 懿徳天皇 孝昭天皇 孝安天皇 孝霊天皇 孝元天皇 開化天皇
巻之二 本紀第二 - 崇神天皇 垂仁天皇 景行天皇 成務天皇
巻之三 本紀第三 - 仲哀天皇 応神天皇
巻之四 本紀第四 - 仁徳天皇 履中天皇 反正天皇 允恭天皇
巻之五 本紀第五 - 安康天皇 雄略天皇 清寧天皇 顕宗天皇 仁賢天皇
巻之六 本紀第六 - 武烈天皇 継体天皇 安間天皇〔ママ〕 宣化天皇
巻之七 本紀第七 - 欽明天皇 敏達天皇 用明天皇 崇峻天皇
巻之八 本紀第八 - 推古天皇 舒明天皇
巻之九 本紀第九 - 皇極天皇 孝徳天皇 斉明天皇
巻之十 本紀第十 - 天智天皇 天皇大友
巻之十一 本紀第十一 - 天武天皇
巻之十二 本紀第十二 - 持統天皇
巻之十三 本紀第十三 - 文武天皇
巻之十四 本紀第十四 - 元明天皇
巻之十五 本紀第十五 - 元正天皇
巻之十六 本紀第十六 - 聖武天皇
巻之十七 本紀第十七 - 孝謙天皇
巻之十八 本紀第十八 - 廃帝
巻之十九 本紀第十九 - 称徳天皇
巻之二十 本紀第二十 - 光仁天皇
巻之二十一 本紀第二十一 - 桓武天皇
巻之二十二 本紀第二十二 - 平城天皇
巻之二十三 本紀第二十三 - 嵯峨天皇
巻之二十四 本紀第二十四 - 淳和天皇
巻之二十五 本紀第二十五 - 仁明天皇上
巻之二十六 本紀第二十六 - 仁明天皇下
巻之二十七 本紀第二十七 - 文徳天皇
巻之二十八 本紀第二十八 - 清和天皇
巻之二十九 本紀第二十九 - 陽成天皇
巻之三十 本紀第三十 - 光孝天皇
巻之三十一 本紀第三十一 - 宇多天皇
巻之三十二 本紀第三十二 - 醍醐天皇
巻之三十三 本紀第三十三 - 朱雀天皇
巻之三十四 本紀第三十四 - 村上天皇
巻之三十五 本紀第三十五 - 冷泉天皇
巻之三十六 本紀第三十六 - 円融天皇
巻之三十七 本紀第三十七 - 華山天皇
巻之三十八 本紀第三十八 - 一条天皇
巻之三十九 本紀第三十九 - 三条天皇
巻之四十 本紀第四十 - 後一条天皇
巻之四十一 本紀第四十一 - 後朱雀天皇
巻之四十二 本紀第四十二 - 後冷泉天皇
巻之四十三 本紀第四十三 - 後三条天皇
巻之四十四 本紀第四十四 - 白河天皇
巻之四十五 本紀第四十五 - 堀河天皇
巻之四十六 本紀第四十六 - 鳥羽天皇
巻之四十七 本紀第四十七 - 崇徳天皇
巻之四十八 本紀第四十八 - 近衛天皇
巻之四十九 本紀第四十九 - 後白河天皇
巻之五十 本紀第五十 - 二条天皇
巻之五十一 本紀第五十一 - 六条天皇
巻之五十二 本紀第五十二 - 高倉天皇
巻之五十三 本紀第五十三 - 安徳天皇
巻之五十四 本紀第五十四 - 後鳥羽天皇
巻之五十五 本紀第五十五 - 土御門天皇
巻之五十六 本紀第五十六 - 順徳天皇
巻之五十七 本紀第五十七 - 九条廃帝
巻之五十八 本紀第五十八 - 後堀河天皇
巻之五十九 本紀第五十九 - 四条天皇
巻之六十 本紀第六十 - 後嵯峨天皇
巻之六十一 本紀第六十一 - 後深草天皇
巻之六十二 本紀第六十二 - 亀山天皇
巻之六十三 本紀第六十三 - 後宇多天皇
巻之六十四 本紀第六十四 - 伏見天皇
巻之六十五 本紀第六十五 - 後伏見天皇
巻之六十六 本紀第六十六 - 後二条天皇
巻之六十七 本紀第六十七 - 花園天皇
巻之六十八 本紀第六十八 - 後醍醐天皇上
巻之六十九 本紀第六十九 - 後醍醐天皇下
巻之七十 本紀第七十 - 後村上天皇
巻之七十一 本紀第七十一 - 長慶天皇 後亀山天皇
巻之七十二 本紀第七十二 - 後小松天皇上
巻之七十三 本紀第七十三 - 後小松天皇下

【列伝】
巻之七十四 列伝第一 后妃一
巻之七十五 列伝第二 后妃二
巻之七十六 列伝第三 后妃三
巻之七十七 列伝第四 后妃四
巻之七十八 列伝第五 后妃五
巻之七十九 列伝第六 后妃六
巻之八十 列伝第七 后妃七
巻之八十一 列伝第八 后妃八
巻之八十二 列伝第九 后妃九
巻之八十三 列伝第第十 后妃十
