
布施辰治(ふせ たつじ)は、明治時代前期の1880年(明治13)11月13日に、宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市蛇田)の農家である父・栄治郎、母・きえの次男として生まれました。189年9(明治32)に、「哲学」を勉強するため上京、蛇田でキリスト教に遭い、神田のニコライ堂の学僕となり、明治法律学校(明治大学の前身)へ入学します。
1902年(明治35)に卒業後、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任したものの、翌年には辞任(挂冠の辞を発表)しました。1904年(明治37)に、東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散、翌年には、東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開きます。
1906年(明治39)に、電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となりました。1917年(大正6)に普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催し、翌年には、米騒動事件の弁護活動を行っています。
1921年(大正10)に神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立、翌年には、借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行しました。1923年(大正12)の関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(亀戸事件)において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走します。
また、台湾農民組合騒擾事件、木崎村小作争議をはじめ、各地の小作争議の弁護・救援にもあたりました。1928年(昭和3)の第16回衆議院議員選挙(最初の普通選挙)に労働農民党の公認候補として出馬しましたが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となります。
1929年(昭和4)に日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴され、1930年(昭和5)には、「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所にも起訴されました。1932年(昭和7)に弁護士資格を失った後、翌年に皇太子誕生恩赦で復活、赤色弁護士団事件に関連して、他の日本労農弁護士団員と共に検挙され、1939年(昭和14)には「治安維持法」違反で懲役2年の判決が確定、翌年の紀元2600年恩赦で出獄しています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に自由法曹団を再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表しました。1946年(昭和21)に食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張、1948年(昭和23)には、日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出されています。
1949年(昭和24)に三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となり、1952年(昭和27)の血のメーデー事件の弁護を行なうなど、一貫して人権擁護のために尽力してきましたが、翌年9月13日に、東京において、73歳で亡くなりました。
1902年(明治35)に卒業後、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任したものの、翌年には辞任(挂冠の辞を発表)しました。1904年(明治37)に、東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散、翌年には、東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開きます。
1906年(明治39)に、電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となりました。1917年(大正6)に普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催し、翌年には、米騒動事件の弁護活動を行っています。
1921年(大正10)に神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立、翌年には、借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行しました。1923年(大正12)の関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(亀戸事件)において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走します。
また、台湾農民組合騒擾事件、木崎村小作争議をはじめ、各地の小作争議の弁護・救援にもあたりました。1928年(昭和3)の第16回衆議院議員選挙(最初の普通選挙)に労働農民党の公認候補として出馬しましたが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となります。
