今日は、鎌倉時代初期の1189年(文治5)に、源頼朝が28万の大軍を率いて奥州平泉に来攻(奥州合戦)し、藤原泰衡は逃走中に家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏が滅亡した日ですが、新暦では10月14日となります。
奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、この年の7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間での東北地方における一連の戦いの総称ですが、『吾妻鏡』では、奥州征伐としてきました。奥州藤原氏は鎌倉政権を脅かす存在でしたが、さきに秀衡・泰衡父子が義経をかくまっていたことを口実とし、7月19日には頼朝自らが兵を率いて鎌倉を出発、奥州へ向かいます。
頼朝は全軍を東海道軍・大手軍・北陸道軍の三手に分けて奥州へ侵攻し、8月22日には平泉を陥落させました。泰衡は平泉から逃れたものの、9月3日に比内郡贄柵で、家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏は滅亡します。これによって、全国統一を完了し、頼朝による武士政権が確立しました。
頼朝は全軍を東海道軍・大手軍・北陸道軍の三手に分けて奥州へ侵攻し、8月22日には平泉を陥落させました。泰衡は平泉から逃れたものの、9月3日に比内郡贄柵で、家臣・河田次郎に殺され、奥州藤原氏は滅亡します。これによって、全国統一を完了し、頼朝による武士政権が確立しました。
〇奥州合戦関係略年表(日付は旧暦です)
<1189年(文治5)>
・閏4月30日 藤原泰衡の軍勢が衣川館を襲撃し、源義経が自害する
・5月22日 奥州より義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着する
・6月8日 義経滅亡を受けて、後白河法皇より戦闘停止の院宣が鎌倉に届く
・6月13日 藤原高衡が義経の首を鎌倉に持参、和田義盛・梶原景時が実検する
・6月25日 源頼朝が泰衡追討宣旨の発給を朝廷に要請する
・6月26日 奥州で兵乱が起き、藤原忠衡が殺害される
・6月30日 頼朝は奥州征伐について大庭景義に諮問する
・7月16日 泰衡追討の延期を命じる宣旨が鎌倉に届くが、頼朝は宣旨なしでの出兵を決断する
・7月17日 終日審議し、東海道軍・大手軍・北陸道軍の三軍を編成して、進攻ルートを決定する
・7月18日 北陸道軍が鎌倉を出発する
・7月19日 頼朝が率いる大手軍が鎌倉を出発、越後の囚人・城長茂を軍勢に加える
・7月25日 頼朝は下野国古多橋駅に到着、宇都宮社に奉幣する
・7月26日 頼朝は宇都宮を出発、常陸の佐竹秀義を軍勢に加える
・7月28日 新渡戸駅に到着、城長茂の郎従200余人が参集する
・7月29日 頼朝は白河関を通過する
・8月7日 頼朝は国見駅に到着する
・8月8日~10日 阿津賀志山、石那坂、根無藤で戦闘があり、藤原国衡・金剛別当秀綱・佐藤基治・金十郎らが戦死して奥州軍が大敗する
・8月11日 頼朝は船迫宿に到着、国衡の首を実検する
・8月12日 頼朝は多賀城国府に到着、東海道軍が合流する
・8月13日 北陸道軍は出羽国で田川行文・秋田致文を討ち取る
・8月14日 頼朝は玉造郡に発向、小山朝政、物見岡を攻略する
・8月20日 頼朝は玉造郡多加波々城を攻略する
・8月21日 頼朝は平泉に発向、栗原・三迫の要害を攻略して津久毛橋に達するが、泰衡は平泉に火を放って逃走する
・8月22日 平泉が陥落する
・8月25日 衣川館の藤原基成父子が投降する
・8月26日 頼朝の宿所に投降をほのめかす泰衡の書状が投げ込まれる
・9月2日 頼朝は平泉から岩手郡厨河柵に発向する
・9月3日 泰衡が比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害される
・9月4日 頼朝は志波郡に到着、陣岡で北陸道軍が合流する
・9月6日 河田次郎が泰衡の首を陣岡に持参、頼朝は前九年の役の故事に倣い、釘を打ち付けて梟首とする
・9月8日 頼朝は奥州平定の飛脚を京都に送る
・9月9日 一条能保の使者が陣岡に到着、7月19日付の泰衡追討宣旨を持参する
・9月11日 頼朝は陣岡を出て厨河柵に入る
・9月19日 頼朝は厨河柵を出発し、平泉に戻る
・9月22日 頼朝は陸奥国の奉行を葛西清重に命じる