巻之八十四 列伝第十一 后妃十一
巻之八十五 列伝第十二 后妃十二
巻之八十六 列伝第十三 皇子一
巻之八十七 列伝第十四 皇子二
巻之八十八 列伝第十五 皇子三
巻之八十九 列伝第十六 皇子四
巻之九十 列伝第十七 皇子五
巻之九十一 列伝第十八 皇子六
巻之九十二 列伝第十九 皇子七
巻之九十三 列伝第二十 皇子八
巻之九十四 列伝第二十一 皇子九
巻之九十五 列伝第二十二 皇子十
巻之九十六 列伝第二十三 皇子十一
巻之九十七 列伝第二十四 皇子十二
巻之九十八 列伝第二十五 皇子十三
巻之九十九 列伝第二十六 皇子十四
巻之一百 列伝第二十七 皇女一
巻之一百一 列伝第二十八 皇女二
巻之一百二 列伝第二十九 皇女三
巻之一百三 列伝第三十 皇女四
巻之一百四 列伝第三十一 皇女五
巻之一百五 列伝第三十二 皇女六
巻之一百六 列伝第三十三
巻之一百七 列伝第三十四 
巻之一百八 列伝第三十五
巻之一百九 列伝第三十六
巻之一百一十 列伝第三十七
巻之一百十一 列伝第三十八
巻之一百十二 列伝第三十九
巻之一百十三 列伝第四十 
巻之一百十四 列伝第四十一
巻之一百十五 列伝第四十二
巻之一百十六 列伝第四十三
巻之一百十七 列伝第四十四
巻之一百十八 列伝第四十五
巻之一百十九 列伝第四十六
巻之一百二十 列伝第四十七 
巻之一百二十一 列伝第四十八 
巻之一百二十二 列伝第四十九
巻之一百二十三 列伝第五十 
巻之一百二十四 列伝第五十一
巻之一百二十五 列伝第五十二 
巻之一百二十六 列伝第五十三 
巻之一百二十七 列伝第五十四
巻之一百二十八 列伝第五十五
巻之一百二十九 列伝第五十六
巻之一百三十 列伝第五十七
巻之一百三十一 列伝第五十八
巻之一百三十二 列伝第五十九
巻之一百三十三 列伝第六十 
巻之一百三十四 列伝第六十一 
巻之一百三十五 列伝第六十二
巻之一百三十六 列伝第六十三 
巻之一百三十七 列伝第六十四
巻之一百三十八 列伝第六十五
巻之一百三十九 列伝第六十六
巻之一百四十 列伝第六十七
巻之一百四十一 列伝第六十八
巻之一百四十二 列伝第六十九
巻之一百四十三 列伝第七十 
巻之一百四十四 列伝第七十一
巻之一百四十五 列伝第七十二 
巻之一百四十六 列伝第七十三
巻之一百四十七 列伝第七十四
巻之一百四十八 列伝第七十五
巻之一百四十九 列伝第七十六
巻之一百五十 列伝第七十七
巻之一百五十一 列伝第七十八
巻之一百五十二 列伝第七十九
巻之一百五十三 列伝第八十 
巻之一百五十四 列伝第八十一 
巻之一百五十五 列伝第八十二
巻之一百五十六 列伝第八十三
巻之一百五十七 列伝第八十四 
巻之一百五十八 列伝第八十五 
巻之一百五十九 列伝第八十六
巻之一百六十 列伝第八十七
巻之一百六十一 列伝第八十八
巻之一百六十二 列伝第八十九 
巻之一百六十三 列伝第九十
巻之一百六十四 列伝第九十一
巻之一百六十五 列伝第九十二
巻之一百六十六 列伝第九十三 
巻之一百六十七 列伝第九十四
巻之一百六十八 列伝第九十五
巻之一百六十九 列伝第九十六
巻之一百七十 列伝第九十七
巻之一百七十一 列伝第九十八
巻之一百七十二 列伝第九十九 
巻之一百七十三 列伝第百 
巻之一百七十四 列伝第百一 
巻之一百七十五 列伝第百二 
巻之一百七十六 列伝第百三 
巻之一百七十七 列伝第百四
巻之一百七十八 列伝第百五 
巻之一百七十九 列伝第百六 将軍一 
巻之一百八十 列伝第百七 将軍二
巻之一百八十一 列伝第百八 将軍三 
巻之一百八十二 列伝第百九 将軍四 
巻之一百八十三 列伝第第百十 将軍五 
巻之一百八十四 列伝第百十一 将軍六 
巻之一百八十五 列伝第百十二 将軍七 
巻之一百八十六 列伝第百十三 将軍八 
巻之一百八十七 列伝第百十四 将軍家族一 
巻之一百八十八 列伝第百十五 将軍家族二 
巻之一百八十九 列伝第百十六 将軍家族三
巻之一百九十 列伝第百十七 将軍家族四 
巻之一百九十一 列伝第百十八 将軍家臣一 
