
定火消(じょうびけし)は、江戸幕府の職名の一つで、若年寄の支配下に置かれ、江戸市中の防火、警備を司ったものでした。1857年(明暦3年1月18日)の明暦の大火の翌年に、4000石以上の旗本秋山正房、近藤用将、内藤政吉、町野幸宣の4名を選び、それぞれに火消屋敷を与え、役料300人扶持とし、与力6名、同心30名を付属させ、他に臥煙(がえん)という300人の火消人足を置きます。
1695年(元禄8)に15組に増やされましたが、1704年(宝永元)には、10組に減じられ、これが永制となったため、「十人火消」とも呼ばれ、また「寄合火消」とも言われました。その10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷とされます。
その後、大名火消、ことに1720年(享保5)以降の町火消の整備に伴い、漸次活気を失い、1792年(寛政4)以降は出動も限られ、消火範囲も小さくなりました。そして、 1859年(安政6)には8組に減らされ、1866年(慶応2)には4組となっています。
1695年(元禄8)に15組に増やされましたが、1704年(宝永元)には、10組に減じられ、これが永制となったため、「十人火消」とも呼ばれ、また「寄合火消」とも言われました。その10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷とされます。
その後、大名火消、ことに1720年(享保5)以降の町火消の整備に伴い、漸次活気を失い、1792年(寛政4)以降は出動も限られ、消火範囲も小さくなりました。そして、 1859年(安政6)には8組に減らされ、1866年(慶応2)には4組となっています。
〇江戸の火消関係略年表(日付は旧暦です)
・1643年(寛永20年) 幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して新たな火消役(大名火消)を設ける
・1657年(明暦3年1月18日) 明暦の大火が起き、約500~800町を焼き、焼死者が10万人以上に及んだとされる
・1657年(明暦3年) 方角火消が設置される
・1658年(万治元年9月8日) 江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消制度が始まる
・1659年(万治2年1月4日) 老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なう
・1695年(元禄8年) 定火消組織が15組に増やされる
・1704年(宝永元年) 10組の定火消組織が確立し「十人火消」といわれるようになる
・1720年(享保5年) 約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられる
・1730年(享保15年) いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編する
・1772年(明和9年2月29日) 明和の大火が起き、934町を焼き、死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人を超える
・1806年(文化3年3月4日) 文化の大火が起き、530町を焼き、焼失家屋は12万6,000戸、死者は1200人を超える
・1859年(安政6年) 定火消組織が8組に減らされる
・1866年(慶応2年) 定火消組織が4組に減らされる
〇明暦の大火(めいれきのたいか)とは?
江戸時代前期の1657年(明暦3年1月18日)午後2時頃、北西風が激しく吹く中、江戸の本郷丸山本妙寺で、3人の女が法会(施餓鬼)のため振袖を焼いたのが出火原因となり、大風のため次々と延焼しました。翌日に鎮火するまでに、約500~800町を焼き、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数を焼失、江戸城天守までもが燃え落ち、焼死者が10万人以上に及んだといわれています。
寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。
寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。
☆江戸時代の大火一覧
・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」