ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2022年08月

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 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、物理化学者森野米三の生まれた日です。
 森野米三(もりの よねぞう)は、大阪府大阪市において生まれ、今宮中学校(現在の府立今宮高校)、大阪高校を経て、東京帝国大学理学部に入学し、片山正夫に師事しました。1931年(昭和6)に同大学理学部化学科を卒業し、化学研究所の研究生(片山研究室)となり、1937年(昭和12)には、「液体及ビ液体混合物ノ界面自由エネルギーニ就テ」で理学博士を取得します。
 1940年(昭和15)に東京帝国大学助教授となり、翌年には、水島三一郎と共同でラマン分光法を使いエタン誘導体の回転異性体を発見しました。1942年(昭和17)に「分子の基準振動に関する研究」で日本化学会櫻井褒賞を受賞、翌年には、名古屋帝国大学教授となります。
 1945年(昭和20)に東京大学教授を兼任し、1948年(昭和23)に専任となり、1964年(昭和39)には、「気体電子線回折およびマイクロ波分光による分子構造の研究」で日本学士院賞を受賞しました。1969年(昭和44)に東京大学を定年退官し、名誉教授となり、翌年に相模中央化学研究所所長、1971年(昭和46)には社団法人日本化学会会長となります。
 1972年(昭和47)に財団法人相模中央化学研究所副理事長となり、1973年(昭和48)には、「分子構造の研究」で藤原賞を受賞しました。1976年(昭和51)に分子科学研究所評議員、財団法人東レ科学振興会評議員となり、1978年(昭和53)には、財団法人相模中央化学研究所最高顧問となります。
 構造化学分野の創始に貢献したことにより、1980年(昭和55)に勲二等瑞宝章を受章、翌年には、文化功労者顕彰を受けました。1982年(昭和57)に財団法人伊藤科学振興会評議員、財団法人東レ科学振興会理事、1984年(昭和59)に岡崎国立共同研究機構分子科学研究所研究顧問となり、1985年(昭和60)には、私財5千万円で「公益信託分子科学研究奨励森野基金」を設立します。
 1992年(平成4)に文化勲章を受章、1993年(平成5)には、財団法人相模中央化学研究所顧問となったものの、1995年(平成7)10月24日に、神奈川県において、87歳で亡くなりました。