巻之一百九十二 列伝第百十九 将軍家臣二 
巻之一百九十三 列伝第百二十 将軍家臣三 
巻之一百九十四 列伝第百二十一 将軍家臣四 
巻之一百九十五 列伝第百二十二 将軍家臣五 
巻之一百九十六 列伝第百二十三 将軍家臣六 
巻之一百九十七 列伝第百二十四 将軍家臣七 
巻之一百九十八 列伝第百二十五 将軍家臣八 
巻之一百九十九 列伝第百二十六 将軍家臣九 
巻之二百  列伝第百二十七 将軍家臣十
巻之二百一 列伝第百二十八 将軍家臣十一 
巻之二百二 列伝第百二十九 将軍家臣十二 
巻之二百三 列伝第百三十 将軍家臣十三 
巻之二百四 列伝第百三十一 将軍家臣十四 
巻之二百五 列伝第百三十二 将軍家臣十五
巻之二百六 列伝第百三十三 将軍家臣十六
巻之二百七 列伝第百三十四 将軍家臣十七 
巻之二百八 列伝第百三十五 将軍家臣十八
巻之二百九 列伝第百三十六 将軍家臣十九 
巻之二百十 列伝第百三十七 将軍家臣二十 
巻之二百十一 列伝第百三十八 将軍家臣二十一 
巻之二百十二 列伝第百三十九 将軍家臣二十二
巻之二百十三 列伝第百四十 文学一
巻之二百十四 列伝第百四十一 文学二 
巻之二百十五 列伝第百四十二 文学三 
巻之二百十六 列伝第百四十三 文学四
巻之二百十七 列伝第百四十四 文学五 
巻之二百十八 列伝第百四十五 歌人一
巻之二百十九 列伝第百四十六 歌人二
巻之二百二十 列伝第百四十七 歌人三 
巻之二百二十一 列伝第百四十八 歌人四 
巻之二百二十二 列伝第百四十九 孝子
巻之二百二十三 列伝第百五十 義烈 
巻之二百二十四 列伝第百五十一 列女 
巻之二百二十五 列伝第百五十二 隠逸
巻之二百二十六 列伝第百五十三 方技

【岡】
巻之二百二十七 列伝第百五十四 叛臣一
巻之二百二十八 列伝第百五十五 叛臣二 
巻之二百二十九 列伝第百五十六 叛臣三 
巻之二百三十 列伝第百五十七 叛臣四
巻之二百三十一 列伝第百五十八 逆臣
巻之二百三十二 列伝第百五九 諸蕃一
巻之二百三十三 列伝第百五十 諸蕃二 
巻之二百三十四 列伝第百六十一 諸蕃三 
巻之二百三十五 列伝第百六十二 諸蕃四 
巻之二百三十六 列伝第百六十三 諸蕃五 
巻之二百三十七 列伝第百六十四 諸蕃六
巻之二百三十八 列伝第百六十五 諸蕃七 
巻之二百三十九 列伝第百六十六 諸蕃八 
巻之二百四十 列伝第百六十七 諸蕃九
巻之二百四十一 列伝第百六十八 諸蕃十 
巻之二百四十二 列伝第百六十九 諸蕃十一 
巻之二百四十三 列伝第百七十 諸蕃十二 

【志】
巻之二百四十四 志第一 神祇一 総叙一
巻之二百四十五 志第二 神祇二 総叙二
巻之二百四十六 志第三 神祇三 総叙三
巻之二百四十七 志第四 神祇四 祭儀上
巻之二百四十八 志第五 神祇五 祭儀下 
巻之二百四十九 志第六 神祇六 神社一
巻之二百五十 志第七 神祇七 神社二
巻之二百五十一 志第八 神祇八 神社三 
巻之二百五十二 志第九 神祇九 神社四 
巻之二百五十三 志第十 神祇十 神社五 
巻之二百五十四 志第十一 神祇十一 神社六 
巻之二百五十五 志第十二 神祇十二 神社七 
巻之二百五十六 志第十三 神祇十三 神社八 
巻之二百五十七 志第十四 神祇十四 神社九
巻之二百五十八 志第十五 神祇十五 神社十 
巻之二百五十九 志第十六 神祇十六 神社十一 
巻之二百六十 志第十七 神祇十七 神社十二 
巻之二百六十一 志第十八 神祇十八 神社十三 
巻之二百六十二 志第十九 神祇十九 神社十四 
巻之二百六十三 志第二十 神祇二十 神社十五 
巻之二百六十四 志第二十一 神祇二十一 神社十六
巻之二百六十五 志第二十二 神祇二十二 
巻之二百六十六 志第二十三 神祇二十三 
巻之二百六十七 志第二十四 氏族一 皇別一 
巻之二百六十八 志第二十五 氏族二 皇別二 
巻之二百六十九 志第二十六 氏族三 皇別三 
巻之二百七十 志第二十七 氏族四 皇別四 
巻之二百七十一 志第二十八 氏族五 皇別五
