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 今日は、江戸時代中期の1757年(宝暦7)に、柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)ですが、新暦では10月7日となります。
 川柳(せんりゅう)は、江戸中期から盛んになった、前句付から独立し、一七音を基準とした雑俳様式でした。発句(ほつく)のように季語や切れ字などの制約はなく、自由な口語詩として流行し、人事人情を対象にして簡潔、滑稽、機知、風刺、奇警を特徴としています。
 1757年(宝暦7)に、柄井川柳が点者(選者)となって前句付(7・7の下句を題として前句5・7・5をつけさせる)の勝句を集めた川柳評万句合を興行し、これを集めて版行した『川柳評万句合』は、江戸庶民の間で評判となりました。その点者、柄井川柳が代表的存在であったところから「川柳」の名称が誕生します。

〇柄井川柳(からい せんりゅう)とは?

 江戸時代中期の前句付点者です。1718年(享保3)に、代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系に生まれましたが、幼名は勇之助(のち正通)と言いました。初め談林派の点者であったともいわれますが、1755年(宝暦5)38歳のときに家を継いで名主となります。
 1757年(宝暦7年8月25日)に前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行し、山手を中心地盤に、以後毎年8月から年末まで、月3回5のつく日に句合を興行しました。1762年(宝暦12)には応募句が1万句を超して人気を博し、明和年中(1764~72年)には江戸の第一人者となります。
 1765年(明和2)に、その選句の中から前句付作者呉陵軒可有の協力を得て756句選び、前句抜きで『誹風柳多留 (はいふうやなぎだる) 』として出版しました。これによって、いわゆる川柳というジャンルを確立し、その後『誹風柳多留』は 24編出版されましたが、1790年(寛政2年9月23日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、川柳の号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれてきました。

☆『誹風柳多留』の代表的な句

・「侍が来ては買ってく高楊枝」
・「役人の子はにぎにぎを能く覚え」
・「芭蕉翁ぽちゃんと云ふと立ちどまり」
・「五右衛門はなまにえの時一首よみ」
・「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」
・「是小判たった一晩居てくれろ」
・「駿河丁畳のうへの人通り」
・「けんやくを武芸のようにいゝ立てる」
・「人は武士なぜ蔵宿にあてがわれ」
・「抜けば抜け後で竹とはいはさぬぞ」
・「いにしへは某今はなにもなし」
・「れんこんはここらを折れと生まれつき」
・「百両をほどけば人をしさらせる」
・「駕籠賃をやつて女房はつんとする」
・「初鰹家内残らず見た計」
・「母親はもつたいないがだましよい」
・「碁敵は憎さも憎しなつかしさ」
・「寝てゐても団扇の動く親心」
・「後家の質男ものから置きはじめ」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細