〇森野米三関係略年表

・1908年(明治41)8月31日 大阪府大阪市において生まれる
・1931年(昭和6) 東京帝国大学理学部化学科を卒業し、化学研究所の研究生(片山研究室)となる
・1937年(昭和12) 東京帝国大学助手となり、「液体及ビ液体混合物ノ界面自由エネルギーニ就テ」で理学博士を得る
・1940年(昭和15) 東京帝国大学助教授となる
・1941年(昭和16) 水島三一郎と共同でラマン分光法を使いエタン誘導体の回転異性体を発見する
・1942年(昭和17) 「分子の基準振動に関する研究」で日本化学会櫻井褒賞を受賞、名古屋帝国大学講師となる
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学教授となる
・1945年(昭和20) 東京大学教授を兼任する
・1948年(昭和23) 東京大学教授専任となる
・1964年(昭和39) 「気体電子線回折およびマイクロ波分光による分子構造の研究」で日本学士院賞を受賞する
・1969年(昭和44) 東京大学を定年退官し、名誉教授となる
・1970年(昭和45) 相模中央化学研究所所長となる
・1971年(昭和46) 社団法人日本化学会会長となる
・1972年(昭和47) 財団法人相模中央化学研究所副理事長となる
・1973年(昭和48) 「分子構造の研究」で藤原賞を受賞する
・1976年(昭和51) 分子科学研究所評議員、財団法人東レ科学振興会評議員となる
・1978年(昭和53) 財団法人相模中央化学研究所最高顧問となる
・1980年(昭和55) 勲二等瑞宝章を受章する
・1981年(昭和56) 文化功労者顕彰を受ける
・1982年(昭和57) 財団法人伊藤科学振興会評議員、財団法人東レ科学振興会理事となる
・1984年(昭和59) 岡崎国立共同研究機構分子科学研究所研究顧問となる
・1985年(昭和60) 私財5千万円で「公益信託分子科学研究奨励森野基金」を設立する
・1992年(平成4) 文化勲章を受章する
・1993年(平成5) 財団法人相模中央化学研究所顧問となる
・1995年(平成7)10月24日 神奈川県において、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家、南画家小室翠雲の誕生日詳細
1878年(明治11)日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の誕生日詳細
1896年(明治29)陸羽地震(マグニチュード7.2)が起こり、死者209人、負傷者779人を出す詳細
1913年(大正2)お雇い外国人であるドイツ人医師E・von ベルツの命日詳細
1970年(昭和45)小説家・検察官・弁護士佐賀潜の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、江戸幕府が古賀謹一郎を頭取として、九段下に洋学所(後の蕃書調所)を設立した日ですが、新暦では10月10日となります。
 洋学所(ようがくしょ)は、江戸幕府が、1855年(安政2)に設けた洋学研究機関で、後に蕃書調所、そして開成所(東京大学の前身の一つ)に発展しました。1744年(延享元)に江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が外神田に天文台を建て、1811年(文化8)に天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられて、蘭学等の研究が行われます。
 しかし、1853年(嘉永6)に黒船(ペリー艦隊)が来航して開国を要求、翌年に「日米和親条約」が締結される中で、専任の外交担当官と翻訳官が必要となり、蕃書和解御用方が多忙となりました。蘭学にとどまらない洋学研究の必要が痛感され、1855年(安政2)に御用方は、古賀謹一郎を頭取として、「洋学所」と改めて独立したものの、同年10月2日の安政江戸地震で建物が全壊焼失してしまいます。
 そこで、1856年(安政3年2月11日)に幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称し、江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に建物を建てることとし、翌年1月18日に開場、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになりました。同所の役割は、洋書洋文の翻訳・研究、洋学教育、洋書・翻訳書などの検閲、印刷・出版、一部の技術伝習とされ、これを担当する教授方には、箕作阮甫、杉田成卿、松木弘安(のちの寺島宗則)、村田蔵六(のちの大村益次郎)ら著名な洋学者が任ぜられ、生徒数は100人ほどとなります。
 1858年(安政5)からは、藩士の入学も認められるようになり、1860年(万延元)に小川町に移転、英・仏・独の外国語、および精煉・器械・物産・数学などの科学技術部門諸科が次々に開設されていきました。1862年(文久2)に一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)の広大な建物に移転し、「洋書調所」と改称してに開校、翌年には、「開成所」となります。
 1864年(元治元)に「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められましたが、1868年(明治元)に幕府が倒れると、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称されました。翌年には、大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となり、1877年(明治10)には、東京医学校と統合されて、東京大学が設立されています。 

〇洋学所(後の蕃書調所)関係略年表(日付は旧暦です)