巻之二百七十二 志第二十九 氏族六 神別一 
巻之二百七十三 志第三十 氏族七 神別二 
巻之二百七十四 志第三十一 氏族八 神別三 
巻之二百七十五 志第三十二 氏族九 神別四
巻之二百七十六 志第三十三 氏族十 蕃別一
巻之二百七十七 志第三十四 氏族十一 蕃別二 
巻之二百七十八 志第三十五 氏族十二 
巻之二百七十九 志第三十六 氏族十三 
巻之二百八十 志第三十七 職官一 
巻之二百八十一 志第三十八 職官二
巻之二百八十二 志第三十九 職官三
巻之二百八十三 志第四十 職官四
巻之二百八十四 志第四十一 職官五

【廃官】
巻之二百八十五 志第四十二 国郡一 
巻之二百八十六 志第四十三 国郡二 畿内一 
巻之二百八十七 志第四十四 国郡三 畿内二 
巻之二百八十八 志第四十五 国郡四 畿内三 
巻之二百八十九 志第四十六 国郡五 畿内四 
巻之二百九十 志第四十七 国郡六 東海道一 
巻之二百九十一 志第四十八 国郡七 東海道二 
巻之二百九十二 志第四十九 国郡八 東海道三 
巻之二百九十三 志第五十 国郡九 東海道四 
巻之二百九十四 志第五十一 国郡十 東海道五 
巻之二百九十五 志第五十二 国郡十一 東海道六
巻之二百九十六 志第五十三 国郡十二 東海道七 
巻之二百九十七 志第五十四 国郡十三 東海道八 
巻之二百九十八 志第五十五 国郡十四 東山道一 
巻之二百九十九 志第五十六 国郡十五 東山道二 
巻之三百 志第五十七 国郡十六 東山道三 
巻之三百一 志第五十八 国郡十七 東山道四
巻之三百二 志第五十九 国郡十八 東山道五
巻之三百三 志第六十 国郡十九 北陸道一 
巻之三百四 志第六十一 国郡二十 北陸道二 
巻之三百五 志第六十二 国郡二十一 北陸道三
巻之三百六 志第六十三 国郡二十二 山陰道一 
巻之三百七 志第六十四 国郡二十三 山陰道二 
巻之三百八 志第六十五 国郡二十四 山陰道三 
巻之三百九 志第六十六 国郡二十五 山陽道一 
巻之三百一十 志第六十七 国郡二十六 山陽道二 
巻之三百十一 志第六十八 国郡二十七 南海道一 
巻之三百十二 志第六十九 国郡二十八 南海道二 
巻之三百十三 志第七十 国郡二十九 西海道一
巻之三百十四 志第七十一 国郡三十 西海道二 
巻之三百十五 志第七十二 国郡三十一 西海道三 
巻之三百十六 志第七十三 国郡三十二 西海道四
巻之三百十七 志第七十四 国郡三十三 西海道五
巻之三百十八 志第七十五 食貨一 
巻之三百十九 志第七十六 食貨二 
巻之三百二十 志第七十七 食貨三 
巻之三百二十一 志第七十八 食貨四 
巻之三百二十二 志第七十九 食貨五 
巻之三百二十三 志第八十 食貨六 
巻之三百二十四 志第八十一 食貨七
巻之三百二十五 志第八十二 食貨八
巻之三百二十六 志第八十三 食貨九 
巻之三百二十七 志第八十四 食貨十 
巻之三百二十八 志第八十五 食貨十一 
巻之三百二十九 志第八十六 食貨十二 
巻之三百三十 志第八十七 食貨十三 
巻之三百三十一 志第八十八 食貨十四 
巻之三百三十二 志第八十九 食貨十五
巻之三百三十三 志第九十 食貨十六 
巻之三百三十四 志第九十一 礼楽一 
巻之三百三十五 志第九十二 礼楽二
巻之三百三十六 志第九十三 礼楽三
巻之三百三十七 志第九十四 礼楽四
巻之三百三十八 志第九十五 礼楽五
巻之三百三十九 志第九十六 礼楽六 
巻之三百四十 志第九十七 礼楽七
巻之三百四十一 志第九十八 礼楽八
巻之三百四十二 志第九十九 礼楽九
巻之三百四十三 志第一百 礼楽十 
巻之三百四十四 志第一百一 礼楽十一 
巻之三百四十五 志第一百二 礼楽十二 
巻之三百四十六 志第一百三 礼楽十三 
巻之三百四十七 志第一百四 礼楽十四 
巻之三百四十八 志第一百五 礼楽十五 
巻之三百四十九 志第一百六 礼楽十六 
巻之三百五十 志第一百七 兵一 
巻之三百五十一 志第一百八 兵二 
巻之三百五十二 志第一百九 兵三 