1929年(昭和4)に日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴され、1930年(昭和5)には、「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所にも起訴されました。1932年(昭和7)に弁護士資格を失った後、翌年に皇太子誕生恩赦で復活、赤色弁護士団事件に関連して、他の日本労農弁護士団員と共に検挙され、1939年(昭和14)には「治安維持法」違反で懲役2年の判決が確定、翌年の紀元2600年恩赦で出獄しています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に自由法曹団を再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表しました。1946年(昭和21)に食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張、1948年(昭和23)には、日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出されています。
1949年(昭和24)に三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となり、1952年(昭和27)の血のメーデー事件の弁護を行なうなど、一貫して人権擁護のために尽力してきましたが、翌年9月13日に、東京において、73歳で亡くなりました。
〇布施辰治関係略年表
・1880年(明治13)11月13日 宮城県牡鹿郡蛇田村(現在の石巻市蛇田)の農家である父・栄治郎、母・きえの子として生まれる
・189年9(明治32) 「哲学」を勉強するため上京、蛇田でキリスト教に遭い、神田のニコライ堂の学僕となり、明治法律学校(明治大学の前身)へ入学する
・1902年(明治35) 明治法律学校を卒業、判事検事試験登用試験に合格、司法官試補として宇都宮地方裁判所に赴任する
・1903年(明治36) 宇都宮地方裁判所検事代理となったものの、8月に辞任(挂冠の辞を発表)する
・1904年(明治37) 東京小石川初音町に弁護士事務所を開くものの、半年で解散する
・1905年(明治38) 東京四谷南伊賀町に再出発の法律事務所を開き、平沢光子と結婚する
・1906年(明治39) 電車賃値上反対市民大会が端緒となった騒擾事件を弁護、社会運動弾圧事件の法廷に立った最初の事件となる
・1917年(大正6) 普通選挙運動を始め、全国各地で個人演説会を催す
・1918年(大正7) 米騒動事件の弁護活動を行う
・1919年(大正8) 東京の朝鮮基督教青年会館で朝鮮人学生が集会を開き、「独立宣言」を発表して60余名が警察に検挙され、9名が起訴された事件の弁護に加わる
・1920年(大正9) 個人雑誌『法廷より社会へ』を発行し、「自己革命の告白」を発表する
・1921年(大正10) 神戸三菱、川崎両造船大争議に関連して、山崎今朝弥、片山哲らと自由法曹団を創立する
・1922年(大正11) 借家人同盟を創立し、法律知識の啓蒙と借家人の団結を提唱、個人雑誌『生活運動』を発行する
・1923年(大正12) 朝鮮独立運動の義烈団事件弁護のため朝鮮へ渡る、関東大震災下の朝鮮人虐殺事件において、自由法曹団の一員として事件の真相究明・抗議に奔走する
・1924年(大正13) 香川県太田村伏石の小作争議の弁護をする
・1925年(大正14) 群馬県世良田村襲撃事件の弁護、朝鮮水害罹災民救援運動、小樽高商軍事教練への抗議運動をする
・1926年(大正15) 日本労働組合総連合会長となり、朴烈、金子文子大逆事件の大審院特別法廷の弁護をする
・1927年(昭和2) 台湾二林蔗糖農民組合騒擾事件弁護のため渡台、渡朝する
・1928年(昭和3) 第1回普通選挙に労働農民党の公認候補として出馬したが落選、解放運動犠牲者救援会結成に際し法律部長となる
・1929年(昭和4) 日本共産党三・一五検挙の大阪地方裁判所における弁護活動を不当とされて、東京控訴院の懲戒裁判所に起訴される
・1930年(昭和5) 「新聞紙法」違反、「郵便法」違反の容疑で東京区裁判所に起訴される
・1931年(昭和6) 全農全国会議弁護士団結成、幹事長となる
・1932年(昭和7) 大審院の懲戒裁判所で弁護士除名の判決が確定する
・1933年(昭和8) 解放運動犠牲者救援弁護士団と全農全国会議弁護士団が合併して日本労農弁護士団となり、「新聞紙法」違反容疑事件、上告棄却となり「禁固3ヵ月」が確定、東京豊多摩刑務所へ下獄、日本労農弁護士団の治安維持法違反容疑に連座して検挙、拘置されるも、皇太子誕生恩赦により弁護士資格が復活する
・1934年(昭和9) 治安維持法違反容疑で起訴される
・1935年(昭和10) 保釈され、前進座から演劇研究所建設について相談を受ける
・1937年(昭和12) 仙台弁護士会に弁護士登録し、岩手山村の入会権事件の解決に尽力する
・1939年(昭和14) 治安維持法違反容疑事件が上告棄却となり「懲役2年、未決算入200日」が確定、仙台弁護士会の弁護士登録抹消、千葉刑務所へ下獄する
・1940年(昭和15) 神式紀元2600年記念恩赦により減刑され、出獄する
・1944年(昭和19) 三男・杜生が治安維持法違反容疑で京都刑務所にて獄死する
・1945年(昭和20) 自由法曹団再結成し、顧問に推され、弁護士活動を再開、憲法改正の私案も発表する
・1946年(昭和21) 食糧メーデーのプラカードの語句が不敬罪で起訴された事件では無罪を主張する
・1948年(昭和23) 日本労農救援会(のち日本国民救援会)の中央委員長に選出される
・1949年(昭和24) 三鷹事件の弁護団長、松川事件の弁護人となる
・1952年(昭和27) 血のメーデー事件の弁護を行う