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 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始された日です。
 小説『大菩薩峠』(だいぼさつとうげ)は、中里介山著の長編時代小説で、当時では日本一長い小説(全41巻)とも言われました。1913年(大正2)~1941年(昭和16)に、「都新聞」、「毎日新聞」、「読売新聞」など掲載紙を変えながら、28年間にわたって連載されましたが、作者の死によって未完に終わったものです。
 幕末を舞台に、虚無的な浪人剣客机竜之助を主人公とし、甲斐国の大菩薩峠に始まり、全国各地を遍歴しながら、周囲の人々の様々な生き様が描かれました。作者自ら「大乗小説」と呼び、仏教思想に基づいて人間の業相を描こうとしたもので、大衆小説の先駆けとされています。
 同時代の菊池寛、谷崎潤一郎、泉鏡花、芥川龍之介らが賞賛し、以後の大衆文学に大きな影響を与えました。
 以下に、小説『大菩薩峠』の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇中里 介山(なかざと かいざん)とは?

 明治時代から昭和時代に活躍した小説家です。明治時代前期の1885年(明治18)4月4日に、神奈川県西多摩郡羽村(現在の東京都羽村市)で、父・中里弥十郎、母・ハナの次男として生まれましたが、本名は弥之助と言いました。
 1898年(明治31)に西多摩尋常高等小学校を卒業後上京して電話交換手となりますが、1900年(明治33)には、母校の代用教員となります。その後、独学で正教員となり、小説を書くようになって社会主義に接近し、1903年(明治36)に「平民新聞」の懸賞小説に『何の罪』が佳作入選しました。
 翌年日露戦争下において、同誌に反戦詩「乱調激韵」などを発表し、非戦論の立場に立ちます。その後懐疑的になり、宗教的な模索も続けつつ、貧民児童教育に専念しましたが、1906年(明治39)に都新聞に入社(のち社会部長)し、随想集『古人今人』を出しました。
 同紙に『氷の花』(1909年)を連載し、以来、『高野の義人』(1910年)などの時代小説を次々に発表、1913年(大正2)からは、代表作となる『大菩薩峠』の連載を開始します。これによって、一躍文名を高め、大衆文学に新時代を開いたものの、1919年(大正8)に都新聞を退社し、執筆に専念しながら、都会や文壇から離れ、多摩地方に草庵を結びました。
 ここでは、道場や塾を開いて、「敬天愛人克己」をスローガンとする教育にあたり、超然とした生活を送ります。太平洋戦争下で、文芸家協会が日本文学報国会に再編されたときに、入会を拒否するという気概を示しましたが、1944年(昭和19年)4月28日に、腸チフスのため東京都下の病院において、59歳で亡くなりました。

<中里介山の主要な著作>

・小説『何の罪』(1903年)「平民新聞」懸賞小説佳作入選
・小説『笛吹川』(1905年)
・随想集『古人今人』(1906年)
・小説『氷の花』(1909~10年)
・小説『高野(こうや)の義人』(1910年)
・小説『島原城』(1911年)
・小説『室の遊女』(1911年)
・小説『文覚』(1912年)
・小説『夢殿』未完(1929年)
・『日本武術神妙記』(1933年)
・小説『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』(1913~41年)
・小説『黒谷(くろたに)夜話』
・自伝『百姓弥之助の話』
・小説『吉田松陰』

☆中里介山著の小説『大菩薩峠』の冒頭

この小説「大菩薩峠」全篇の主意とする処は、人間界の諸相を曲尽きょくじんして、大乗遊戯(だいじょうゆげ)の境に参入するカルマ曼陀羅(まんだら)の面影を大凡下(だいぼんげ)の筆にうつし見んとするにあり。この着想前古に無きものなれば、その画面絶後の輪郭を要すること是非無かるべきなり。読者、一染(いっせん)の好憎に執し給うこと勿れ。至嘱(ししょく)。
著者謹言

         一

 大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距さる三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂いただきに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋(うめ)て置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの)らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿(しゅく)から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分(おいわけ)を右にとって往(ゆ)くこと十三里、武州青梅(おうめ)の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和(いさわ)へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊(やまとたけるのみこと)、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、降(くだ)って慶応の頃、海老蔵(えびぞう)、小団次(こだんじ)などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内(ぐんない)あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖(おそ)れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
「上野原(うえのはら)へ、盗人(ぬすっと)が入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行はやることやら」
 妙見(みょうけん)の社(やしろ)の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
 右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうが怖(こわ)いのは物持(ものもち)の衆(しゅう)のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で怖(おそ)れて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路(ぶしゅうじ)の方から青葉の茂みをわけて登り来る人影(ひとかげ)があります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
 二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋(いとかわぶくろ)が結びつけられた背負梯子(しょいばしご)へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、社(やしろ)の裏路を黄金沢(こがねざわ)の方へ切れてしまいます。

   「青空文庫」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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