・1744年(延享元年) 徳川吉宗が外神田に天文台を建てる
・1811年(文化8年) 天文方から新しく蕃書和解(ばんしょわげ)御用方が設けられる
・1853年(嘉永6年6月) 黒船(ペリー艦隊)が来航する
・1854年(安政元年3月) 「日米和親条約」締結の中で、蕃書和解御用方が多忙となる
・1855年(安政2年8月30日) 御用方は、古賀謹一郎を頭取として、「洋学所」と改めて独立する
・1855年(安政2年10月2日) 安政江戸地震で全壊焼失する
・1856年(安政3年2月11日) 幕府は洋学所を「蕃書調所」と改称する
・1856年(安政3年2月13日) 江戸飯田町九段坂下の竹本正雅(図書頭、中奥小姓)屋敷地に設立する
・1857年(安政4年1月18日) 開場し、幕府旗本・御家人等の子弟も洋学教育を受けられるようになる
・1858年(安政5年) 藩士の入学も認められるようになる
・1860年(万延元年) 小川町に移転する
・1860年(万延元年7月) プロシア東洋遠征艦隊来航の際、蕃書調所の市川斎宮が「独逸学」を学ぶ公命を受ける
・1862年(文久2年) 学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り、幕府官立学校となる
・1862年(文久2年) 洋書調所に独逸学科が開設される
・1862年(文久2年5月18日) 一橋門外護持院原(神田一ツ橋通り)に移転する
・1862年(文久2年5月23日) 「洋書調所」と改称してに開校する
・1863年(文久3年8月29日) 洋書調所を「開成所」に改称する
・1864年(元治元年) 「開成所規則」が制定され、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語の5ヶ国語のほか、天文学、地理学、窮理学、数学、物産学、化学、器械学、画学、活字術の9学科が定められる
・1868年(明治元年) 幕府が倒れ、開成所は明治新政府に接収され、官立の開成学校と改称される
・1869年(明治2年12月17日) 大学南校(現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身)となる(医学校が大学東校)
・1877年(明治10年) 東京医学校と統合されて、東京大学が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)洋画家原田直次郎の誕生日(新暦10月12日)詳細
1872年(明治5)「各地ノ風習舊慣ヲ私法ト爲ス等申禁解禁ノ條件」(大蔵省達第118号)が出される(新暦10月2日)詳細
1900年(明治33)幸徳秋水の『自由党を祭る文』が「万朝報」に掲載される詳細
1941年(昭和16)「金属類回収令」が公布される詳細
1984年(昭和59)小説家・劇作家・演出家有吉佐和子の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まった日です。
 三井三池争議(みついみいけそうぎ)は、三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)で起こった労働争議のことで、1953年(昭和28)にも大規模なものが有りましたが、一般的には、1959年(昭和34)から翌年にかけてのものを指します。石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景に、1955年(昭和30)に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになりました。
 1959年(昭和34)、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切ります。その中で、1959年(昭和34)1月19日、三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示し、同年8月29日には4,580人の人員削減案を発表しました。
 続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人に対し12月11日に指名解雇を通告します。しかし、そこには労働組合つぶしをねらった、約300人の職場活動家の解雇問題がありました。
 労働組合側はこれに強く反発し、日本労働組合総評議会(総評)、日本炭鉱労働組合 (炭労) の支援で白紙撤回を要求して対立し、会社側は翌年1月25日に、同鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入します。財界が三井鉱山を全面的に支援、一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援し、全国から応援されたので、この争議は“総資本対総労働の対決”などと呼ばれ、折からの安保反対闘争と結びついて大規模な闘いとなりました。
 しかし、1960年(昭和35)3月に三池労組内に第2組合が結成されるなど労働組合側の足並みが乱れ、中央労働委員会の斡旋も不調に終わります。最後は、三川坑のホッパー(貯炭槽)を巡っての対立となり死傷者も出ましたが、同年11月1日に、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件で、282日に及ぶストライキは中止され、終結に向かいました。

〇三井三池争議関係略年表

・1955年(昭和30) 「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになる
・1959年(昭和34) 石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切る
・1959年(昭和34)1月19日 三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示する
・1959年(昭和34)8月29日 4,580人の人員削減案を発表する
・1959年(昭和34)12月2日・3日 1,492人に退職を勧告する
・1959年(昭和34)12月11日 退職勧告に応じない1,278人に対し指名解雇を通告する
・1960年(昭和35)1月25日 会社側は三井鉱山鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入する
・1960年(昭和35)3月17日 三池労組内に第2組合(三池炭鉱新労働組合:三池新労)が結成される
・1960年(昭和35)3月18日 三井鉱山社員労組連合会(三社連)は炭労を脱退し、正式にストから離脱する
・1960年(昭和35)3月29日 ピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される
・1960年(昭和35)4月6日 中労委から出された斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱が分かれる
・1960年(昭和35)4月9日 炭労臨時大会では、強行に闘争完遂を訴える三池労組に対し、他の5労組(美唄、芦別、田川、砂川、山野)は、早期妥結を求めたため、対立する
・1960年(昭和35)4月18日 三池労組は三鉱連を脱退する
・1960年(昭和35)7月7日 石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下す
・1960年(昭和35)8月10日 中央労働委員会は、会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという斡旋案を発表する
・1960年(昭和35)11月1日 会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件でストライキが中止される

☆三池炭鉱(みいけたんこう)とは?

 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていました。
 明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発していきます。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成しました。
 太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に「三井三池争議」が勃発して、大きな社会問題となります。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出しました。その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至ります。
 閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されました。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されています。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されました。 

☆三井三池炭鉱三川鉱の爆発事故とは?

 昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した事故の事です。この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1835年(天保6)南画家田能村竹田の命日(新暦10月20日)詳細
1863年(文久3)江戸幕府が洋書調所を開成所と改称する(新暦10月11日)詳細
1900年(明治33)洋画家牛島憲之の誕生日詳細
1910年(明治43)「韓国併合ニ関スル条約」が発効する詳細
1918年(大正7)奈良県生駒山に日本初のケーブルカー(生駒鋼索鉄道)が開業する詳細
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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、台風による別子大水害が起き、別子銅山で死者513人を出し、大量の鉱毒水が流出した日です。
 別子大水害(べっしだいすいがい)は、台風によって、愛媛県宇摩郡別子山村(現在の新居浜市)の別子銅山及び周辺で発生した土砂災害(山津波)でした。この日の午後、台風が足摺岬付近に上陸し、四国地方を斜めに横切り、午後8時頃には別子銅山を直撃、時速95kmの猛スピードで香川県多度津から岡山付近を通り日本海に抜けます。
 これによって、別子銅山では日降水量が325mmとなり、特に午後8時20分~9時までの40分間に極めて強い集中豪雨となり、午後8時過ぎに土石流が発生し、採鉱・製錬の中心であった旧別子地区の住宅や鉱山施設を襲い、建物が崩壊、流出しました。このため、別子銅山で死者513人、負傷者28人、家屋の全壊・流失122戸、半壊37戸という大災害となり、大量の鉱毒水も流出します。
 被害が大きかったのは、薪炭材にするための樹木の切り倒しや鉱山による煙害の影響で周囲にはげ山が多かったためとも言われてきました。その後、新居浜市の瑞応寺には、別子銅山遭難流亡者碑が建立されています。
 尚、これを含め、台風による被害は、愛媛、香川、高知、徳島、岡山、兵庫6県の合計で、死者1,218人、負傷者3,672人、家屋全潰・流失20,530戸に及びました。

〇明治時代の大水害一覧

・1870年(明治3年9月18日) 明治3年近畿風水害
・1871年(明治4年5月10日) 明治4年兵庫、神戸両港暴風雨
・1871年(明治4年5月17日~18日) 明治4年西日本風水害
・1874年(明治7年)8月21日 明治7年8月台風、九州北部風水害
・1884年(明治17年)8月25日~26日 明治17年8月、明治期最大の台風
・1884年(明治17年)9月15日~18日 明治17年9月台風連続襲来
・1885年(明治18年)6月15日~19日、25日~7月3日 明治18年淀川大洪水「枚方切れ」…浸水71,000戸、損壊15,000戸、流失1,600戸、被災27万人
・1889年(明治22年)8月18日~21日 明治22年8月台風、十津川大水害(奈良・和歌山県)…死者1,415人、全壊・流出家屋5,625戸
・1889年(明治22年)9月11日~12日 明治22年9月台風、吉良町など愛知県に集中被害
・1896年(明治29年)7月20日~23日 明治29年梅雨前線豪雨「信濃川横田切れ、東日本大水害」…床下・床上浸水43,600戸、足尾鉱毒土砂流れ稲に被害
・1896年(明治29年)8月30日~31日 明治29年8月台風、愛知県下風水害
・1896年(明治29年)9月3日~16日 明治29年9月秋雨前線+台風、琵琶湖/淀川、木曽川、利根川水系氾らん…足尾鉱毒関東一円に拡大
・1898年(明治31年)9月6日~8日 明治31年9月台風…山梨県中心に中部、関東、北海道に被害
・1899年(明治32年)8月28日 明治32年8月台風、別子大水害…別子銅山山津波で潰滅
・1899年(明治32年)9月6日~8日 明治32年九頭竜川(福井県)大洪水 
・1902年(明治35年)8月7日~12日 明治35年8月台風…九州、中国、中部地方、東京に大被害
・1902年(明治35年)9月27日~29日 明治35年9月「足尾台風」…死者・行方不明者400名以上、家屋の全壊・流出約30,000戸以上 
・1905年(明治38年)8月8日 明治38年8月台風…北九州地方に大災害もたらす
・1906年(明治39年)7月28日 明治39年7月台風…東京市内洪水
・1907年(明治40年)8月24日~28日 明治40年の大水害(山梨県)、二つの台風に刺激を受け、梅雨前線豪雨本州一帯を襲う
・1910年(明治43年)8月6日~15日 明治43年関東大水害「庚戌(かのえいぬ)の大洪水」…死者・行方不明者900人を超える
・1911年(明治44年)8月8日 明治44年稗田山(ひえだやま)崩れ…日本三大崩れ 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

