
横田喜三郎(よこた きさぶろう)は、愛知県丹羽郡栄村赤童子(現在の江南市赤童子)において、呉服商兼農家を営む父・岩田藤治郎の三男として生まれました。高等小学校卒業後、家の仕事をしながら独学で勉強し、名古屋中学校3年に編入、1916年(大正5)に同校を卒業します。
その後、第八高等学校を経て、1922年(大正11)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同法学部助手となりました。1924年(大正13)に助教授に昇任し、1930年(昭和5)には、教授となり、ロンドン海軍軍縮会議の日本政府代表団随員として若槻禮次郎首席全権を補佐します。
満州事変以後の軍国主義時代に国際平和主義に基づき批判的立場を守り、終始日本軍国主義批判を貫きました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に学位論文「国際裁判の本質」によって、法学博士を得て、1948年(昭和23)には、東京大学法学部長となります。
1949年(昭和24)に著書『天皇制』などにおいて、積極的な天皇制否定論を提唱、1949年(昭和24)には、日本学士院会員となりました。1955年(昭和30)に国際法学会の理事長となり、1957年(昭和32)には、東京大学教授を退官、国連国際法委員会委員に就任、東京大学名誉教授の称号を受けます。
1958年(昭和33)に日本ユネスコ国内委員会委員となり、1959年(昭和34)には同委員会副会長となりました。1960年(昭和35)に第3代最高裁判所長官に就任、1965年(昭和40)に常設仲裁裁判所判事となり、1966年(昭和41)に最高裁判所長官を定年退官し、勲一等旭日大綬章を受章しています。
1974年(昭和49)に津田塾大学理事長となり、1975年(昭和50)に文化功労者、1977年(昭和52)には、勲一等旭日桐花大綬章を受章しました。1980年(昭和57)に日本国際賞準備財団(現在の国際科学技術財団)の理事長となり、1981年(昭和56)には、文化勲章を受章、1983年(昭和58)には、紺綬褒章及び賞杯を受賞します。
その後、第八高等学校を経て、1922年(大正11)に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同法学部助手となりました。1924年(大正13)に助教授に昇任し、1930年(昭和5)には、教授となり、ロンドン海軍軍縮会議の日本政府代表団随員として若槻禮次郎首席全権を補佐します。
満州事変以後の軍国主義時代に国際平和主義に基づき批判的立場を守り、終始日本軍国主義批判を貫きました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に学位論文「国際裁判の本質」によって、法学博士を得て、1948年(昭和23)には、東京大学法学部長となります。
1949年(昭和24)に著書『天皇制』などにおいて、積極的な天皇制否定論を提唱、1949年(昭和24)には、日本学士院会員となりました。1955年(昭和30)に国際法学会の理事長となり、1957年(昭和32)には、東京大学教授を退官、国連国際法委員会委員に就任、東京大学名誉教授の称号を受けます。
1958年(昭和33)に日本ユネスコ国内委員会委員となり、1959年(昭和34)には同委員会副会長となりました。1960年(昭和35)に第3代最高裁判所長官に就任、1965年(昭和40)に常設仲裁裁判所判事となり、1966年(昭和41)に最高裁判所長官を定年退官し、勲一等旭日大綬章を受章しています。
1974年(昭和49)に津田塾大学理事長となり、1975年(昭和50)に文化功労者、1977年(昭和52)には、勲一等旭日桐花大綬章を受章しました。1980年(昭和57)に日本国際賞準備財団(現在の国際科学技術財団)の理事長となり、1981年(昭和56)には、文化勲章を受章、1983年(昭和58)には、紺綬褒章及び賞杯を受賞します。
1990年(平成2)に国際科学技術財団会長となりましたが、1993年(平成5)に、東京において96歳で亡くなり、叙・従二位、賜・銀杯一組を追贈されました。
〇横田喜三郎の主要な著作
・『国際法』(1933年)
・『国際裁判の本質』(1941年)
・『戦争犯罪論』(1949年)
・『天皇制』(1949年)
・『国際法の基礎理論』(1949年)
・『自衛権』(1951年)
・『純粋法学』(1957年)
・『海の国際法』共著(1959年)
・『外交関係の国際法』(1963年)
・『違憲審査』(1968年)
・『世界と共に歩む』(1991年)
☆横田喜三郎関係略年表
・1896年(明治29)8月6日 愛知県丹羽郡栄村赤童子(現在の江南市赤童子)において、呉服商兼農家を営む父・岩田藤治郎の三男として生まれる。高等小学校卒業後、家の仕事をしながら独学で勉強し、
・1916年(大正5) 名古屋中学校を卒業する
・1922年(大正11)3月 東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同法学部助手(国際法の立作太郎が指導教官)となる
・1924年(大正13)4月 東京帝国大学助教授となる
・1930年(昭和5) 東京帝国大学教授となり、ロンドン海軍軍縮会議の日本政府代表団随員として若槻禮次郎首席全権を補佐する
・1945年(昭和20)9月 学位論文「国際裁判の本質」によって、法学博士を得る
・1948年(昭和23)12月13日 東京大学法学部長となる
・1949年(昭和24) 著書『天皇制』などにおいて、積極的な天皇制否定論を提唱する
・1949年(昭和24)10月 日本学士院会員となる
・1951年(昭和26) 東京大学法学部長を辞める
・1955年(昭和30) 国際法学会の理事長となる
・1957年(昭和32) 東京大学教授を退官、国連国際法委員会委員に就任、東京大学名誉教授の称号を受ける
・1958年(昭和33)8月1日 日本ユネスコ国内委員会委員となる
・1959年(昭和34)10月1日 日本ユネスコ国内委員会副会長となる
・1960年(昭和35)10月25日 第3代最高裁判所長官に就任する
・1961年(昭和36) 国連国際法委員会委員を退任する
・1965年(昭和40) 常設仲裁裁判所判事となる
・1966年(昭和41)8月5日 最高裁判所長官を定年退官する
・1966年(昭和41)11月3日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1974年(昭和49) 津田塾大学理事長となる
・1975年(昭和50)11月3日 文化功労者となる
・1977年(昭和52)4月29日 勲一等旭日桐花大綬章を受章する
・1979年(昭和54) 江南市名誉市民となる
・1980年(昭和57) 日本国際賞準備財団(現在の国際科学技術財団)の理事長となる
・1981年(昭和56)11月3日 文化勲章を受章する
・1983年(昭和58)12月24日 紺綬褒章及び賞杯を受賞する
・1990年(平成2) 日本国際賞準備財団(現在の国際科学技術財団)の会長となる
・1990年(平成2)10月22日 国際科学技術財団会長となる
・1993年(平成5)2月17日 東京において、96歳で亡くなり、叙・従二位、賜・銀杯一組を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1359年(正平14/延文4) | 筑後川の戦いで南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利する(新暦8月29日) | 詳細 |
1926年(大正15) | 東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する | 詳細 |
1949年(昭和24) | 「広島平和記念都市建設法」が公布・施行される | 詳細 |
1955年(昭和30) | 広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される | 詳細 |
1981年(昭和56) | 電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日) | 詳細 |