
佐々木惣一(ささき そういち)は、明治時代前期の1878年(明治11)3月28日に、現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれました。鳥取第一中学校(現在の鳥取西高)、旧制第四高等学校を経て、1903年(明治36)に、京都帝国大学法科大学を卒業します。
その後、同大学講師を経て、1906年(明治39)に助教授となり、1909年(明治42)からドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学しました。帰国後、1913年(大正2)に京都帝国大学法科大学教授となり、法学博士も取得します。憲法および行政法の権威として、天皇機関説、民本主義を主張、美濃部達吉と共に、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍、1916年(大正5)に「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表、1921年(大正10)には、京都帝国大学法学部長となりました。
しかし、1933年(昭和8)に滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守り、転じて、1934年(昭和9)には、立命館大学学長となります。同年の東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護しました。
学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで、大政翼賛会違憲論を主張、1939年(昭和14)には、帝国学士院会員となります。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に内大臣府御用掛として近衛文麿と共に、帝国憲法改正考査に携さわり、いわゆる「佐々木草案」を作成し、翌年には、貴族院議員に勅選され、新憲法審議にも参加しました。
1947年(明治22)から、翌年にかけて、和辻哲郎と国体論争を展開しています。1952年(昭和27)に文化勲章を受章、併せて文化功労者となり、翌年には、京都市名誉市民ともなりました。しかし、1965年(昭和40)8月4日に、京都府京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。
その後、同大学講師を経て、1906年(明治39)に助教授となり、1909年(明治42)からドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学しました。帰国後、1913年(大正2)に京都帝国大学法科大学教授となり、法学博士も取得します。憲法および行政法の権威として、天皇機関説、民本主義を主張、美濃部達吉と共に、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍、1916年(大正5)に「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表、1921年(大正10)には、京都帝国大学法学部長となりました。
しかし、1933年(昭和8)に滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守り、転じて、1934年(昭和9)には、立命館大学学長となります。同年の東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護しました。
学界全体が大政翼賛運動に巻き込まれていくなかで、大政翼賛会違憲論を主張、1939年(昭和14)には、帝国学士院会員となります。太平洋戦争後、1945年(昭和20)に内大臣府御用掛として近衛文麿と共に、帝国憲法改正考査に携さわり、いわゆる「佐々木草案」を作成し、翌年には、貴族院議員に勅選され、新憲法審議にも参加しました。
1947年(明治22)から、翌年にかけて、和辻哲郎と国体論争を展開しています。1952年(昭和27)に文化勲章を受章、併せて文化功労者となり、翌年には、京都市名誉市民ともなりました。しかし、1965年(昭和40)8月4日に、京都府京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。
〇佐々木惣一の主要な著作
・『日本行政法原論』(1920年)
・『立憲非立憲』(1918年)
・『日本憲法要論』(1930年)
・『わが国憲法の独自性』(1943年)
・『日本国憲法論』(1949年)
・『天皇の国家的象徴性』(1949年)
・『憲法学論文選』(1956~57年)
・『法の根本的考察』(1965年)
☆佐々木惣一関係略年表
・1878年(明治11)3月28日 現在の鳥取県鳥取市西町で、佐々木惣三郎の長男として生まれる
・1903年(明治36)7月 京都帝国大学法科大学を卒業する
・1906年(明治39)10月 京都帝国大学法科大学助教授となる
・1909年(明治42)9月 ドイツ、フランス、イギリスへ行政法研究のため3年間留学する
・1913年(大正2)1月 京都帝国大学法科大学教授となる
・1913年(大正2)12月 法学博士となる
・1916年(大正5) 「大阪朝日新聞」の朝刊1面で論文「立憲非立憲」を発表する
・1921年(大正10)4月 京都帝国大学法学部長となる
・1927年(昭和2) 退官した市村光恵に代わって憲法も担当する
・1929年(昭和4)以来 公法研究会、行政法判例研究会などを主宰する
・1933年(昭和8) 滝川幸辰教授の刑法思想をめぐる政府弾圧(滝川事件)に抗議して同僚とともに職を辞し、大学の自治を守る
・1934年(昭和9)3月 立命館大学学長となる
・1934年(昭和9) 東大森戸辰男筆禍事件では、特別弁護人として学問研究の自由を説き森戸を擁護する
・1939年(昭和14)12月 帝国学士院会員となる
・1945年(昭和20)10月 京都帝国大学名誉教授となる
・1945年(昭和20)11月 内大臣府御用掛として憲法改正調査を拝命しいわゆる「佐々木草案」を作成する
・1946年(昭和21)3月 貴族院勅選議員に勅任される(翌年5月2日まで在任)
・1947年(明治22) 和辻哲郎と国体論争を展開する
・1952年(昭和27)11月 文化勲章を受章、併せて文化功労者となる
・1953年(昭和28)11月 京都市名誉市民となる
・1965年(昭和40)8月4日 京都市において87歳で亡くなり、叙正三位、勲一等瑞宝章を追贈される