718年(養老2)貴族・歌人大伴家持の命日(新暦10月5日)詳細
1253年(建長5)日本の曹洞宗開祖道元の命日(新暦9月22日)詳細
1597年(慶長2)室町幕府第15代将軍だった足利義昭の命日(新暦10月9日)詳細
1923年(大正12)「盲学校及聾唖学校令」(大正12年勅令第375号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1967年(昭和42)新潟県、山形県を襲った羽越豪雨(羽越水害)において大きな被害が出る詳細
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 今日は、明治時代後期の1899年(明治32)に、東武鉄道初の路線である北千住駅~久喜駅間が開業した日です。
 東武鉄道(とうぶてつどう)は、関東地方の東京都、埼玉県、千葉県、群馬県、栃木県に鉄道路線を持つ、JRグループを除く日本の民営鉄道の中では第2位の路線網を有する会社です。鉄道以外の交通・流通・住宅・レジャーなどの関連会社からなる東武グループの中核となってきました。
 1897年(明治30)に企業設立され、1899年(明治32)8月27日に、北千住~久喜間から営業を開始、1910年(明治43)最初に伊勢崎線が全通します。それ以後、1912年(明治45)に佐野鉄道、1913年(大正2)に太田軽便鉄道、1920年(大正9)に東上鉄道、1944年(昭和19)総武鉄道、1947年(昭和22)に東武自動車、日光軌道を合併・買収して大きくなってきました。
 1948年(昭和23)からは、日光・鬼怒川特急の運転も開始します。また、1962年(昭和37)から伊勢崎線が北千住駅で地下鉄日比谷線と相互乗入れし、1987年(昭和62)より東上線が和光市駅で地下鉄有楽町線と相互乗入れを開始、2008年(平成20)には地下鉄副都心線とも相互乗入れを始めました。