巻之三百五十三 志第一百十 兵四 
巻之三百五十四 志第一百十一 兵五 
巻之三百五十五 志第一百十二 兵六
巻之三百五十六 志第一百十三 刑法一
巻之三百五十七 志第一百十四 刑法二
巻之三百五十八 志第一百十五 陰陽一 
巻之三百五十九 志第一百十六 陰陽二 災祥一 
巻之三百六十 志第一百十七 陰陽三 災祥二 
巻之三百六十一 志第一百十八 陰陽四 災祥三
巻之三百六十二 志第一百十九 陰陽五 災祥四
巻之三百六十三 志第一百二十 陰陽六 災祥五 
巻之三百六十四 志第一百二十一 仏事一 
巻之三百六十五 志第一百二十二 仏事二
巻之三百六十六 志第一百二十三 仏事三 
巻之三百六十七 志第一百二十四 仏事四 
巻之三百六十八 志第一百二十五 仏事五
巻之三百六十九 志第一百二十六 仏事六 

【表】
巻之三百七十 表第一 臣連伴造一
巻之三百七十一 表第二 臣連伴造二
巻之三百七十二 表第三 公卿一
巻之三百七十三 表第四 公卿二
巻之三百七十四 表第五 公卿三
巻之三百七十五 表第六 公卿四
巻之三百七十六 表第七 公卿五
巻之三百七十七 表第八 公卿六
巻之三百七十八 表第九 公卿七
巻之三百七十九 表第十 国郡司一
巻之三百八十 表第十一 国郡司二
巻之三百八十一 表第十二 国郡司三
巻之三百八十二 表第十三 国郡司四
巻之三百八十三 表第十四 国郡司五
巻之三百八十四 表第十五 国郡司六
巻之三百八十五 表第十六 国郡司七
巻之三百八十六 表第十七 国郡司八
巻之三百八十七 表第十八 国郡司九
巻之三百八十八 表第十九 国郡司十
巻之三百八十九 表第二十 国郡司十一
巻之三百九十 表第二十一 国郡司十二
巻之三百九十一 表第二十二 蔵人検非違使一
巻之三百九十二 表第二十三 蔵人検非違使二
巻之三百九十三 表第二十四 蔵人検非違使三
巻之三百九十四 表第二十五 蔵人検非違使四
巻之三百九十五 表第二十六 将軍僚属一
巻之三百九十六 表第二十七 将軍僚属二
巻之三百九十七 表第二十八 将軍僚属三

☆『大日本史』関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1645年(正保2年) 18歳の徳川光圀(後の水戸藩第二代藩主)が修史の志をたてる
・1646年(正保3年) 光圀は学者を京都方面に派遣して古書の収集を始める
・1657年(明暦3年2月) 世子時代の光圀が江戸神田の別邸に史局を設けて修史事業を開始する
・1672年(寛文12年) 史局を小石川の本邸(現在の文京区後楽園付近)に移して彰考館と命名する
・1683年(天和3年) 神武天皇から後醍醐天皇までの時代を扱った「新撰紀伝」104巻が完成する
・1676年(延宝4年) 全国的な史料調査が開始される
・1693年(元禄6年) これまでの間に史料調査が主なものだけでも十三回行われる
・1697年(元禄10年) 神武から後小松までの本紀である「百王本紀」が一応完成する
・1698年(元禄11年) 光圀は彰考館員の多くを江戸から水戸城内に移し(以後江戸と水戸双方に彰考館が置かれることとなった)、列伝の執筆を督励する
・1699年(元禄12年) 皇妃・皇子・皇女の各伝ができ、列伝の草稿もほぼ整う
・1700年(元禄13年12月6日) 紀伝全体の完成をみるに至らないまま、光圀が亡くなる
・1710年(宝永7年) 続編編纂の議が総裁(江戸)酒泉竹軒らによって提案される
・1715年(正徳5年4月) 書名が「大日本史」と決まる
・1715年(正徳5年11月) 大井松隣の代作になる第三代藩主綱条の叙文が作られる
・1715年(正徳5年12月6日) 光圀の忌日には、本紀七十三巻・列伝百七十巻、計二百四十三巻の清書本が光圀の廟に供えられる(正徳本『大日本史』)
・1716年(享保元年) 綱条が続編編纂を正式に命じる
・1720年(享保5年10月29日) 論賛を付載した本紀と列伝が幕府に献上される(享保本『大日本史』250巻)
