
赤堀四郎(あかほり しろう)は、静岡県小笠郡干浜村(現在の掛川市千浜)において、小学校教師だった父・赤堀秀雄の四男として生まれました。1913年(大正2)に千浜尋常小学校を卒業し、翌年には、大蔵省主税局関税課給仕となり、錦城尋常中学校夜間部へ入学します。
1916年(大正5)に錦城尋常中学校昼間部4年へ編入、1918年(大正7)に同校を卒業、千葉医学専門学校薬学科へ入学しました。1921年(大正10)に同校薬学科を卒業、桃谷順天館入社して東京帝国大学(現・東京大学)理学部講師の西沢勇志智の助手として派遣されます。
1922年(大正11)に東北帝国大学理学部へ入学、1924年(大正13)には眞島研究室に配属されました。1925年(大正14)に東北帝国大学理学部を卒業、同大学大学院に進学し、醤油の香り成分の抽出に取り組みます。
1930年(昭和5)に東北帝国大学大学院を修了し、同大学理学部講師となり、翌年には、「アミノ酸及その誘導體に關する研究」で、理学博士を取得しました。1932年(昭和7)に欧米留学へ出発、ドイツ、チェコ、アメリカで学び、1935年(昭和10に帰国、大阪帝国大学理学部助教授となり、有機化学講座を担当します。
1936年(昭和11)にしょうゆの香気成分メチオノールの合成に成功、1939年(昭和14)には、大阪帝国大学理学部教授に昇任しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に大阪大学理学部学部長となり、1949年(昭和24)には、大阪大学一般教養部部長となります。
1950年(昭和25)に「酵素およびアミノ酸に関する研究」で、日本化学会賞を受賞、翌年には、タカアミラーゼの結晶化に成功、1952年(昭和27)には、タンパク質をヒドラジン分解することによりカルボキシ(カルボキシル)末端アミノ酸残基を決定する方法を創始しました。1953年(昭和28)に大阪大学理学部学部長となり、東京大学応用微生物研究所教授も兼任、1955年(昭和30)には、「たんぱく質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で、日本学士院賞を受賞します。
1958年(昭和33)に大阪大学蛋白質研究所所長、1960年(昭和35)に大阪大学総長、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1965年(昭和40)に文化勲章を受章、翌年に退官して大阪大学名誉教授、理化学研究所理事長となり、大浜町名誉市民ともなり、1967年(昭和42)には、国際生化学会議(東京)会長を務めます。
1968年(昭和43)に大阪府教育委員会委員長、1969年(昭和44)に日本化学会会長、1975年(昭和50)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1983年(昭和58)に夫妻そろってカトリックの洗礼を受けたものの、1992年(平成4)11月3日に、兵庫県において、92歳で亡くなっています。
1916年(大正5)に錦城尋常中学校昼間部4年へ編入、1918年(大正7)に同校を卒業、千葉医学専門学校薬学科へ入学しました。1921年(大正10)に同校薬学科を卒業、桃谷順天館入社して東京帝国大学(現・東京大学)理学部講師の西沢勇志智の助手として派遣されます。
1922年(大正11)に東北帝国大学理学部へ入学、1924年(大正13)には眞島研究室に配属されました。1925年(大正14)に東北帝国大学理学部を卒業、同大学大学院に進学し、醤油の香り成分の抽出に取り組みます。
1930年(昭和5)に東北帝国大学大学院を修了し、同大学理学部講師となり、翌年には、「アミノ酸及その誘導體に關する研究」で、理学博士を取得しました。1932年(昭和7)に欧米留学へ出発、ドイツ、チェコ、アメリカで学び、1935年(昭和10に帰国、大阪帝国大学理学部助教授となり、有機化学講座を担当します。
1936年(昭和11)にしょうゆの香気成分メチオノールの合成に成功、1939年(昭和14)には、大阪帝国大学理学部教授に昇任しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に大阪大学理学部学部長となり、1949年(昭和24)には、大阪大学一般教養部部長となります。
1950年(昭和25)に「酵素およびアミノ酸に関する研究」で、日本化学会賞を受賞、翌年には、タカアミラーゼの結晶化に成功、1952年(昭和27)には、タンパク質をヒドラジン分解することによりカルボキシ(カルボキシル)末端アミノ酸残基を決定する方法を創始しました。1953年(昭和28)に大阪大学理学部学部長となり、東京大学応用微生物研究所教授も兼任、1955年(昭和30)には、「たんぱく質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で、日本学士院賞を受賞します。