〇東武鉄道関係略年表

・1895年(明治28)4月6日:創立願いが出される
・1896年(明治29)10月16日:創立総会が開催される
・1897年(明治30)9月3日:本免許状下付(北千住~足利間)される
・1897年(明治30)11月1日:企業創立され、登記完了する
・1899年(明治32)8月27日:初の路線で現在の伊勢崎線となる北千住駅~久喜駅間開業する
・1905年(明治38):営業不振により、根津嘉一郎(初代)を初代東武鉄道社長に迎える
・1906年(明治39)3月25日:貴族院での「鉄道国有法」修正可決案で東武鉄道が買収対象から除外される
・1910年(明治43):伊勢崎線が全通する
・1912年(明治45)3月30日:佐野鉄道(現在の佐野線)を合併する
・1913年(大正2)3月:太田軽便鉄道(現在の桐生線)を合併する
・1920年(大正9)7月22日:東上鉄道(現在の東上本線)と対等合併する
・1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により被災。
・1927年(昭和2)10月1日:後の伊香保軌道線(1956年廃止)を東京電燈から買収する
・1929年(昭和4)10月1日:日光線が全通する
・1931年(昭和6)5月25日:浅草雷門駅(現在の浅草駅)に乗り入れ、東京地下鉄道(現在の東京メトロ〉の銀座線と接続する
・1931年(昭和6)8月11日:宇都宮線が開業する
・1931年(昭和6)11月1日:浅草駅の駅ビルに松屋が入店する
・1931年(昭和6)12月20日:西板線のうち、西新井駅~大師前駅間(現在の大師線)が先行開業する
・1933年(昭和8)10月27日:傍系バス会社として毛武自動車(東武バスの前身)が設立される
・1934年(昭和9)4月1日:川越地区で直営バス事業を開始する
・1936年(昭和11)9月8日:毛武自動車が東武自動車に社名変更する
・1937年(昭和12)1月10日:上州鉄道(現在の小泉線)を合併する
・1938年(昭和13)4月17日:本社社屋が完成する
・1938年(昭和13)8月:「陸上交通事業調整法」が施行され、東武鉄道が北関東地域における統合主体となる
・1939年(昭和14)6月1日:東武自動車が東武鉄道の直営バス事業を継承してバス事業を一元化する
・1943年(昭和18)5月1日:下野電気鉄道(現在の鬼怒川線)を合併する
・1943年(昭和18)7月1日:越生鉄道(現在の越生線)を合併する
・1944年(昭和19)3月1日:総武鉄道(現在の野田線)を合併する
・1946年(昭和21)3月25日:啓志線全線が開通する
・1947年(昭和22)5月31日:日光軌道(後の日光軌道線)、傍系のバス会社である東武自動車を合併する
・1948年(昭和23)8月6日:日光~鬼怒川特急の運転を開始する
・1949年(昭和24)4月3日:東上本線寄居駅から秩父鉄道秩父本線への旅客列車乗り入れを開始する
・1950年(昭和25)10月5日:日光普通索道線 (0.3km) が開通する
・1955年(昭和30)7月2日:東武鉄道最初の夜行列車として不定期列車「日光山岳夜行」が運転される
・1956年(昭和31):桐生線新大間々駅(現・赤城駅)から上毛電気鉄道上毛線に乗り入れる急行「じょうもう」の運転が開始される
・1959年(昭和34)4月1日:東上線で蒸気機関車の運転を廃止する
・1959年(昭和34)7月1日:矢板線が廃止される
・1960年(昭和35)10月:デラックスロマンスカー(DRC)1720系が日光・鬼怒川特急に就役する
・1962年(昭和37)5月31日:伊勢崎線が帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)日比谷線と相互直通運転を開始する
・1966年(昭和41)7月1日:本線で蒸気機関車の運転を廃止する
・1968年(昭和43)2月25日:日光軌道線廃止により、軌道路線が全廃となる
・1972年(昭和47)7月11日:伊勢崎線・東上線において冷房車の営業運転を開始する
・1974年(昭和49)7月2日:伊勢崎線北千住駅~竹ノ塚駅間を複々線化する
・1981年(昭和56)3月28日:東武動物公園が開園する
・1981年(昭和56)4月29日:全ての乗合バスをワンマン運転化する
・1983年(昭和58)6月1日:熊谷線が廃止される
・1986年(昭和61)10月9日:鬼怒川線が野岩鉄道会津鬼怒川線と相互直通運転を開始する
・1987年(昭和62)8月25日:東上本線和光市駅~志木駅間を複々線化、帝都高速度交通営団有楽町線と相互直通運転を開始する
・1989年(平成元)5月20日:伊勢崎線東向島駅高架下に東武博物館が開館する
・1990年(平成2)6月1日:100系(愛称:スペーシア)が日光~鬼怒川特急に就役する
・1992年(平成4)4月1日:東上本線の秩父鉄道秩父本線への定期旅客列車の乗り入れが廃止される
・1993年(平成5)4月24日:東武ワールドスクウェアが開園する
・1997年(平成9)3月25日:伊勢崎線北千住駅の大規模改良工事、草加駅~越谷駅間の連続立体交差化と複々線化が完成する
・2002年(平成14)9月30日:バス事業本部を廃止する
・2003年(平成15)3月19日:伊勢崎線にて帝都高速度交通営団半蔵門線・東京急行電鉄田園都市線と相互直通運転を開始する
・2006年(平成18)3月18日:日光線と東日本旅客鉄道(JR東日本)宇都宮線(東北本線)と相互直通運転する特急「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」を新設する
・2008年(平成20)6月14日:東上本線が東京メトロ副都心線開業に伴い同線と相互直通運転を開始する
・2013年(平成25)3月16日:東上本線が、東急東横線の渋谷駅~代官山駅間の地下化工事の完成により東京メトロ副都心線を介して東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転を開始する
・2017年(平成29)8月10日:鬼怒川線で「SL大樹」の運行を開始する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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858年(天安2)第55代の天皇とされる文徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
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1896年(明治29)詩人・童話作家宮沢賢治の誕生日詳細
1949年(昭和24)GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出される詳細
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