・1737年(元文2年) 安積が紀伝の校閲作業を終える
・1786年(天明6年) 立原翠軒が総裁(水戸)となり、修史事業の再興に熱意を傾ける
・1803年(享和3年) 藤田派の高橋が「天朝百王一姓」のわが国においては臣下が天皇の行為を論評するごときは許されないとして、その削除を要求する
・1809年(文化6年) 論賛全文の削除が決定する
・1810年(文化7年) 藩主に代わって藤田が執筆した上表文を添えてこれを朝廷にも送付する
・1849年(嘉永2年) 紀伝243巻全部が完了する
・1852年(嘉永5年) 紀伝243巻を訂正し、幕府と朝廷に改めて献じる
・1864年(元治元年) 志・表の編纂の完成をみずに豊田天功が没する
・1869年(明治2年) 彰考館が水戸徳川家に帰属すると館員は削減され、豊田の門人栗田寛(栗里)・菅政友・津田信存ら10名ほどになる
・1892年(明治25年) 栗田が文科大学教授となって上京、津田も同年没してからは、青山延寿・清水正健・栗田勤らが校訂と出版にあたる
・1906年(明治39年)2月 本紀・列伝・志・表の四部と目録合計402巻(徳川家蔵版、231冊、和本)が完成して一切の業務を終了する
・1911年(明治44年)~1918年(大正7年) 吉川弘文館から活字本が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1779年(安永8)第118代の天皇とされる後桃園天皇の命日(新暦12月6日)詳細
1815年(文化12)江戸幕府大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の誕生日(新暦11月29日)詳細
1935年(昭和10)映画監督・アニメーション演出家・プロデューサー・翻訳家高畑勲の誕生日詳細
1961年(昭和36)小説家・劇作家・評論家長与善郎の命日詳細
1976年(昭和51)酒田大火で、1,774棟が焼失する詳細
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seiyouigakushyo01
 今日は、江戸時代後期の1861年(文久元)に、江戸幕府が種痘所を西洋医学所(東京大学医学部の前身)と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となった日です。
 西洋医学所(せいよういがくしょ)は、種痘所の改称により成立した幕府の西洋医学機関でした。前身は、1858年(安政5年5月7日)に設立されたお玉ヶ池種痘所で、伊東玄朴ら蘭方医83名の資金拠出により、神田お玉ヶ池松枝町の勘定奉行川路聖謨が拝領地において、江戸幕府の使用許可を得て設立されもので、「種痘」を組織的に実施するための施設です。
 しかし、同年11月15日に、神田相生町からの出火により類焼してしまい、 伊東玄朴の家などで業務を継続することとなりました。1859年(安政6年9月)に種痘所を下谷和泉橋通りに新築移転、1860年(万延元年10月)には、幕府直轄の種痘所となり、翌年10月28日には、西洋医学所と改称し、大槻俊斎が初代頭取となり、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となります。
 第2代頭取の緒方洪庵のときに医学所と改称され、第3代頭取松本良順に至って学制がようやく整い、理化学、解剖学、生理学、病理学、薬剤学、内科、外科の医学7科を定めました。しかし、戊辰戦争で閉鎖され、1868年(明治元)には、明治新政府の所轄となります。
 その後、1869年(明治2)に大学東校、1872年(明治5年8月)に学制が布がれると第一大学区医学校、1874年(明治7年)には、東京医学校と改称され、発展していきました。1876年(明治9)に本郷に移転、1877年(明治10)には、東京開成学校と合併し東京大学となり、その医学部となって、現在に至っています。

