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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、三井鉱山が「第二次企業整備案」を提示し、三井三池争議が始まった日です。
 三井三池争議(みついみいけそうぎ)は、三井鉱山三池鉱業所(福岡県大牟田市)で起こった労働争議のことで、1953年(昭和28)にも大規模なものが有りましたが、一般的には、1959年(昭和34)から翌年にかけてのものを指します。石炭から石油へのエネルギー転換政策を背景に、1955年(昭和30)に「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになりました。
 1959年(昭和34)、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切ります。その中で、1959年(昭和34)1月19日、三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示し、同年8月29日には4,580人の人員削減案を発表しました。
 続いて12月2日・3日には1,492人に退職を勧告し、これに応じない1,278人に対し12月11日に指名解雇を通告します。しかし、そこには労働組合つぶしをねらった、約300人の職場活動家の解雇問題がありました。
 労働組合側はこれに強く反発し、日本労働組合総評議会(総評)、日本炭鉱労働組合 (炭労) の支援で白紙撤回を要求して対立し、会社側は翌年1月25日に、同鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入します。財界が三井鉱山を全面的に支援、一方、日本労働組合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支援し、全国から応援されたので、この争議は“総資本対総労働の対決”などと呼ばれ、折からの安保反対闘争と結びついて大規模な闘いとなりました。
 しかし、1960年(昭和35)3月に三池労組内に第2組合が結成されるなど労働組合側の足並みが乱れ、中央労働委員会の斡旋も不調に終わります。最後は、三川坑のホッパー(貯炭槽)を巡っての対立となり死傷者も出ましたが、同年11月1日に、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件で、282日に及ぶストライキは中止され、終結に向かいました。

〇三井三池争議関係略年表

・1955年(昭和30) 「石炭鉱業合理化臨時措置法」が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになる
・1959年(昭和34) 石炭大手18社は炭価引下げのため11万人もの大規模整理を含む合理化の実施に踏み切る
・1959年(昭和34)1月19日 三井鉱山は6,000人の希望退職を含む会社再建案を提示する
・1959年(昭和34)8月29日 4,580人の人員削減案を発表する
・1959年(昭和34)12月2日・3日 1,492人に退職を勧告する
・1959年(昭和34)12月11日 退職勧告に応じない1,278人に対し指名解雇を通告する
・1960年(昭和35)1月25日 会社側は三井鉱山鉱業所のロックアウトを強行し、組合側は無期限ストライキに突入する
・1960年(昭和35)3月17日 三池労組内に第2組合(三池炭鉱新労働組合:三池新労)が結成される
・1960年(昭和35)3月18日 三井鉱山社員労組連合会(三社連)は炭労を脱退し、正式にストから離脱する
・1960年(昭和35)3月29日 ピケを張っていた三池労組の組合員・久保清が暴力団員に刺殺される
・1960年(昭和35)4月6日 中労委から出された斡旋案(藤林斡旋案)に対し、三鉱連内部でその取扱が分かれる
・1960年(昭和35)4月9日 炭労臨時大会では、強行に闘争完遂を訴える三池労組に対し、他の5労組(美唄、芦別、田川、砂川、山野)は、早期妥結を求めたため、対立する
・1960年(昭和35)4月18日 三池労組は三鉱連を脱退する
・1960年(昭和35)7月7日 石炭を出荷まで貯めておく貯炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止の仮処分を福岡地裁が下す
・1960年(昭和35)8月10日 中央労働委員会は、会社は指名解雇を取り消す代わりに、整理期間の終了を待って、指名解雇された労働者は自然に退職したものとみなすという斡旋案を発表する
・1960年(昭和35)11月1日 会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの会社側に有利な条件でストライキが中止される

☆三池炭鉱(みいけたんこう)とは?

 福岡県大牟田市に、平成時代の1997年(平成9)まであった炭鉱です。この地での石炭掘削の歴史は古く、室町時代には発見されていたと伝えられ、江戸時代には、三池藩の直轄で行われていました。
 明治維新後の1873年(明治6)には、工部省がこれらの炭鉱の官有を決定して、開発していきます。しかし、1889年(明治22)に民間に払い下げられて、三井財閥の所有する所となり、かの団琢磨が技師として、腕を振るい、かつての大炭坑地帯を形成しました。
 太平洋戦争後、石炭産業が斜陽化していく中で、1959年(昭和34)に「三井三池争議」が勃発して、大きな社会問題となります。1963年(昭和38)には、三川鉱で爆発事故が発生して 458人の犠牲者を出しました。その後、石炭需要の減少により、1997年(平成9)3月30日閉山するに至ります。
 閉山後、関連施設が国の重要文化財や史跡に指定されました。また、2007年(平成19)11月30日に経済産業省により、近代化産業遺産として三池炭鉱関連遺産が認定されています。さらに、宮原坑と万田坑は、2015年(平成27)に「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界遺産の文化遺産に登録されました。 

☆三井三池炭鉱三川鉱の爆発事故とは?

 昭和時代中期の1963年(昭和38)に、三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)で粉塵爆発が起き、死者458人、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出した事故の事です。この日の午後3時12分に、第1斜坑で石炭を満載した炭車の連結器が破断して炭車が暴走し、坑内に積もっていた炭塵が舞い上がって、それに引火爆発しました。
 当時坑内には、約1,400人の労働者が従事していて、458人が死亡(爆死20人、一酸化炭素中毒死438人)し、救出された940人の内、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839人を出しましたが、犠牲者数は戦後日本の炭坑爆発事故中最大のものです。

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