1958年(昭和33)に大阪大学蛋白質研究所所長、1960年(昭和35)に大阪大学総長、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1965年(昭和40)に文化勲章を受章、翌年に退官して大阪大学名誉教授、理化学研究所理事長となり、大浜町名誉市民ともなり、1967年(昭和42)には、国際生化学会議(東京)会長を務めます。
1968年(昭和43)に大阪府教育委員会委員長、1969年(昭和44)に日本化学会会長、1975年(昭和50)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1983年(昭和58)に夫妻そろってカトリックの洗礼を受けたものの、1992年(平成4)11月3日に、兵庫県において、92歳で亡くなっています。
〇赤堀四郎の主要な著作
・水島三一郎と共編『蛋白質化学』(1969年)
・『有機化学の進歩』
・『酵素化学の進歩』
・『生命とは何か』
・『タンパク質栄養』
☆赤堀四郎関係略年表
・1900年(明治33)10月20日 静岡県小笠郡干浜村(現在の掛川市千浜)において、小学校教師だった父・赤堀秀雄の四男として生まれる
・1913年(大正2) 千浜尋常小学校を卒業する
・1914年(大正3) 大蔵省主税局関税課給仕となり、錦城尋常中学校夜間部へ入学する
・1916年(大正5) 錦城尋常中学校昼間部4年へ編入する
・1918年(大正7) 錦城尋常中学校を卒業し、千葉医学専門学校薬学科へ入学する
・1921年(大正10) 千葉医学専門学校薬学科を卒業、桃谷順天館入社して東京帝国大学(現・東京大学)理学部講師の西沢勇志智の助手として派遣される
・1922年(大正11) 東北帝国大学理学部へ入学する
・1924年(大正13) 眞島研究室に配属される
・1925年(大正14) 東北帝国大学理学部を卒業、同大学大学院に入学する
・1930年(昭和5) 東北帝国大学大学院を修了し、同大学理学部講師となる
・1931年(昭和6) 「アミノ酸及その誘導體に關する研究」で、理学博士を取得する
・1932年(昭和7) 欧米留学へ出発する
・1935年(昭和10) 欧米留学から帰国し、大阪帝国大学理学部助教授となり、有機化学講座を担当する
・1936年(昭和11) しょうゆの香気成分メチオノールの合成に成功する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学理学部教授に昇任される
・1947年(昭和22) 大阪大学理学部学部長となる
・1949年(昭和24) 大阪大学一般教養部部長となる
・1950年(昭和25) 「酵素およびアミノ酸に関する研究」で、日本化学会賞を受賞する
・1951年(昭和26) タカアミラーゼの結晶化に成功する
・1952年(昭和27) タンパク質をヒドラジン分解することによりカルボキシ(カルボキシル)末端アミノ酸残基を決定する方法を創始する
・1953年(昭和28) 大阪大学理学部学部長となり、東京大学応用微生物研究所教授も兼任する
・1955年(昭和30) 「たんぱく質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 大阪大学蛋白質研究所所長となる
・1960年(昭和35) 大阪大学総長となる
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1965年(昭和40)11月 文化勲章を受章する
・1966年(昭和41) 退官して大阪大学名誉教授となり、理化学研究所理事長となり、大浜町名誉市民ともなる
・1967年(昭和42) 国際生化学会議(東京)会長を務める
・1968年(昭和43) 大阪府教育委員会委員長となる
・1969年(昭和44) 日本化学会会長となる
・1973年(昭和48) 大東町名誉市民となる
・1975年(昭和50)4月 勲一等瑞宝章を受章する
・1983年(昭和58) 夫妻そろってカトリックの洗礼を受ける
・1992年(平成4)11月3日 兵庫県において、92歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1180年(治承4) | 源平合戦の富士川の戦いが行われる(新暦11月9日) | 詳細 |
1856年(安政3) | 農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日) | 詳細 |
1879年(明治12) | 経済学者・社会思想家河上肇の誕生日 | 詳細 |
1937年(昭和12) | 第1次近衛文麿内閣が「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出す | 詳細 |
2009年(平成21) | 小説家原田康子の命日 | 詳細 |