☆東京大学医学部の沿革(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1858年(安政5年5月7日) 江戸市中の蘭医82名の醸金により神田御玉ケ池に種痘所が設立される
・1858年(安政5年11月15日) 種痘所は、神田相生町からの出火により類焼したが、 伊東玄朴の家などで業務を継続する
・1859年(安政6年9月) 種痘所を下谷和泉橋通りに新築し移転する
・1860年(万延元年10月) 幕府直轄の種痘所となる
・1861年(文久元年10月28日) 種痘所を西洋医学所と改称し、教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する所となる
・1863年(文久3年2月) 西洋医学所は、医学所と改称される
・1868年(明治元年7月) 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所を含めて、大病院と称すことになる
・1869年(明治2年2月) 大病院は、医学校兼病院と改称される
・1869年(明治2年12月) 医学校兼病院は、大学東校と改称される
・1871年(明治4年7月) 文部省が設置され、大学東校は、東校と改称される
・1872年(明治5年8月) 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称される
・1874年(明治7年)5月 第一大学区医学校は、東京医学校と改称される
・1876年(明治9年)11月 東京医学校は、本郷に移転する
・1877年(明治10年)4月 東京医学校は、東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なる
・1886年(明治19年)3月 東京大学が帝国大学となり、東京大学医学部は、帝国大学医科大学となった。大学院が設置される
・1897年(明治30年)6月 帝国大学は、東京帝国大学となる
・1917年(大正6年)8月 文部省医師開業試験附属永楽病院が、本学に移管され東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院となる
・1919年(大正8年)4月 学部制が敷かれ、医科大学は医学部となる
・1947年(昭和22年)10月 東京帝国大学は、東京大学となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1876年(明治9)萩の乱がおきる詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
1956年(昭和31)大阪府大阪市浪速区に現在の通天閣(二代目)が完成する詳細
1962年(昭和37)小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の命日詳細
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hanmuraryou01
 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家半村良の生まれた日です。
 半村良(はんむら りょう)は、東京府東京市葛飾区において、生まれましたが、本名は清野 平太郎(きよの へいたろう)と言いました。小学1年生の時に父を失ない、太平洋戦争下の1942~45年まで、母親の実家である石川県能登地方に疎開しています。
 1952年(昭和27)に東京都立両国高等学校を卒業したものの、事務員、工員、バーテンなど30数種の職業を転々としました。広告代理店勤務中の1962年(昭和37)に、『収穫』が第2回ハヤカワSFコンテストの第3席に入選し、SF作家の道に進むこととします。
 日本SF作家クラブの事務局長も務めましたが、1960年代は数編の短編を『SFマガジン』に発表しただけで、ほぼ沈黙していました。1971年(昭和46)に伝奇小説とSF小説の要素を合わせた『石の血脈』を執筆、翌年に第3回星雲賞(日本長編部門)を受賞して出世作となります。
 1973年(昭和48)に『産霊山秘録』で第1回泉鏡花賞、1974年(昭和49)に『雨やどり』で第72回直木賞を受賞しました。また、同年に『戦国自衛隊』で注目され、1979年(昭和54)には、映画化されて話題となります。
 1984年(昭和59)に北海道苫小牧市に転居したものの、1987年(昭和62)には、東京浅草に戻りました。1988年(昭和63)に『岬一郎の抵抗』で、第9回日本SF大賞、1993年(平成5)には、『かかし長屋』で第6回柴田錬三郎賞を受賞しています。
 1994年(平成6)に雑誌連載が中断し未完だった『虚空王の秘宝』を完結させて刊行、1995年(平成7)には、単行本刊行が中断していた『妖星伝』を完結させました。1999年(平成11)に栃木県鹿沼市に移住しましたが、2001年(平成13)には、家族の住む東京・調布に戻り、翌年3月4日に、肺炎のため68歳で亡くなり、第20回日本冒険小説協会大賞特別賞を贈られています。

〇半村良の主要な著作

・『石の血脈』(1971年)第3回星雲賞(日本長編部門)受賞
・『産霊山秘録』(1973年)第1回泉鏡花賞受賞
・『戦国自衛隊』(1974年)
・『不可触領域』(1974年)
・『雨やどり』(1975年)第72回直木賞受賞
・『どぶどろ』(1977年)
・『岬一郎の抵抗』(1988年)第9回日本SF大賞受賞
・『かかし長屋』(1993年)第6回柴田錬三郎賞受賞
・『太陽の世界』(1980~1989年)
・『すべて辛抱』(2001年)

☆半村良関係略年表

・1933年(昭和8)10月27日 東京府東京市葛飾区において、生まれる
・1942年(昭和17) 母親の実家である石川県能登地方に疎開する
・1945年(昭和20) 疎開先から東京へ戻る
・1952年(昭和27) 東京都立両国高等学校を卒業する
・1962年(昭和37) 『収穫』が第2回ハヤカワSFコンテストの第3席に入選する
・1971年(昭和46) 伝奇小説とSF小説の要素を合わせた『石の血脈』が出世作となる
・1972年(昭和47) 『石の血脈』で第3回星雲賞(日本長編部門)を受賞する
・1973年(昭和48) 『産霊山秘録』で第1回泉鏡花賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『雨やどり』で第72回直木賞を受賞する
・1979年(昭和54) 『戦国自衛隊』が映画化されて話題となる
・1984年(昭和59) 北海道苫小牧市に転居する
・1987年(昭和62) 東京浅草に戻る
・1988年(昭和63) 『岬一郎の抵抗』で、第9回日本SF大賞を受賞する
・1993年(平成5) 『かかし長屋』で第6回柴田錬三郎賞を受賞する
・1994年(平成6) 雑誌連載が中断し未完だった『虚空王の秘宝』を完結させて刊行する
・1995年(平成7) 単行本刊行が中断していた『妖星伝』を完結させる
・1999年(平成11) 栃木県鹿沼市に移住する
・2001年(平成13) 群馬県前橋市から、家族の住む東京・調布に戻る
・2002年(平成14)3月4日 東京において、肺炎のため68歳で亡くなり、第20回日本冒険小説協会大賞特別賞を贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です詳細
1876年(明治9)秋月の乱がおこる詳細
1903年(明治36)幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する詳細
1914年(大正3)詩人・俳人木下夕爾の誕生日詳細
1977年(昭和52)日本画家前田青邨の命日詳細

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